2010年11月15日月曜日

可能性なのか終着駅なのか

 朝はどんよりとした雲が立ち込めていた。4時間睡眠ぐらいだが、割と早起きをしてシャワーを浴びた。コーヒーを飲んで静かな部屋で読書をしていたら、思わず眠りこけていた。


びっくりして起きてみると、分厚い雲が、空を駆け抜けるように動いている。

ちらほらと青空がその向こうに見え始めていた。

こういう日の低気圧、および気圧の変化は激しい。私の場合、ひどい低気圧が来ると、かならず意識不明になる。それも睡眠薬を飲んだように突然。


晴れ間が見えた頃から、少しばかり気分も良くなってきた。



そして、先日からうわさしていた、オルタナティブスクール、いわばフリースクールの見学に行ってきたのだ。偶然今日はオープンデイで、転入の相談や手続きなどもとりやすい。



当の娘は、気があるのかないのかわからないままである。

先に車に行って、ナヴィゲーションをセットしておくから、後から来てね、と言う。

家を出て、右に進む、うちの通りの家と同じ側に停めてあるわよ、と伝える。

これで、間違える人はいないだろう。

つまり、目の前、右に15メートルぐらいのところに路上駐車していただけの話。


娘は、ひょっこり電話押してきて、徒歩4分ほどのスーパー前にいるという。

なんで???

だってママ、家を出たらまっすぐって言うから、まっすぐ行った、と。

つまり、右に折れず、道を渡って(まっすぐと言う意味らしい)、さらに、目の前の公園を突き抜けて(まっすぐらしい)、右に曲がったらスーパーだったと。


またしても、重症なる認識障害が発覚したが、ここは喧嘩になるのも嫌なので、あきれた思いを抱えつつ、スーパーで拾う。


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学校内は、自宅に毛が生えたような感じであり、それも典型的な演出だと言うことは承知していた。

教師は全員国家資格を所持しているが、レゲエ・アーティストさながらに、髪の毛をフェルト状などにアレンジしているため、とても教師には見えない。

いわゆる、オルタナティブの、ゆるゆるな感じである。しかし大きな好感は覚えた。


話をしてくれたり、娘とじっくり話し合ってくれるのは、社会教育士といわれる資格を持った人々で、これは社会福祉学科で、社会福祉士になるか、社会教育士になるかを選択するのである。

彼らは、ソーシャルワーカーのような、一般社会福祉の法律・事務・相談などの分野ではなく、福祉教育の面でサポートをする役割を担った人々である。

問題児施設、少年院などに配属されていると言うと、聞こえも恐ろしいが、そういう分野だけでなく、主に、地域の青年活動を率いているのが彼らである。教育相談を区のソーシャルワーカーにすると、活動場所やグループを紹介してくれ、そこで実践しているのが教育士の方である。


しかしながら、こういう人がいるというのは、内容の複雑さを証明しているということだ。しかし同時に、じっくり若者と核心を突くような会話をして、必要とあらば更生の道に導く教育を受けている彼らであるため、確かに手の行き届いた部分は大いにあるだろうと期待する。


まるで、問題児の学校かと思うが、そうではなく、普通の家庭で、反権威主義教育に断然賛成している家庭の子供たちは、小学生のときから通っており、問題児と言うレッテルを貼るのは、まったく正しくない。

ここは、特に革新的教育に沿ったカリキュラム、つまり、フリースクールの中でも、規則以外の強制は一切なしと言う、つわもの的存在である。


娘は、今の学校での不満、教師たちとのコミュニケーションの難しさ、自分の怠惰、興味のないことはやりたくないが、少しは良い成績で、就学卒業試験(16歳で受ける統一国家試験 MSA)を収めたいと話している。

ちなみに、このMSAを終えると、普通は職業訓練校に移って、例えば看護師や金融関係の専門職、または職人、または簿記、幼稚園や保育園の先生などの教育課程に進むのである。


ギムナジウムは、今後3年かけて、ABITURを取得し、あるものは大学へ、あるものは高等専門学校へ進む。ABIのあるなしで職種も給与も違ってくるのである。


娘は、まだそこまで考えておらず、音楽をやりたいと言うが、国立バレエ学校や一部の美大などと違って、音大は総合大学と同様にABIを要求する。

この学校には、後一年半しかいられず、その後、ギムナジウム、あるいはABI課程のあるほかのフリースクールに移る。


この学校は、クラス15人足らずだが、その中から何人がABIを取るつもりかは、不明。しかし極少ないであろう。


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学力や家庭環境、社会層は、低層であるという考えはしかし間違っており、ここには、ある種の人種に属するオルタナティブな人々が集まっていると言うだけである。

問題児は、やはりこのまたっくの自発的学習のシステムに合わず、学校側も共同作業ができない場合は、生徒に止めてもらうと言うことは、多々あるらしい。


親は、月々30時間、母子家庭は、15時間学校のために労働しなくてはならない。

参加できない時間は、一時間12ユーロで自由を買うということになる。

忙しい私には、鬼のように厳しい義務だ。


学校周りの掃除、落ち葉の処理、催事の企画に、その際のケーキ、クッキー、サンドイッチ飲み物などの調達。もちろんすべて手作りである。


私は、音楽のレッスンや授業をすることや、事務関係でカバーするつもりだが、骨が折れる。

しかし、自分たちで「独立自尊」の学校を運営するということは、義務があるのである。


このような、筋金入りのオルタナティブの人々の中で、娘が順応できるのか、私がが順応できるのか、まだ分からない。

私は、何度も政治的オルタナティブや、社会的オルタナティブに傾いたことがあるので、若干人々との交流には自信が持てるが、何せ、超自然派・超エコロジー・超反権威主義・超高い自己意識ですから…。



この人々の、ありがちな服装と、ありがちな髪型、そして健康色に満ち溢れた手作りケーキと、様々なハーブティーに囲まれて、私は一瞬、娘にとって、私の価値観にとって、まるで大きな扉が開くような可能性を垣間見た。


しかし、次の瞬間、娘はこの学校でMSAをやれないかもしれない。自主性が芽生えず、MSAがないということは、最下層の学校の卒業証書以下の資格で、社会に放り出される可能性もある。ギムナジウムからの、急降下ドロップアウトにもなりえる選択であることをしっかりと自分に言い聞かせた。


ギムナジウムからレアルシューレに段階を落とすのとは違うのである。

卒業証書や成績評価と言う意識を剥ぎ取った価値観の中で、社会的に順応するために、希望者がMSAを準備するという学校に入れるのである。


しかし私は忍耐だけを鍛え、子供の自主性に任せ、信頼し、教育者たちと密にコンタクトを取り、月15時間学校に尽くし、庭掃除をして、せっせとケーキを焼いていれば良いらしい。

なにしろ娘の自己選択と自己決心と自主性がものを言うのだ。



可能性なのか、終着駅なのか、私としては、かなり覚悟を決めている。

彼女に関しては、当の昔に従来のシステム評価を下すことはあきらめている。

けれど、彼女の前衛的写真技術、子供との交流の機微に優れていること、絶対音感、歌への情熱、社会順応能力、深い洞察力、そして鋼のような自己だけは、評価してやろうと思っている。

どれも長所は表裏一体で、欠点が隠れていることにもなるのだが、今彼女の欠点を並べ立てることには意味はない。


病気でもなく障害があるわけでもない「普通」と言う範囲で、彼女はインディヴィジュアルの本当の意味を体現している。

順応・適応範囲のがけっぷちで、彼女は「世間」の隅に居場所を見つけようともがき、マスとして自分を見られることを拒否し続けている。

親としては、やれるところまで来た感じがある。

後は、後一年半、彼女の本当のやる気、いや生きるエネルギーを鍛えてもらうしかない。


子供時代から、恐るべき受動性で、一切自らは動かず、幼稚園でも二年間一言も言葉を発せず、内股歩きに、それでも自分の世界を守ってきた彼女である。

今、強制や抑圧という殻から解放されることで、自主性を鍛える最後のチャンスなのだと意識し、乗り越えて欲しい。

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