2010年11月22日月曜日

DDRの残骸が残るギムナジウム

 実は、成績も優れない娘が、とうとう登校を完全ボイコットし出してしまった。それぐらい、しゃーない、そういうこともあると見守っていた馬鹿親(私)は、友人の豊富な娘は、いじめらレているわけもないので安心していたが、やはり起きれない、うそが出る、学校と言えば鬱である、授業で何も頭に入らない、と言うのは困る。

話を聞きだそうにも、あいつらが馬鹿の一点張りで、そういうお前こそ、反省のない馬鹿だ!と怒鳴り散らしてたのだが。


何が嫌なのか、言えない。精神的なストレスが、これはおそらく長年記憶に染み付いているなと言うのが私の予想で、いじめではなく、もう先生の顔を見れないほど、嫌悪を感じているという、犬猿の仲的な問題だと察してきた。


これは、娘の適応能力のなさも問題なのだが、今までに話してきた先生との会話を思い浮かべるだけで、私自身が鬱になるほど、釈に障る教師が多いのだ。

化粧をしたり、よそ行きの格好をして学校に行っただけで(仕事帰りだし)、もう白い目なのである。そんなちゃらちゃらした母親!といった偏見。オレは、まったく外見もちゃらちゃらしていないのだが、グレーの景色の中で、消費社会を知らずに生きてきた彼らには、ベトナムではなく、西側で育った私と言うアジア人はそう見えるらしい。


結局、現ギムナジウムと大変なる揉め事になって、担任と話し合うわ、校長と話し合うわ、正式な嘆願書を二通書くわ、頭に血が上りつつ、次の学校を探すやら、探さないやら、とんでもないことのなっているのである。


さらに、ずっと伸ばしてきた長い論文の翻訳が入っており、件の人迷惑な話の尻拭いとして世話になったすさまじい弁護士代も出て行ったので、やはりこういう仕事こそやらねばならず死に物狂いなのである。


おまけに、末っ子の風邪が真ん中に行き、それを私がもらい、憎憎しい娘は、今日も健康体で遊び歩いている。学校の話はするな、と言うのだが。



それにしても、旧DDRとは絡めたくないが、お前ら本当に「教養」ある文化人としての教師なのか?と疑いたくなるような教師にばかりめぐり合う。


娘のギムナジウムは、私が吟味して、ここが良い、あそこが良いと、2,3選出したのは、もう3年以上前の話だ。

校長のアンガージュモン、スポンサーの有無、進学状況、外に向けた広報の姿勢などを見たのだが、目にかなう学校は、いわゆるがり勉校で、認識障害のあると私が勝手に決めている娘には無理だった。


娘は、私の選んだすべての学校にNOを突きつけ、当時近所だった歩いて5分のオンボロみすぼらしい学校に決めたと言う。


そのオープンデイに行って、校長の談話を聞いた私は、こいつダメのお墨付きを下した人だった。

まず、人間としての信じられないような荒さ。アグレッシブなのではなくて、繊細の真逆。おそらく私の会話の99パーセントは理解できないだろうと言う、粗野なプラグマティズム。

人間的会話、と言う言葉は辞書にないだろうなと言う体型と服の趣味。


そして、つばを飛ばして形式上のことをマイクにまくし立てている、そのロボット的、ヒステリー的、一切個人を感じさせない人物像。


機能すれば、いかなる金もかけず、広告精神もひとつもないからこその、薄汚い学校。


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今回、私の戦うべく相手は、この人なのだ。

詳細を書くには、あまりにも腕が腱鞘炎なのと、あまりにも脳みそが疲労しているので書かないが、悉く、法の名の下に、人間的対処を却下されて、娘の問題は、娘自身の性格、しかも、感受性の強いという性質に起因するもので、各教師、該当教師の態度には、なんら問題はなく、よってまったくの顧慮すべきケースには当てはまらず、1月下旬の学期末以前の転校は許されず、あと一日二日、理由なく休んだ場合は、即刻警察に親を訴えて、5000ユーロの罰金を払う羽目になり、青少年課から連絡が行くでしょう、と言う脅しであった。


途中、保険屋から電話が入り、この校長が息せき切ってヒステリックに、相手を責めつつ対応する会話を聞いていたら、軽蔑と言う言葉が浮かんだのだが。


これでも、一応シュトック博士なのである。君らの博士課程っていったいどんなだったの?と聞きたい。


この人もコミュニズムの下、色々と洗脳されちゃって、今更西欧式民主主義的教育なんて無理だろ、と、理解を示して百歩譲っても、この人の人格障害は隠せない。


そして、このような人格障害的教師が、このギムナジウムには多い。


端的に言えば、打ちの娘の馬鹿さ、怠け者さも、すさまじいのだが、その鋭い感性が、この人たちのような、「感」という文字に関係するすべての単語に備わった特性を一切備えていない人物とは、プラスとマイナスのように弾けあって全く合うところがないのである。

文系の先生ならまだ話は分かりそうだが、そうでもない、未だに社会主義的洗脳と現代ロシア語専攻による、感情消滅作戦のような線路を歩いてきた彼らの残骸に驚いているしだいである。


そして、感性の塊であるうちの娘は、心理的な洞察力にも優れているため、とかくプラグマティックな会話にならず、抽象的一本なものの思考と意思表示になる。

そういった娘の感性が、こいつらの気に入らないだろうし、思ってみれば、彼女も三年強の間に、どの教師とも、人間的共感や、シンパシーを受けたこと、交わしたことがないのだと、そう考えると、いくら馬鹿でも、娘がここにいたくない理由も分からなくもない。


フランス語の先生とはまあまあだったが、担任が数学の女性教師、化学のババア教師には、ほとんどモビングされ、体育のジジイ教師は、戦争時代さながらに、女子にも水をぶっ掛けるというから、親も黙っていない。のに、まだ在籍しているところが不思議でならない。これもあの校長のせいなのだ。


そういうわけで、日ごろから私が住めど住めど、脳みその髄まで合理主義の行き渡る人の多いドイツに対する違和感を消しきれないという構図を、娘はまさにDDR時代の残骸のようなギムナジウムというミクロコスモスで体験してしまったわけである。


あの女の非適応度も、世界一級品なので、原因はどっちもどっちだが、私だってこの人たちを軽蔑しただろう。そして、この人たちも、娘にあるだろう少しの価値すら、垣間見たこともないのであろう。


こういうところは、逃げるほうが勝ち。


しかしながら、逃げるにも、逃がしてくれない。

娘だけが悪うございました、と言わなければ、許してくれないし、許してくれても、気の毒に、あんなのじゃ社会は渡り歩けない、という幾ばくかの軽蔑を込めて送り出してくれるのであろう。


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ベルリンの一部のギムナジウムの荒廃ぶりは、目を覆うものがある。

エリート校のはずが、どこがエリートかという余裕のなさで、人道主義的教育も、古典言語に基づいた教育も、何にもありゃしないのである。

あるのは、点数、点数、成績、成績、順番、順番、数字しか本人を示していない。

どこにも、インディビジュアルという言葉が載っていないのである。

生徒は、マスであり、個人としての生徒は、取り扱えない。


うちの娘は、インディビジュアルという点では、群を抜いているので、こんなマス教育はだめだったと反省している。



何を教育してきたのですか?と担任に言われた。

余計なお世話だ。

学校を転校するって言ったって、どこの学校も移民対策で、移民によって追加的問題をこうむりたくないから、学校探しも楽じゃないですよ。

と言える校長は、知識人なのであろうか。文化人なのであろうか。曲がりにも、君は博士なのだろう?

思っていることをそのまま言うのこそ、教養のない労働者じゃない?


この移民問題を、悪気なく口に出せるのが、DDRの人たちで、人種差別というのとも違う。

移民は問題だし、教養がないし、その中でも頭の良い子が出てくるのは事実でも、背景は自分たちよりはるかに気の毒なほど下だと言う世界に生きてきたため仕方ない。

しかし、西側で育った教養ある人間が聞くと、メン玉が飛び出すほど、野卑な物言いに聞こえてしまう。


正直と言う形容詞で、終わらせればいいのでしょうか。



なんにせよ、音楽的才能があるといわれるお嬢さんが、人一倍繊細なのは、非常に納得のいく関連性ではあるけれど、それは個人の特性に原因があると予想できる問題であり、特殊ケースとは扱われず、よって学期中の転校はなし!却下できん!

の一点張り。


ああそうですか、では人道的に見ても、教師が悪いと私も言うつもりはさらさらないけれど、世の中と言うのは、粗野な言動に満ち溢れているので、粗野な人間が自らを振り返る代わりに、感受性の強い人間が、そういった社会に自らを適合させていくのが筋であり、よって娘の性格特性が鍛えられべきと言うのが学校側の主張なのですね、と聞けば、腹を叩いて、その通りですといった校長。


即刻転校にいるものは、何か、これを矢継ぎ早に聞いて、精神科医か心理学者の診断書、もしくは新学校の入学許可を盛ってくれば、無言で成績表をまとめて出してやると言う。

試験期間として、一週間他の学校いくことは認めないと。


そんなこと、他の学校ではどんどん許可しているのにな。



ということで、即刻転校の書類を集めてやりましょうじゃないですかと、笑顔を振りまいて、懇切丁寧に校長に礼を言い、心は阿保か!!と怒鳴りつつ、退出した。


こんな学校、いまどき見たことありません。



これ以上かけないな、今日は。


では、明日は納品なので、忙しい。


また書きます。



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ところで、今日は真ん中息子のギムナジウムのオープンデイで、マチネーでトリオを演奏した息子を聞きに行った。

ここはここで、親の干渉が激しく、シャンデリアの下がったおうちの人たちばかりで、スノッブだらけで、先生も学校も厳しく、息子文句を言われたり、注意を受けたりと面倒なのだが、とにかく現代の文化的オアシスのような威厳があり、行くたびに手の行き届いた良い学校だと実感し、多少、コミュニズム風体育会系の芸術教育に腹は立つのだが、クオリティに文句を言う筋合いはない。


娘の一家の黒い羊振りを考えると、困ったような、かわいそうなような、なぜ、他の兄弟のように、一切勉強に苦労なく、単にやることをやって要領よくついていけないのかと首をかしげる。


しかし、要領にかけては、できの良かった私は、自分というプソイド人間が、一体何を達成したか、と考えると、何かを成し遂げるのは、問題のないできの良い息子どもではなくて、この一点集中型、かつ自分を適応ごときで絶対に曲げない、外の空気など読むつもりもない、コツコツのろま型の娘であろうと、そういうことは思うのである。


そう思うからこそ、学校ってなんぞや???と思うばかりなのである。


知識供給が学校だとしたら、そんなものはイランのではないか?

人間として生き抜く際の、最重要条件は、子供の頃に覚える極単純なことなのである。

本来、倫理、そこから道徳、さらに哲学、さらに神学というものの見方の起点を植えつけてやるのが、ヒューマニズム教育だと思うんですけど、その辺は、教育とは関係なくなってしまった。

本当の意味の教養人がいない。


かといって、改革主義教育でピカピカに磨くセルフエスティームの向上が、本当に人生の役に立つのか、といわれればたいしたことないぜ、という気もする。


一にも二にも、人間は、良心であり、善意であり、またしても良心であると思う。

それが人間教育であり、自己強調、自分教育、そういうのはいかがかなと思う。


そういう自分とは何か?それは大人になっても分からない。

自分を語る先から、それは他者なのだという事実がある以上、そんな自己にこだわっているようではダメだという気もする。



娘の転校先は、キリスト教系になる予定である。


己などささげてしまえ。

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