2011年12月27日火曜日

娘は居残った


よりによって、娘が風邪をこじらせ、明日からの父一家とのイタリア訪問を断念し、私と二人きりで家にいる。よりによって、娘である。
夕食後、息子達を送り届けた後、仕方なく救急薬局へ車を走らせ、副鼻腔炎の薬と痛み止めを買って帰宅した。カプセルを飲めないと泣き崩れる娘を見て、なんとも手のかかる子だなと思うが、病気故に我慢を重ねて、砂糖にカプセルの中身のジェルを含ませて頓服させた。

痛み止めを飲めばもっと酷くなるといい、自室にはクモがいるから寝たくないと泣き叫び、うんうんうなって、それは面倒な患者である。しかし、その姿は具合が悪そうで確かに哀れでもある。親としても義務感が押し寄せて来て、おかゆやヨーグルト等を与え、ホットドリンク形式の痛み止めを飲ませ、ゴミ置き場と化したベッド周囲をマスクと手袋で掃除し、クモ退治も報告したところで、ようやく収まって来た。

母親を独り占めした上で、あれもこれもやって欲しい。普段はその異常なる依存度が、私をイラつかせ、何もしてやるまいという気持ちにさせたのだが、こうして何から何まで面倒を見ていると、結構静かになるものなのだ。
しかし、感謝の気持ちや自立心があるから、少しは一人でやろうと思うだろうとか、これだけやれば、いずれは気が済むだろうなどという考えはまだまだ甘い。何年も依存を続け、なんでもやってくれるという証明をかき集めなければ、彼女は自立できないであろうし、あるいは一生証拠や証明が足りず、信じられず、欠乏感と喪失恐怖から、依存が終わらないかもしれない。

どちらにせよ、人間大人になった子供の世話をすることはできないし、それは自立を妨げるのだから、勝負は今だけだろう。

最近の娘の弱り方は、それでも包囲の壁が崩れたと見ることもできる。何かを立て直すチャンスであるかもしれない。このよりによって娘が病気で年末の私の唯一の休暇に居残った、ということは、どこかで偶然ではないのかもしれない。注意深く見守らなければならないだろう。

2011年12月22日木曜日

告解

午後、上司は北ドイツはニーダーザクセンの故郷へ向かうため早退した。
今週に入って以来、朝の通勤時間帯の渋滞が激減して、30分もかからないうちにオフィスに到着してしまう。皆故郷へ帰ってしまい、東ベルリンの都心に当たる部分には如何にベルリン人が住んでいないのかを実感する。

去年は深い雪につつまれて、車を動かすどころではなかった。どのスーパーにも雪かきスコップが売り切れで、仕舞にスコップを買いに出かける車を出せなくなり、一歩あるけば滑って転ぶような天候の中、アマゾンの特急便でスコップを購入し、二時間あまり車の周りを掘り起こし、それでも発車しないので、玄関のフットマットをタイヤの下に敷いて、発進し、また敷き直して進みということをして、駐車スペースから出たのを覚えている。
こつは、とにかくはまり込むような駐車スペースに入らないことだけだった。

今年は驚くような暖冬で、一度ボタン雪が降ったきり、白い雪は目にしていない。
そのせいかクリスマスというような実感が今ひとつ涌かないのだ。

今朝オフィスに出勤すると、デスクの上に大きな箱が置いてあった。
会社からだと言いつつ、上司と一人の同僚が私に贈り物を用意していてくれたのだ。
チョコレートと赤白ワインを組み合わせたパックで、非常に上品でシャレていた。私がワイン好きで、チョコレートと赤ワインをデザートにするなどという無駄話を覚えていたらしい。

ありがたいことに、この忙しいさなか、私も二人のプレゼントは用意してあったので良かった。一人にはオーディオブックと純粋なホットチョコレートを。上司にはキッシンジャーの書いた新刊本と手に入らないと嘆いていたトワイニングの紅茶をプレゼントした。
頂いた物に見合わないようなもので、申し訳ないと思いつつ、でもお互いにそれぞれの存在を大切にしているのだということが同時に伝わって来て、とても心温まった。

上司が消え去った後、私と向かい合わせに座っている同僚と話し込んでしまった。
彼と私は非常に馬が合う。ついつい話し込んでしまうのだ。
娘との電話での会話を聞かれると、必ずあまりにも冷たい、あれじゃコミュニケーション拒否だよと説教される。

何故、コミュニケーションを拒否することが互いの狂気を回避することに繋がるか、そんなことを説明するのは、家族の裏を明かすことで、娘を裏切るような気もするし、言い逃れのような気もして来る。そう思ってついつい、事情があるのよと口を濁していた。

それでも、もう何ヶ月も向かい合わせに座り、仕事をして、食事をしていると、そうでなくても感性が似ている物同士、色々と分かってくる物なのだ。娘の話題を避けている私から、一言でも何かその日の娘との電話ややり取りについて聞き出すのが彼は天才的に上手い。そうして、今日も一言、昨日も一言、とやっている間に、彼の頭の中の想像が形になってきたらしい。

今日はそのことで始まり、それが世代を超えているある一家の運命として、またはある才能が独立して存在しているかのような「引き継ぎ」があるのだという話にまで至った。私の話は、全く具体性に欠けていて、始終、その出来事や今の道のりが、どこからやって来て、どこへ向かって行くのか、ということ以外語れない。

才能を引き継ぐことは素晴らしいと言う。誰しも、素晴らしい才能にあやかりたいと願い、子供にそれを継承させたいとも思うらしい。
しかし、私には才能というものをそんなに簡単には捉えられない。
人の心を揺さぶるような才能の裏には、必ずコインの裏のように、暗い部分が潜んでいる。その暗い人の目には触れない、所謂ネガティブな部分を一緒に背負う覚悟がなければ、才能等に手を触れてはいけないのである。
世間の求めている才能というののではなく、個人が個人の何かを削ってでも投入し続ける、人にはまねのできない集中力と熱中力で紡ぎ出される何かのことを言おうとしているのだが、上手くは表現できない。

才能の隣に立つというのは、才能から湧き出るカリスマ性に巻き込まれずに、自分をも失わずに、凛と立ち続けていられる強さがなければ、食われて終わりなのである。
そのことを私は一度も問うことなく、世代にまで及ぶような家族の運命とも言える重い物を背負った才能と生きることを引き受けてしまった。

そして、離婚しても、男女の関係を終焉させても、その関係性は一生消えないのである。物の見事に、私達の子供達の世代ににもその黒々しい運命は、人も驚くような才能らしき物と共に、娘の中に引き継がれ、顔を出す機を狙って私の背後に差し迫っていたのである。
そして今、私は夫とは解決できなかった、自分の絶対的な弱さを娘との間に実感せざるを得ないという自体に陥り、苦しんでいるのだが、これも何も、才能という目眩く毒素に身を委ねてしまった過去の残骸なのである。

私の人生が私に何を求めているか分からないけれど、終わっていない、それだけは分かる、それどころか、今始まりのゴングが鳴ったばかりという気すらする。

何を話していたか忘れたが、おそらく世代を超えて引き継がれる才能という正の物の裏には、必ず負がついて回る、それに関する責任を持つ覚悟もなく、才能をある人に勝手に惹かれて、毒された自分の未熟さをせめていたりしたのかもしれない。

私の話術は、決して上手いわけではない。それでも突然同僚が、君の話を聞いていると鳥肌が立つ、と言った。
私は嬉しいとは思わなかった。それよりも、ああ聞いてくれたんだ、共感を持って、この人はこのつまらない超個人的な話を聞いていてくれたんだと言う感謝が涌いて来た。

外は暗くなり、お互いに家路につこうと荷物を鞄をにまとめた。
静かな空気が流れていた。彼は何かに心を打たれ、私も何かに心を打たれていた。
あの人は、私の心に触れることが自然にできるのだ。そして、なかなか大切な話こそ他人には語らない私に、大切な話だけを語らせることができる。
そして、私は知らない間に控えめだが正直に語ってしまう。そして私は、確実に何かに心を動かされ、深い胸の内で、その感動を味わっているのだ。

一目につかないところで、誰からも切り離されて、たったひとりぼっちだと感じながら、毎日毎日子供の顔を見て、色々な出来事を乗り越えて、私なりに私の持っている家庭を守ろうとしている、そう言うつまらない、話題にするに値しない人の生き方に耳を傾けてくれた、その嘘の一切ない素直な態度に心を打たれたのである。

毎日仕事の合間に、電話でなんだって?と嫌みなく聞かれ、私もたった5言で、娘がこんな馬鹿なこと言って、信じられない、あの子の自分勝手は許せない、と言うと、必ず彼は、それにしてもあんな存在拒否のような声で言わなくても、と相づちを打つ。そんなことを繰り返しているうちに、私は何故か、どこかで緊迫した彼女への思いに、すっとすきま風が入って来たのを感じるようになっていたのだ。
それが私を救っていた。

何故彼が今日、こんな話に心打たれたのかは分からない。単に、私の生きる姿に小さな一生懸命さを見たのかもしれない。そして私の話し振りが告解に聞こえたのかもしれない。

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娘は風邪を引いて寝ている。
家へ帰ると、のこのこと寝室から出て来て、お腹がすいた、死にそうだ、こんな物は食べられない、どうしてもあれじゃなければ嫌だ、どうせ私が病気なのが面倒くさいんでしょ、こんな具合悪いのに、一体どこでどう過ごしたらいいの、とうのが永遠に続き、その後、母親のくせに何一つ人のためにせず、一度の私の存在を認めず、愛したこともなく、おやすみと言ったこともなければ、私を助けてくれたこと等一度もない。という行が聞こえて来る頃には、絶叫となり物が飛ぶのである。

気を許して、気安くその場を収めようと優しい言葉等吐いたら、手どころか腕も足ももぎ取って行くような勢いで、一瞬のうちに、彼女の手中に収まってしまう。ああ、ママも分かってくれた、ならコミュニケーションと言えるが、そら見ろ、認めただろうと、状況は更に悪化し、その後何ヶ月も何年も、あのとき謝ったはず、あのとき私のことも分かる、可哀想だって言ったはず、この矛盾した態度はなんだ、となじられ続けるのである。

娘さん、思春期なのよ、などという気楽な言葉は聞くに堪えないから、私は誰にもこの話はしない。あの同僚以外には。

その娘がでも、一瞬機嫌の良い何分間がある。機嫌が良いか、激怒して人をなじり倒すかどちらかしかないのだが、今日、その機嫌の良い何分間かで、突然こんなことを言ったのである。

ママの隣にずっと置いておいてもらえる赤ちゃんに戻りたいなあ。

これはショックであった。
母親の教育や家庭環境が物を言うのは周知の事実であるが、私の問題は、世代間という深さに関係し、特殊な才能を伴った子供の、母親である私の領分を超えた凄まじい存在のエネルギーとの対決という側面も、絶対に抱えているはずだと確信して来た。そしてそこに間違えはないだろう。
しかし、それでも単に「愛し直しなさい。自分を叩き直して、彼女の好きなように愛し直してあげなさい」というだけの問題である気もして来た。

そして、その声がずっとこだましている。

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車中、同僚との暖かい会話の余韻に浸りながら、あんなにかわいい子供達を持った私は、一体これ以上何を求めているのだろうかという一点に考えが集中してしまった。
色々ある。色々あった。色々なことで挫折し、何度も起き上がってきた中で、常に子供達は一緒にいた。いや寄り添ってくれた。
子供に救われ、子供に生かされている。そういうことを実は毎日毎日実感しなくれはいけないのは、この私なのだ。

帰宅して、一生懸命遅い夕食にした。特別なことは何もしなかったが、子供達を見てもイライラしなかった。

娘の心根の優しさは知っている。
娘は私の心根など、凍り付いていると思っているだろう。それは私だけの責任であるという気がして来た。

どう転ぶのか、どっちに行くのか、全く分からない。
自分を叩き直して、愛し直す等、絶対にやるわけがない。それは今から分かっている。私の否を認め、捧げ尽くすことで、搾取されるのはやはり心の健康には良くない。彼女にも、必ず学ぶべきことはあるのだ。
今の私には自分が真面目に必死に生きて行くことを見せるしかできない。優しい言葉も悪用されると、人間与えられなくなって行く。それは身を以て学び、自分を守らなければ、まず生きて行かれないということを知っているからこそ、今の状況では優しい言葉は与えられないのである。彼女も保身し、私も保身している。どこまでも並行線である。

同僚との向き合ったデスクが象徴するように、私は彼を鏡のように見立てて、時々、ぽつっと娘のことを呟く。初めてこの話題が公になった場だった。そのことで、私の中で何かが始動した。もう埋もれさせているばかりではだめだと。

解決も答えもない。

でも車の中で、今日もワイパー越しに見える師走の夜の喧噪を眺めながら、周りが確実に変化しつつあり、少なくとも私はずっと考え続け、ずっと対面し続けていると実感した。毎日車の中で、新たなエネルギーを絞り出し、夕食を待つ子供達の元へ帰宅している。

歌われているように食って飲んで死ぬのだ。
それまで、必死で這いつくばりながらも生き続ける。それだけの話なのだ。


2011年12月18日日曜日

発見の喜び



昨日、今日と色々なことが起こった。それはすべて私の心を深く満たすもので、神から何か贈られたような、心の奥深くから満たされるような出来事であった。

毎日飛ぶように過ぎる中、息子の主科クラスの発表に行った。最後に演奏した息子は、驚くほどに大人になっており、私が14歳の頃には決して表現できなかったような音楽を奏でていた。
練習を見ることも殆どなくなって以来、息子は毎日6時間も練習することがあり、最近の頭の中には音楽のことしかないらしい。
つい最近まで、転校する話が出るほど、音楽の練習を重ねることが苦痛だったのに、驚くような成長振りである。思春期の心の成長は、本当にだんだんとではなく、フェーズごとに突然起こるらしい。

音楽性がない、何も感じていないのではないか、体の動きが伴わない、棒吹きであるなど、散々の評価を得て、彼の心の内を少しでも知る私でさえ、この子には表現するべき何もないのではないかと疑うこともあった。
その息子が、一人前に音楽をし、それこそ一音一音、一フレーズごとへの愛情をこめて、自分なりに先生に忠実に、作曲家の目指したものを尊重しながら、本当にすばらしい演奏をしたのだった。初めて、人の心にも何か触れるものがあったらしく、たくさんのほめ言葉を頂いて、彼も努力と意思の強さを認めてもらったことに満足のようであった。
私は、何も言わずに心の中で震えるような喜びを覚え、息子が「発見」を体験したことを神に感謝したいような気持ちだった。

子供の頃、虫を探して野原を歩き回り、やっと見つけた虫を逃した。日が暮れるまで探し続け、もうあきらめて家に帰ろうとしたときに、再びその虫に出会った時の感動を語っていたのは、数学者の岡潔であった。記憶に残るような発見の喜びというのがある。おそらく、息子の中では、何かこれに近い発見の喜びがあったに違いない。
それ以来、もう音楽のことしか頭にないのである。練習しなければ機嫌が悪く、練習が終われば、ご飯を食べるのも忘れて寝てしまうほど疲労していることが多々あった。
私の記憶には、彼の年頃、これほどの音楽に対する熱中はなかった。それはもっとずっと後のことだったのだ。

彼はおそらくこの先も、この発見の喜びを探し続け、練習を続けて、人の前で吹き、思い通りに行かずに落ち込み、また一からさらい直し、その過程で自分との関係を築き、自分を見つめ、音を通した交流に苦しみ、助けられていくことだろう。
きっとそんな道を息子はたどっていくのだ、もう心配ない、そういう確信が沸き起こったとき、私の心の中は、言い知れぬほどの喜びと感謝にあふれ、もうこれ以上望むことは何もないとまで思えたのだった。

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会社のクリスマスパーティーがあった。そこで得たものもまた大きく、類は友を呼ぶということわざを実感し、交流の楽しみというのを本当に何年かぶりに再発見した。
人に合わせること、会話の調子を合わせることなど、いくらでもできると言いそうになるほど、たくさんの場数を踏んできた。そしてどんな状況でもしり込みすることもなく、無言で取り残されることもなく、それなりに輪に入れるのである。
しかし、その後の疲労感はひどく、その時間に何の「交流」もなされていなかったということだけを確認するといったことばかりだった。
それが、昨晩のパーティーは違ったのだ。そこではたとえそれが場の雰囲気にのまれたものであったとしても、確実に交流があり、共感し合っていたのだ。そしてそこに流れていた空気は、本当に様々な人々から放射されるエネルギーが渦を巻いて溶け込んでいるかのように暖かいものだった。
ここでも、帰宅途中の車の中で、誰にともなく感謝をしたいという欲求が沸き起こり、ある種の感動を持って一日を終えたのである。

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今日も、忙しく招待されて、とある音楽教室の発表会を聞きに行った。
そこでも、同じように小さな輪ができあがり、暖かい空気の流れの中、音楽好きという共通の興味を分かち合う人々が語り合っていた。
私は、彼らの心にも動かされたが、主催者であり、彼らの講師であり、私を招待してくれた人物が、君らのためだけにと、さらっと弾いてくれたピアノの演奏に、それはほんの2分足らずの時間であったが、何度か至福の和声を聞き、何かが本当に癒されたと感じたのである。


私は暖かい人々に囲まれて、本当に幸せなのだろう。
私生活には、苦しいことも、孤独であることも、変わらずに存在し、隠しようのない問題も山積みである。
それでも、私には与えることの許されている家族がいる。こうして様々な人々から得たありがたみこそ、そもそも生きているだけで、こうしたことにめぐり合えるのだという感謝として、家族へ、子供達への新たなるエネルギーへと変換して与えていくことができる。それだけでも非常に幸運なことなのだと思う。

いつも思うのだが、辛いのは、孤独なことでも、困難な問題を抱えていることでもない。
存在の底を揺らがされるような喜びを得たとき、その瞬間に、神なるものに対して感じる感謝を返す人が、隣に存在しないことの辛さ、喜びに震えたときに、隣を振り向いて、分かち合えないことの寂しさは、困難を一人きりで乗り切るよりも遥かに酷なことである。

そういう意味で、私の存在そのものが、真の交流を通して、どこかに共感や、温かみとしての時間を与えているのかもしれない、そうどこかで願い信じられることが、また自分への信頼として返ってくるのであった。

今年は、最後になって、こんな贈り物を得ることができた。
去年もすばらしい年であった。今年も更にすばらしかった。生きていくごとに、どんどんこのすばらしさは増してゆく、今はそんなことを本気で信じられるのである。
それはおそらく、どこかで苦しいときにも歯を食いしばって夢中で生きてきたから、単に毎日生活するなかで、様々な小さな感動を発見できるようになったのだろう。もしくは、幸福への「水位」が年々低くなって、いずれは太陽を見るだけでも幸福だと思えるようになるのかもしれない。
これも、実は発見の能力と関係があるのかもしれない。

誰にともなく、深く感謝をこめて何かを贈りたい、今晩はそういう気分である。





2011年10月29日土曜日

川べり


夕方になると、ライン川の水面に、橙色の光が降り注いだ。緩やかな水の流れに、その光はきらきらとした光線を形作り、本当に宝石が至る所で揺らめいているように見えた。
旧市街のある向こう側の岸辺はにぎやかである。けれど中心部の古い橋を渡ってこちら側に来て、川沿いの道を少しあるくと、こんもりと木の茂る大きな建物が並び、静かな空気に包まれれる。




陽の長くなった初夏、その辺りを子供達をつれてよく歩いたものだった。
末っ子をバギーに乗せて、その後ろに息子を立たせ、娘はバギーの取っ手に必死につかまりながら、小走りで着いてきた。娘がまだ幼稚園だった頃である。

途中で小さなバイクの積荷にアイスの絵が描かれたボックスを乗せて、ジェラートを売り歩くイタリア人によく遭遇した。そのたびに私は必ず子供達のために買ってやった。息子はチョコレートとくるみが好きで、娘はマンゴーだった。末っ子と私はピスターチを分けたものだ。
口の周りをべとべとにして、太陽に赤くなった頬にアイスをほお張る子供達を見ること以上の、平和な気休めはその当時考えられなかった。

意味もなく、川辺をそうして歩き続け、色々な人に遭遇する。アイス売りの叔父さんにはイタリア語で話しかけられ、小さな子供のいる家族連れは、子犬などを引っ張りながら幸せそうにスキップをしている。誰もが長くなった日を楽しみ、日没の後も、テラスに座って夏の夜を楽しみだす頃だった。

私は放心していたのだろう。3月の31日にシェルターに逃げ込み、夫に泣きつかれて家に戻り、彼が目を真っ赤にして、別居を受け入れると言い出してから何日も経っていなかった。
テーブルをひっくり返したり、私を子供の前で引きずりまわしたりした後の、彼なりの降参だった。その憔悴した瞳を見ていたら、別居を強行する自分自身が鬼に見えた。

一方で私自身の限界は極度に達し、悪夢にうなされ、買い物に行くたびに財布をなくしたり、鍵を落としたり、夢遊状態で生きているのとなんら変わりはなかった。
郊外に引っ越したばかりの庭付きの新築の家が、妙にがらんとした風に移り、全てが空虚で望みがなかった。
せっかく手に入れた家も、引越しで二ヶ月も経たないうちに、やはり夜中に練習できないので、この家はダメだ、という言葉を夫から聞いた時、三人の子供達との、小さく小市民的な、気恥ずかしくなるような幸せを求めて、全ての現実的処理を私が担って努力してきた道のりが、一瞬にして否定された。それが別離の理由ではない。しかし、家を手に入れるなど、必要なかった、無駄だったといわれ、当然その罪を再び一気に私一人背負ってしまったことは事実である。

それから真空の世界に一人で存在するような虚無が襲い掛かり、子供達がどれだけ可愛いか、生まれたばかりの末っ子が泣いているのか、泣いているならどれくらいの時間泣き続けているのか、そういったことが、一切分からなくなっていった。
はっきり言うと、私のその頃の記憶が本当に殆どないのである。

自分を責めることは、別居の決心を境に、意識的にしないようにした。それよりも私がまともに息を吸い、まともに子供達と向き合い、おびえることなく生活できる環境を、もう本能的に求めており、そのことに夢中になっていた。その頃出会った見ず知らずの人々のことは、それでもずっと記憶に残っているのである。シェルターに電話をかけ、嗚咽しか出てこなかった私に、大丈夫、私たちが守ってあげますといい続けてくれた電話口の女性、市電の駅で待ち合わせをし、私たちを導いてくれた女性、恥ずかしがらないで、人間には色々なドラマがあるのよと、私の調書を取ってくれた女性。

その時、娘はぼうっとしていた。アパシーのように、お気に入りのモリー・ポニーという馬のぬいぐるみを抱きしめたまま、常にバギーの取っ手を必死に握り締め、私についてきてくれた。私の二の腕にあった幾つもの紫色のあざを、彼女が見たのか見ていないのか私は知らない。でも、彼女はそんなこととは関係なく、まるで全てのストーリーを知っているかのようだった。そして彼女が口を開くことは一切なかった。

シェルターの部屋での夜中、窓から星空が見えた。本当に美しく瞬いていた。遠くに見える家屋の窓には、子供達が切り抜いた切り絵が張ってあったり、モービルが吊り下がったりしているのが見えた。疲労困憊した身体からも、自然に涙があふれかえってきた。あそこにも、ここにも、どこにも家があって家庭がある。当時の私には、帰る家もなければ、家庭もなかった。その時、娘の目がぱっと開いていた。ごめんね、こんなところまで連れてきて。もうすぐおうちに帰ろうね、と声をかけてやったら、娘は私に擦り寄ってきて、ママの行くところならどこでも良いよ、どこまでも行くよ、と小さな声でささやいた。

また、ある時、絶望に嗚咽し、寝室に座り込んだまま何時間も立てなくなってしまった私の元に、幼稚園から帰宅したまま放り出されていた可愛そうな娘が静かにやって来た。そして、一枚の絵を私に差し出したのである。そこには私と三人の子供達が描いてある。彼女は昔から絵が上手く、取り付かれたように一日中描いていた気がする。
私は、急いで涙をぬぐい、目がつぶっているように描かれていた私の顔を見て、彼女に寝ているの?とたずねた。娘は、うんん、ママは泣いているの、と答えた。三人の子供達の顔はどれもニコニコと笑っている。彼女の大好きな父親はそこには描かれていなかった。
私はしばらくその絵を宝物のように額縁に入れて飾っておいた。
眠っているように見えた私は、もう一度見直すと、まるで菩薩のような静を放っていた。
彼女は心に何を抱えて、この絵を描いたのか、私は知る由もない。それは、きっと単にママの元気を願っていただけなのだろう。

彼女は、そういう子供だった。私と精神的に一心同体のようなところがあった。何かが投影されてはいまいか、何か禁じられた悲しみを伝えてしまってはいまいか、そんなことばかり考えていたが、渦中を生きている私には、そうであったとしても、どうすることもできなかったであろう。

引っ越しが済んでからも、私はおびえて暮らした。電話が鳴れば飛び上がり、暗くなれば、いつベルがなり、夫が私に切願して、その感情を決壊させまいかと、びくびくと緊張していた。変なめまいに襲われたり、原因不明の嘔吐に夜通し苦しむということがあった。

それでも日が出ると、私は子供達を連れて、外に出るようになっていた。それがこの初夏だったのだ。緑の葉一枚一枚をあの頃ほど愛おしいと思ったことはない。歩道の脇に生きている小さな蟻一匹をじっと見つけているだけで、そのせかせかと本能に従って生きる姿に、生の命を実感し、立ち止まったまま動けなくなり、終いには座り込んで、蟻の方がよほど自分より優れていると、涙がこぼれてきたこともある。そんな時、私より一歩遅れて、私の横に来てしゃがみ、顔色を覗き込むこともなく、状況を受け入れるかのように、蟻を一緒にじっと見つめてくれたのは娘だった。

あまりにも不意に涙が流れるので、急いで木陰に隠れ、涙をぬぐってまた笑顔を作るのだが、他の二人の息子は何も知らずに、元気に笑い声を立てていても、娘だけはすぐに察知して、私の背後に立っていた。

娘が二歳の頃から始まった帽子を放せない症状、幼稚園時代を通した無言、その無音の視覚的のみの情景を思い浮かべると、いつもこの川べりの光景を思い出す。小さな町で、何年か住めば、隅から隅まで行ったことのある場所となり、知人に会ってしまうような所だった。そして、様々な楽しく、時に耐えがたいほど悲しい思い出が、至るとこにちりばめられていた。そんな中、この川べりは、未だに無音の静かな川の流れとして、私の脳裏に焼きついている。

ライン川の静かな流れに迎合するように、私自身の内面の流れもようやくゆっくりとした速度になりつつあったとも考えられるし、脆くとも新しいスタートを切った私の、私と子供達だけの思い出の散歩道だったのだとも考えられる。

娘の状態が色々と顕著になり、私自身が最近自分を責めることをきっぱりとやめ、彼女自身に振り回される自分や家庭を必死で守ろうという態度になって以来、心の中には悲しみがあふれてくることが多くなった。
闘いを続けている間は、人は必死なのだ。今でも私は生きるという闘いを続けている。しかし、彼女に振り回されることが彼女のためにはならないと、痛いほど理解した時、私は彼女に制止線を引き、自分を守ることを優先しだした。それは別れた夫に対して最後にとった手段と同じである。そして私の得るものは、いつも静けさや平和どころではなく、深まる悲しみばかりなのだ。

ゆらゆら揺れる水面にきらめく光を見つめている私の隣には、緊張したまま、無言で、ママ、ママ、と心の中で呪文を唱えている娘が思い浮かぶ。
今でも、彼女とはこの川の中を一緒に流れているのだと、私はどこかで知っている。
私が悪いと、彼女の盾になり続ける事が、彼女の心の平和をもたらすのなら、どこまでも打たれようと思う。しかし、そうではない。喪失の恐れがあまりに強すぎて、それがエゴや人を支配する行為となってしまう、言ってみれば憐れな彼女に対し、私自身が一人の人間であり、私とあなたは一体ではない、何をしても赦されるわけではないと、突き放しを突きつけることで、彼女に自立をしてもらうしか方法はないのだ。つまり気づきを与えるのだ。
しかし、皮肉なことに、彼女は一番恐れていた喪失、母への信頼の喪失、所属しているから赦されるという逃げの喪失を一気に味わう。
最も失いたくないものを、すがりついたゆえに、失うのである。

母親の責任は問われて当然だが、私は私のプライスを払おうと、日々赦されようなどとは思わないことにしている。
そして、私は彼女をどんなことがあってもあきらめはしない。希望だけは、私が死ぬまで持ち続けても許されるものなのだ。

夫は、義母との交流を絶つことで、逃げた。私は夫への関係を解消することで、状況を無にした。しかし、娘に対しては私からは関係を解消できるはずがない。そして彼女が、私への関係を深く、耐え難い失望の末、絶つだろうと予想はしても望んではいない。

きらめく水面を思い出しながら、彼女はそこに必死で母親の心をつかもうと、無言で立っていた。私はそのことを常に心していなければならない。


2011年10月7日金曜日

Gesichter



昨日、末っ子を連れて久しぶりにどうしても行きたかった美術館の特別展示を鑑賞してきた。

Bode Museumにルネッサンスのイタリアにおける様々なポートレートが展示してあるのだ。
私にとっては、またとない機会である。
待ち時間があるとは噂に聞いていた。オンラインでもチケットの予約ができない。VIPチケットも売り切れているという。そうとうの混み具合だと予想はついたが、いくらなんでも3時間以上ということはあるまいと、昼過ぎに出かけた。
出かけたと言っても、車なら5分で美術館についてしまうのだが、都心の駐車状況は良くないため、多少離れたところに駐車しなければならない。
それでも最後には罰金を取られた。


13時前に並び始めて、13時半にチケットを買ったが、番号は1400番台で、とても16時前には入れないという。そこで通常の展示館内をゆっくり鑑賞することにした。主にゴシックあたりからの教会の礼拝堂の絵画や三連祭壇画などが充実しているが、かなり美しいものもあるので、12世紀から16世紀あたりに興味のある人には一見の価値がある。



ところで私たちは地下の子供用の展示「ドラゴンと英雄達」の一角を訪れ時間をつぶすことにした。ドラゴンが実在していたのか、生物学的に考古学的に証明できるか、などのテーマは一切扱われておらず、10歳までのコーナーにしては子供臭かったが、末っ子は大喜びで遊んでいた。
中国のドラゴンを描いて、花火も添え、城砦を日本の城に見立てて、侍を下に書こうとしていたから、子供のファンタジーは幅広い。



ここまで終えて4時近くになったので、いったん美術館を出て、近所のまずい寿司を食べに行くことにした。
何しろ昨日は木曜日で、22時まで開館しているということを忘れていたのだ。つまりチケット番号と比べてもとても18時前には入れないと分かったのだ。
寿司をもりもり食べた少年は満足して美術館に戻り、18時頃エスプレッソをすすり、隣接している本屋で何冊か買い物をした。そろそろしびれを切らせた息子とともに特別展示に入れたのは19時半。9時直前まで鑑賞して売店でカタログなどを買い、雨の中車に走り帰宅した。

びしょぬれになって、駐車禁止罰金をくらい、疲れきって棒になった足で帰宅したが、末っ子は一日中上機嫌で、鼻歌を歌って寝る準備をしていた。もちろんそれを眺めていて、休みぐらい、こうして何かを一緒にすることで、小さな思い出作りをコツコツしてやらなくてはいけないなと、ちょっと反省した。

上の息子は州立オケの合宿で留守で、娘は相変わらず我が道を突き進んでいる。
来週は上の子が帰宅するので、今度は3人でMartin Gropius Bauで開催されている北斎展に出向こうと思うのだが、これほどの待ち時間がないことを祈る。

内容は、色々とあったのだが後日記したいと思う。

2011年9月24日土曜日

娘の横転ポイント

一日中珍しく家事に精を出し、ワインを一杯飲んだだけで疲労して酔っぱらってしまった。
けれど、夕食前の買い物へ駆け足で行った時、ふと心に浮かんだことを乱文でも書き留めておきたかった。

娘の横転ポイントは果てどこだったのか、いつだったのか、そんなことを考えたことはない。渦中にいると、灯台下暗しのように、何も見えない。今までの道筋も見えなければ、今いる状況が道筋の一体どの辺りに位置しているのかもわからない。

今日は息子の学校の父母会だったのだ。そして生徒達の演奏によるマチネーの後、校長先生からの挨拶があり、その後やっと各クラスに移動するのだが、私自身はマチネーには行かず寝坊し、隠れるように直接クラスの教室に忍び込めば良いと思っていた。

担任の先生の挨拶があり、役員選出の段になって、なんの因果か知らないが、あれよあれよという間に役員になってしまった。反論のしようがなかった。確かにこのクラスでは古株であるが、どこまでこの非政治的な私に、こんな政治的役割が勤まるのか、努力する以外、申し訳が立たないだろう。

父母会の後、仲の良い親達と話していた時、有名なバイオリンの教授の話になった。
彼はベルリンの音大で長年教授職についているが、何しろ才能のある子供を一人前にするので有名な先生で、特別に目のつけられた生徒は、全員この先生のところに門下替えする。そうでなくても、常に実技の先生をこの先生のクラスに変えようと必死になっている親達ばかりである。

近寄りがたいかというと、全くそんなことはなく、学校のオープンデイなどは、何時間もの待ち時間が当たり前という、トライアルレッスンの行列ができるが、名前を書いて申し込みさえすれば、どんな子供でも先生に少しはレッスンしてもらえるのである。


娘が小さかった頃、私はバイオリンをやらせた。彼女がどんな子供になるか、決して想像できなかったが、私はバイオリンという楽器のレパートリーの多さ、そして室内楽や古楽での楽しみを思い、彼女には是非弦楽器をやらせようと思ったのだ。まさか職業にさせるなど、思いもよらなかった。
スイス時代についた先生は、親切だったがメソッド的には色々と問題のある教師だった。しかし私たち親の誰も、真面目にやらせようと思ったことがなかったので、気楽なものだった。
そして、彼女はいかんせん消極的すぎた。人前で大股で歩くことすらできず、挨拶に人の目も見れず、頭を下げる動作さえ恥ずかしく思い、単に歩くという動きだって、ぎこちなく見えるほど、自分の存在に対する感覚が鋭敏すぎた。彼女には、公で一歩足を動かすことが、凡人にとっての道ばたで転んでしまうほどの大げさな動きに感じ取れてしまったのだろう。

そんな子が、楽器を習得することが簡単であるはずがない。
そして私たち夫婦の姿も不安定で、彼女は殻にこもるばかりであった。

ベルリンに来て、初めて何らかのメソッドというものを持った先生についた。
彼女は3年生になっていた。一年後に才能援助試験を受けるよう勧められて、見事に受かり、無料で一時間半のレッスンを受け、音楽理論とオーケストラなどの授業も受けられるようになった。
この才能援助試験を毎年試験を受け直して更新し、公立音楽教室で彼女は優秀だなどと言われるようになった。
私にしてみれば、一切口をきかず、人形のように、棒立ちでバイオリンを弾いていただけだ。音楽に沿った自然の身体の動きなど、私には全く見えなかったのに。

彼女が7年生になった時、弟は有名な音楽ギムナジウムに入学することになった。7年生からギムナジウムに移行するのが通常だが、成績の良い子供達は、すでに5年生からのコースに試験を受けて転校し抜けてしまう。
息子は、そう言う類いの子だったのだ。
その関係でその年、名の知られたこの学校のオープンデイに娘を連れて行った。珍しく前夫が一緒で、娘に絶対にトライアルレッスンを受けるようにと、リストに名前を書き入れてしまった。

そろそろ思春期になっていた彼女は、その時顔面を崩して、この世の終わりのような顔をして、泣きじゃくった。体重全部をかけて地面にへばりつき、何があっても行かないとだだをこねた。
そして珍しくも普段一切子供の教育にも関与せず、非常に優しい父親が、このときとばかり、彼女を強制し、引きずるように連れて行ったのだ。
何の準備もなく、今弾いているVivaldiかなにかを持って行っただけである。

他の子供達はこの日、この有名な教授につくために、もう何ヶ月も前からレパートリーを整えて来た、そう言う背景がある。
我々は、教授の名こそ知っていたが、それがどのような意味を持ち、この教授をめぐってこのような熾烈な競争があるなどとは、露程も知らない、それほど無知であったのだ。
つまり、バイオリンをやらせている親としては、露程の野心もなかったということである。

この教授は優しく娘をレッスンし、
「何一つ間違った奏法もなければ、まだまだ聞こえないが、あなたの中には、驚くほど繊細な音楽が宿っていることも、フレージングを聞いていれば分かります。」
と非常に優しい声色で話し始めた。
小さく震えるような娘の肩越しにかがみ込んで、
「でもね、よく考えてごらん。ここにいる子供達は、おそらく君の4倍ぐらいは多く練習しているはずだよ。君が7年生だとすると、君のこの学校での実力は5年生ぐらいだろうし、それも入れるかどうか分からない、そういったレベルなんだ。バイオリンを止めないでおくれ、でも、この学校に入りたいと君がいうんだったら、今日から最低2時間練習して、二年間頑張って遅れを取り戻してご覧なさい。そうしたらまた会えるかもしれないね。」

そう言って、ごく短いトライアルレッスンは終わった。

私は満足だった。娘も頑張ったし、父親も満足だった。こんな一流の学校にバイオリンで入れるとは思ってもいなかったのだ。つまり入れるつもりすらなかった。


……

しかし今日閃いたのは、彼女の横転ポイントは間違えなく、このトライアルだったということだ。
あれが、親から受けた強制の最たるものであり、それは5歳の時からずっと握らされて来たバイオリンという強制の総集編のような力を持って、彼女の意志、いや反抗心を目覚めさせた。

その後、彼女は才能援助試験から、いよいよ音大準備コースに移行すべき試験を受けるよう言われていたのだが、その試験を更新できなかった。やる気がなく、棒立ちに、不機嫌な顔をして、単に舞台に上がったというだけの、見せつけるような酷い試験だった。親として恥をかかされたと言っても良い。
試験のために、彼女は一切練習をしなかったし、バイオリンのレッスンを私の知らないところでサボってさえいたのだ。
言うことを聞き、母親の趣味の服を着て、宿題もし、バイオリンの稽古もして、理論もオーケストラもやって来た彼女が、突然転がるようにすべてをなげうった。

間もなく成績は急降下になり、私との関係は悪化し、彼女と私との確執がいよいよ表面化した。
思春期というせいもあるが、つまり人格形成の時期が来て、彼女の「消極的」な姿は消え去ってしまった。代わりに、猛烈な反抗心が芽生えたのである。

抑圧されていたものの、それでも母親の言うことに依存し、しがみついていれば良いという安心を彼女は求めていた。あまりの感受性に、しかし重圧感も自分の思いも、気分すら一切表現することのできない子だった。その彼女がこれを機に、極端な内気さに突然別れを告げたのだ。

その後のことは、ここに記録するまでもなく、今現在もなお進行中である。
彼女のその後の進展は、また改めて書くべきであろう。

今日父母会に行ってあの教授の名を聞かなかったら、息せき切って子供達の夕食のために買い物に急いでいた先ほど、あの出来事こそ彼女のターニングポイントならぬ横転ポイントだったとは気づかなかったはずだ。

実は、あの教授のあの言葉は、彼女には信じられないほどの屈辱だったのである。
やりたくもないバイオリンを10年近くやらされ、受けたくもない試験を受けさせられて、半ばできの良い子さながらに扱われる、言いようのない苦痛と違和感。
そして挙げ句の果てに、世界でも有名なこの教授の公開レッスンにまで強制されて、そしてかけられた言葉に、彼女は文字通り打ちのめされた。
もちろん、こうした今までの道筋があったから、屈辱と受け取ったというのもある。

しかし、真実は違うのではないか。
あの子供目線で、優しい声音を持った教授こそ、実は魔物のように厳しい人間なのだ。
彼のあの言葉は、言うなれば「君など話にならない」という言葉に、人間としての社交能力を持った人の親切な仮面をつけた言葉でしかなかった。
それを勘の鋭い娘は親より早く悟ったのである。
そして、それは必ずしも必要な最後通達ではなかった。親に強制されて来た道のりに対する最後通達である。
それをまた「意訳」すれば、「こんなものは止めて、君の道を歩みなさい」ということであったのだ。
「君がこの学校に来たいのなら、練習しなさい。」これが全てを言い表している。
馬鹿な素人の親が、何の常識もなく、こんな先生に縋り付くように連れて行った、そういう図式だったかもしれない。そして実際私たちは、何の期待も、何の脈略もなく、祭りの一つで行った訳だが、「無意識」という領域の話になると、父親があれだけ固辞して譲らなかったのは、受動的な彼女に「さあ大人になりなさい」という切り札を与えた、ということもできるかもしれない。そして自分こそ誰にも劣らぬプロの演奏家である彼は「無意識」に、この教授の娘に言うだろう言葉を知っていたのである。やはり、何の勝手も知らない素人の親というはずはないのである。


そして、買い物に汗を流し、早歩きに家に急いでいる間、あれだけ受動的だった彼女には、強制という形でしか、行動を促進することはできなかったのだ、という言い訳めいた、しかしながら真実を自分に言聞かせつつ、やはり申し訳ない、申し訳ない、申し訳なかった、そう思ったのである。

子供に期待しない親はあり得ない。
子供に期待するなということは不可能である。
だからこそ、この言葉を常に意識して、子供には夢を託すまい、私の価値観を塗り付けまいと思って来たのに、それでも私はおとなしい娘だからこそ、塗り絵のように彼女を扱っていたのだ。
そして、指一本人前で動かすことさえ、大げさすぎて恥ずかしいという異常な内気さを見せていた彼女の、内なるエネルギーと良い意味も含めたエゴは、誰にも勝るとも劣らぬほど強烈である。

人間とは、本当に摩訶不思議だ。
子供の小さかった時分に、私は子育ての失敗を幾つも犯したろう。
でも、精一杯だったのよ、ママも、という情けない一言で許しを請うことしかできない。

今の私の姿は、私の親としての失敗部分の結果である。
他の子供とは順調であるのに、なぜ、彼女とは?
そういう疑問もあるが、人間には相性というものもあると、いくら親子でも実感せざるを得ない。

しかし、彼女のような存在が私になにを課題として突きつけているかと言えば、親として彼女の強さに負けている私が、自分を鍛えるべきだというメッセージでもあるし、自由人の振りをして、相変わらず既成価値に捕われている私を、本当の意味で解放するための、象徴的対戦相手として存在しているということは薄々分かっている。

難しい娘、確執の深いこの関係を恨むより、挑まれた闘いを親として健全に受けて全うするしかない。

それが、彼女に対する、許してね、というメッセージになるのではないか。

ということで、備忘録としたい。




2011年9月17日土曜日

書きなぐり

あまりやりきれないので愚痴を書こう。

人にも言えない悩みというのがあって、それはプライドから言えないのではなくて、言ってしまうことが私自身の倫理に関わるような気がするのと、この話は家族以外、つまり私と子供達以外の誰も知るべきではないという 本能が働く。

それでも精神的にはかなり苦しい。
解決もなく、見通しもなく、その道の専門家にさえ絶対に分からないという直感だとしても強い確信がある。

命に対する愛情というのは、ほとばしるのだが、言葉が全ての良きものも破壊してしまうというその恐ろしさに、時々口をつぐみ、言葉を憎む。
しかし、言葉がなければ生きてもいかれない。

そして、夏前に身体を痛めたこともあり、この数年続けてきた仕事のあり方を整理した。
週末に何もなかったことは数えるほどしかなく、フリーランスのオーバーワークは恐るべき力で、家庭の楽しみを奪っていくと実感した。
仕事を納品しても、オファーの調節、断り、請求書の送信、チームの他の訳者の進行を打診し、質問に答え、クライアントへの質問状をまとめ、クライアントのケアもしなくてはならない。そこに、子供達の学校関係の行事、家事、家計の振込みやら子供達と私の医者や歯科のアポイントメント、自己負担の振込み、保険会社とのコンタクト、更には音楽教室の生徒の調整に、楽譜やマテリアルの調達、日常の買い物、各分別ごみ捨て、そして末っ子の宿題に練習にレッスンの送り迎え。

時間はいくらあっても足らず、一番辛かったのは、7時で仕事を終わりにできないことだった。
ここで終わりという区切りが絶対にない。金曜4時に入ったオファーにも、返事のメールは書かねばならない。客相手とはそういうことだ。

そういうしているうちに、心理的にも身体的にも限界が来た。
秋休みは10月の最初の二週間で終わる。その二週間、私は完全休暇をとった。
そして、音楽教室を9月いっぱいでやめることにした。
そしてオファーのあった翻訳会社で、訳者ではなく翻訳マネージャーとして働くことにした。
そう、つまらぬ正社員になったのだ。
そこで
「あなたが4時にいなくなった後の納品がある場合は、われわれに引き継いでください」
といわれた時には、これは世界が変わると思ったものだ。

そして今最後のプロジェクトの納品前、一生懸命急いで訳している。
これが大型だったため、8月からやっているのだが、やりながらホトホト嫌になり、その発展性のないフリーの立場に失望し、就職先を探していた。
ありがたいことに、時が熟していたのか、トントンと話が進んだ。

来週は新しい車も来る。

しかし、人には言えない悩みは、どんどん深みを増していく。
どこからエネルギーを補給しようかと思って、ここに来て、単に書きなぐった。
人の読めるスペースにこのような愚痴を書くことに、ひそかなる期待があるのかもしれないと、自分で想像しただけで、更に吐き気がして落ち込むが、最近はもう再生することもできずに、常に限界のあたりをさまよって這い上がれずにいるので、こうでもするしかなかった。


鬱どころか、気分は良好なのに、とにかくすさまじい疲労感に押しつぶされそうで、家から出たくない、動けない、料理できない、それどころか食欲すらない。


10月から改善することを祈っている。





2011年9月11日日曜日

故郷

やっと書きたい、何かを書かねば—何の具体的な内容がある訳でもないが、漠然とそういう気持ちが込み上げて来た。

麻痺していたと思われた感覚は、まだ生きている。

日本へ帰った。
楽しかった。
そして悲しかった。
ドイツへ帰って来た。
ホッとした。
そして何かを忘れて来たかのように、
未だに日本を引きずっている。

それは、多分今回の帰国がとても普通の帰国とは言えない、そういう感覚が自分の中にあったからなのだろうと思う。

あの日、私は前日まで仕事を抱えており、夜は息子の学校のオケの演奏会があって、忙しさに疲労を感じるまでもなく、トランクに多くの不要なものを詰め込み、多くの必要な物を自宅に置いたまま飛行機上に急いだ。

嬉しいのかと自分に聞けば、嬉しいとはっきり答えられるような気分ではなかった。
帰国したくない、そういう気持ちさえ強く感じていた。
それは、いつかは帰国すると、去年心に強く誓った日本と、滞在後にもう一度別れるのが辛かったからである。
しかし、何でも回避するわけにはいかない。
生きている間、傷つくと知っていても、やはりそれより重要なことというのがあるのだ。

飛行機に乗って、食事前にトマトジュースを頼んだ。
食事が来ても、ワインを頼む気もしない。
心は成田に飛んでおり、家族のもとにすでに到着しているのに、気分は一向に楽しくない。ある種の不安がつきまとっている。
私は食事を丸ごと残し、映画も見ずに、本を読んでは休み、また読んではウトウトとしていた。

日本のパスポートが切れて何年間も経ってしまった子供達は、外国人として入国する。
成田の入国審査で、外人の方に並んでいたら、中年のおじさんがやって来て、「お母さん、何事も経験だから、子供達に入国審査のカードを書かせて、お母さんは日本人として入国してください」と言われる。
その、少し馴れ馴れしい感じ、私より小さい背丈、そして熱心に子供達に日本語でカードを書かせている姿、そういったものに、私は大きく心を動かされて「故郷」というものを熱く実感した。
私は日本人として入国、そして子供達は外国人でありながら、日本語でおじさんから親切な案内を受けている。

成田に着いた途端に、私はリラックスしているのを実感した。もう肩肘張らなくても良いのだ。


のどを乾かした子供達に、いつも通りフレッシュジュースを買い与えて、私もキウイのジュースをすすりながらリムジンバスのチケットを買い、自動ドアの外に出る。

乳白色の空の下に、見慣れた成田の風景と、肌が知っているあの湿った生暖かい空気を感じた。バスの時間まであと一時間もある。
そうして私たちは、誰も座っていないベンチに腰掛けた。

いつもなら、この辺で少しずつ、帰国の時間が涌き、心が踊ってくるものだが、今回はそうではなかった。
ジュースをすすりながら、バスの案内をする若い従業員達を観察し、次々とドアから吹き出してくる、旅行帰りの到着客の姿を見ていたら、足下が震えるほど悲しくなって来た。

この国土で4ヶ月前、あの信じがたい震災が起き、大地が揺れ、ここから地続きのあの三陸で、多くの人々が一瞬にして、多くの想像を絶する「もの」を失い、何百キロにわたって一斉に悲しみに包まれ、何トンにも及ぶ涙が流された。そう思っただけで、ジュースを飲みながら、その目が滲んで来たのだった。

私は、実に遠くからあの光景を見ているだけだったが、その時まで、自分の日常に食い込むほど傷ついていたは知らなかったのである。
実感のしようがなかった。

あの朝、私はいつものごとく、6時半頃眠い目をこすりながら、手元のiPhoneを取って、グーグルニュースを見た。その時は何の変化もなかったのだ。
子供達が学校へ出て行ったのが8時前で、その後PCのスイッチを入れ、本格的に新聞閲覧を開始した。すると、東北地方で大地震という記事が目に入り、それからすぐにUStreamに移行して、NHKで一部始終を目にしたのである。あの緊急地震速報の音と、あのアナウンサーのうわずった声とともに。

仕事に行った後も、心ここにあらずで何も手につかない。
それから毎日毎日、恐るべき量の映像と情報を吸収し、自分の子供達との日常を維持するのが精一杯だった。
誰とも話す気も、どこにも何かを書く気も、外に出る気もなくなった。

しばらくして、息子が音楽コンクールに出る準備で忙しくなり、会場まで泊まりがけで遠出したり、仕事が重なったり、夏休み前の生徒評価や発表会に、分刻みの予定をこなす生活を強いられた。
気がついたら、左半身が固くなり、鍋を持つこともできない、タイプすることも、ピアノを弾くこともできなくなり、挙げ句の果てに座っていることもままならなくなり、医者に駆け込んだ。

あの痛みは尋常ではなかった。
生徒の親と話していても、同僚と話していても、あまりの痛みで言葉を止め、うめき、結局人の話もまったく集中できくなってしまった。
誰とも口をきかない、誰にも私のことを語らない、話しかけさせない、それにはうってつけの症状だったのである。

診断は、頸肩腕症候群、頸椎ヘルニアの疑いということで帰国の運びとなり、詳しいことは分からずじまいだった。撮ったレントゲンも私には解読できない。

今思えば、あれは仕事のストレス、子供達の予定のストレスだけだったのではないと思う。
あの震災の後、確実に私の心の中で何かが壊れ、何かが泣いたままになっていたのだ。それはドイツでの心ない、傲慢で、批判精神に長け、ヒステリーを起こした、ものによっては無礼とも言える報道を強制的に目にしてしまったことにも、一因があるのかもしれない。
そして離婚届を出した収入のない元夫が、ここぞとばかりに、こともあろうに私の愛読新聞に次々と、20年以上日本に住んだことのない私から聞き集めた恥ずかしくなるような稚拙な知識まで盛り込んで、即席日本評論家になりすまし、幾つもの記事を投稿したことにも関係があるのかもしれない。そして、その記事はすべて、血も涙もない西洋至上主義に基づいた、日本人とその危機に面した政治批判に始終していたのだ。




日本に帰国して間もなく、高額の針治療をベルリンで受けたにもかかわらず、なかなか引かなかった痛みが減った。それは私の心配していた、私の心の中の唯一の関心ごとだった故郷の土を自分で踏み、人々に触れ、自分のこの目で確かめたことが救ったのではないだろうか。つまり心はまるで気体のように、何千マイルも離れた生まれ故郷に飛んだまま、ここには魂を失った身体しかいなかったのである。だから身体はすぐに異常を来した。

書きたいことは色々ある。
日本の心の問題、感情の問題、そして当地の議論に耐える秩序と論理そして裏返しの非情と傲慢。

しかし、今日はここで一区切りつけたい。
なぜなら、震災から6ヶ月経った今、私自身のあの謎の身体的痛みが、どこに発して、何故日本で消滅したのか、それを思いもよらぬ震災に関係づけ、それほど、遠方にいても私の心が傷ついていたのだと、それが分かっただけで、良いのだと思う。
身体がどこにあっても、故郷は否定できない。
猿真似で西洋人になり、その文化を肌の下まで吸収しても、心というのはその所属を変えられないらしい。
それは私だけの存在と生ではなく、私以前の何かと今でもずっと続き、それが私の子供達にも伝わっている何かなのだと感じざるを得ない。

震災の話や写真を見ると、今でも呼吸が速くなり、急ぎ足で、帰らねば、といういても立ってもいられない気持ちになる。しかし、私はそのとき、言いようのない暖かい気持ちに包まれるのだ。
私には、属する場所と、帰ってゆけば、誰にも何も言われずにお帰りなさいと言ってもらえる場所がある。
お帰りなさい、今その言葉を聞いた途端に泣き出してしまいそうだが、遠くに住んでいるからこそ、私はこれだけの思いを故郷というものにかけられるのだろうと思う。
田舎が欲しい、小学生の頃から常にそう思っていた私の、田舎への憧れは終わることがなかった。帰省できる家も土地もなかった私には、故郷ということばの響きはまさに憧れであった。
そして、横浜生まれ、東京育ちの私にも、こうして今いずれ帰ると心に決めている故郷がある。
それを糧に毎日を生きている。



2011年6月6日月曜日

連休明け症候群

4日間の連休を終えて、再び仕事を始める。空気は先週とは打って変わってしまった。
真夏のような気温と、午後に突然やってくる激しい夕立。そして夕立が去った後の、さわやかな夜の始まり。明るい戸外に飛び出して、ビールや白ワインをあおる人々。夜には見えなかった子供達の姿も、あちこちに見られるようになった。そして当然、子供達があれば、そのに見える家族の面々。

先週は、春であったが、今週はもう夏なのだ。そう言えばもう6月なのだ。

窓を全開にして車を走らせる。ハンドル捌きを楽しみながら、すべりの良さを実感して、車内に巻き込む風を感じる。そうすると、心がだんだん浮いてくるから不思議だ。

小さな幸せ、日常の彩を感じて、満足感を得ても、そこには決して姿を消すことのない孤独が常に寄り添っている。

窓から顔を出して、一気に駐車したときに、感じの良い父親と男と子が、「お~ぅ」と声を上げて、私の躁病的ハンドル捌きを眺めていた。
仕事帰りの開放感もあり、にっこりと微笑む。そして微笑みあう。
彼らの夜を思い、彼らの家庭を思う。
勢い良く開けた家の扉の中は、しかし静まり返っている。子供達が留守をしている私の今晩の生活や家庭は、ひっそりと姿を消してしまった。

キッチンに入り、ビールを一杯飲む。
ラジオをつける。いつもの番組をいつものDJが巧みなトークで放送している。
安心感が少し舞い戻るのだが、自分ひとりで食べる夕食のなんと味気ないことだろう。

文句ばかり言うけど、子供達に食事を作ることが、面倒だという意識の裏で、どれだけの支えになっているのか気が付く。

欠けているものはない。
何かを欲してもいない。
何かを期待する人すらいない気楽を知っているし、
淋しいという言葉はとうに辞書から消し去った。

けれど、風に吹かれて車を飛ばす私からも、仕事帰りに同僚を見つけて、笑顔で挨拶する私からも、末っ子を迎えに行って、連れ帰るときにスキップをする私からも、花粉が飛び散るようなエネルギーが湧き出ているのだろう。
そういう季節がやってきたのだ。

そしてこぼれる花粉が、ただただ私の周囲に落ちては吹き飛ばされるばかりで、何の実にもなっていない、そういう思いがあって、それが孤独感なのかもしれないと気が付き、少し疲労を感じている。

誰と分かち合うことが出来なくても、誰かの実になることが出来なくても、人間はこうしていつも季節によって、花粉や電磁波を放っているのだろう。その姿を心に描いてみたら、突然涙が沸いてくる。
なんとも、気の毒な姿だろうか。

それでも私は何も欲せずに、何も期待せずに、何も欠けていないと断言して前進するしか、選択肢がない。好きで強いのではないのだ。そう生きるしか他に道がないのだ。

そして分かち合えなかった、または実になることのできなかった有り余ったエネルギーは、夜の不安や、突然の涙や、思いがけない怒りとなって、消化されていく。

それこそ、本当に惨めに映るものだと実感している。

しかし、誰も気が付いていない。
ありがたいことに。

2011年6月3日金曜日

昔の投稿整理

古い時代の日記を忘れずに幾つかアップしようと思った。
HDDを整理していたら、色々と見つかったので、失くす前にアップしておく。
昔はバックアップと言えば、外付けHDDだったわけだが、それすら何年かの寿命で突然お陀仏することもあり、CD-ROMへの保存もなくしてしまう危険性、PCを変えると文字化けする危険性などを考えると、サーバーに置いておくのが安全ではないかと思うようになって来た。
2005~7年あたりのものである。今後、幾つか、映画、本、音楽に限って続いてアップするつもり。

興味のある項目があれば、今後追ってどうぞ覗いてみてください。

2011年5月27日金曜日

All Those Years Ago

レノンやビートルズに興味のなっかたには、一切面白くもない話である。

レノンが亡くなった後、長い間悲しみに打ちひしがれながら、私は何度この曲を聞き返したかわからない。

ハリスンの歌は、特に好きなわけではないが、ソロになってから随分と個性を伸ばし、才能を明らかにしていった気がする。
名曲が幾つか残され、私は My Sweet Lord など、カセットが擦り切れて切れてしまうまで、巻き戻して聞いていた。

ビートルズでは、他の二人に圧倒されていたが、ソロになって以来彼の内向的性質が、とても良い形で歌に、そして歌詞に出てきたのだろう。

今朝、仕事をしながらラジオで突然この All Those Years Ago がかかって、一瞬にして深い悲しみへと突き落とされてしまった。
あの頃、ウォークマンなどはなく、買ってもらったばかりの安物のモノラルのカセット レコーダーを机の上に置き宿題をして、ベッドの傍らに置きこの曲とともに眠りに入ったのを覚えている。

当時子どもだった私は、リリックを見ながら曲を楽しむと言うまでのレベルには達しておらず、メロディーを口ずさんでは、その内容を言葉の断片から想像して味わっていた。
それでも十分だったのだが、今日こうしてリリックを改めて読んでみて、その深さに驚いている。

レノンは、70年代のインタビューで、ハリスンすら洋子との関係には嫌な冗談を言ったり、嫌味を言うようなことがあり、唯一スターキー(リンゴ)と当時の妻、モーリーンだけがレノンの愛情問題に一言も口を出さなかったと言っている。
しかし、彼らの仲は決して悪かったわけではない。ビートルズ当時も、ツアー中二人は常に同室だった。ハリスンのシニカルなウィットは、レノンの気に入っていた。気難しく内向的なハリスンが、タフだが実は同じく内向的な面を強く持っているレノンに惹かれ、レノンがハリスンのそのような性質に目を向け、理解を示し尊重していたのではないだろうか。

そんな程度のことしか現時点では言えない。すべて憶測でしかないので、この辺はもう少し本を読み込んで検証したいと思っている。大変興味深い関係なのだ。

そして今回このリリックを読んで、涙が出てきた。
それは、もちろんこの曲自体の美しさ、素直さでもあるのだが、短い歌詞の中に、ハリスンがやはりレノンの本質を理解し、そしてそれを愛していたと確信させるものがあったのだ。


以下に気になるところを書いてみる。
文章そのものとは関係ないので、訳ではない。

「愛を叫んでいたけど、皆君を犬のように扱って。でも君ほどはっきりとそれをやった奴はいない」

「与えるとは何か、と語っていたけど、あまり正直に行動する奴はいなかった。でも君が愛こそはすべてと言った時、本気で真のやり方を指差していた。」

「良い時も悪い時も、君のことばかり見上げていた。今じゃ皆を傷つけたあの悪魔の親友が去って、寒さと悲しさしか残ってない」

「今では誰も神のことなんか忘れて、だから存在できるのに、あいつらの言うことはおかしいと、それを最初に言ったのは君だった。」

「皆が聞く耳を持っているわけじゃないのに、君はあえてそれを言った。もうずっとずっと前に。」

「そして君こそが、僕らの笑いと悲しみを支配していたのだ。」

レノンの当たって砕けろ的な、ストレートで純粋な姿が沸き起こるようなリリックである。
そして、彼の生きたことの核心を言い当てている。

You had control of our smiles and our tears

これは、おそらく本音なのだろう。そして知り合った頃から、本当にそうだったのに違いない。
ずっと振り回され続け、ずっと追い続けてきた姿を見て取れる。

ハリスンは、本当にレノンをあがめていたのだろうと思う。
だからこそ、レノンに傷つけられ、時に憎み喧嘩をしたが、それはハリスンがレノンの後をずっとついて行ったからである。

そして、そのハリスンも随分前に亡くなってしまった。

余談になるが、マッカートニーのトリビュートもので心に触れるものはなぜかない。
私個人の趣味の問題でもあるのかもしれないが、彼の性質は本当に合わないなと自分でも思う。

やはり彼自身が裸になって、自分の血の出る心臓を差し出しても、本気で語る、ということをしない人間なのである。
彼を庇護する為に言えば、そのようなものを持っていない、つまり与えないというわけでは決してない。
マッカートニーも、絶対に心臓を差し出しても守るものを持っているはずだし、投げ打っても本音を言わねばならない場面で、それを行ったことがあると、私は信じている。
しかし、彼は内面へあえて踏み込むことはしないのであろう。

そして、レノンを愛していたかどうか、その確信を今のところ得るには至っていない。

様々な方面から、やはり早く亡くなってしまったモーリーンがとても良い人間だったと聞く。
そのことも、スターキーの人間性を理解する上で、大切な部分となりそうなので、これもまたいずれ考えてみたい問題だ。
プライベートの写真などを見る限り、スターキーはシンプルで、ど正直である。

マッカートニーは、3度目の結婚に踏み込むそうであるが、今度のお相手は見るからにお似合いである。おそらく人生最後の伴侶となるのではないだろうか。
彼は、人間であるという以前に、ShowBizの人間であるという前提の方が先に来てしまう。そんなプロフェッショナルな男なのだ。

では、淋しい心を切り替えて、日常へ舞い戻ろう。







Im shouting all about love
While they treated you like a dog
When you were the one who had made it
So clear
All those years ago.

Im talking all about how to give
They dont act with much honesty
But you point the way to the truth when you say
All you need is love.

Living with good and bad
I always look up to you
Now were left cold and sad
By someone the devils best friend
Someone who offended all.

Were living in a bad dream
Theyve forgotten all about mankind
And you were the one they backed up to
The wall
All those years ago
You were the one who imagined it all
All those years ago.

Deep in the darkest night
I send out a prayer to you
Now in the world of light
Where the spirit free of the lies
And all else that we despised.

Theyve forgotten all about god
Hes the only reason we exist
Yet you were the one that they said was
So weird
All those years ago
You said it all though not many had ears
All those years ago
You had control of our smiles and our tears
All those years ago

2011年5月16日月曜日

コンプレックスからの解放は、コンプレックスを受け入れること

敏感であるということは、生きる上ではあまり意味がない。

最近、自分を認めてやろうという部分も理解できるようになったが、その代わり全然ダメであるというところも浮き上がってきて、暫しため息をついている。

娘の学校は、両親が様々な作業に参加することになっている。
先日、春先の敷地内大掃除の当番が回ってきた。天気もすばらしく、春らしいそよ風も吹いている。嫌がる娘を引き連れて、学校まで行った。
他に3、4人の親たちも集まってきた。リストで作業分担を行い、それぞれ黙々と作業に取り掛かる。
私は複数のガレージ掃除と、校庭に当たる庭全体の落ち葉やごみなどを取り除くことを受け持った。

巨大なほうきを生まれて初めて手にした。
そしてもくもくと掃き掃除をする。砂埃にまみれ、頭上では小鳥がさえずっている。
時折、気持ちの良い風が吹き、スプリンクラーの水しぶきが身体に降りかかるのが気持ちよい。
次には、生まれて初めて熊手を使って、砂の表面を掃除した。

気がつくと一時間以上たっており、休みなく働いた私の手のひらは、重いほうきと熊手のせいで赤くなっていた。
木陰にたたずんで、豆となりかけている手のひらをこすりながら、何か懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
そうだ、子供時代である。
子供時代には、日が翳り肌寒くなるまで外で遊んでいた。鉄棒の好きだった私の手のひらには常に豆があった。そして友人と別れて、帰宅する途中に、太陽の光と、そよ風と、髪の毛にしみこんだ太陽の匂いを身体全体で感じ取りながら、妙な満足感を抱いてトコトコと帰宅したのだった。
あの頃の一瞬がよみがえったような気がした。

一通りの仕事を終えて、きれいになった庭を見回した時、小さな心地よい達成感があった。
あれだけ嫌がっていた娘も、一人見つけた友人と、黙々と落ち葉集めを行っていた。
こういう作業は、集中力を促す。そしてまるで瞑想のように、何も考えずに、すべての些事を忘れて、庭の掃除のために使用している道具の扱いに専念できたのだった。

娘の友人も送り届け、帰宅してから念入りに手を荒い、冷蔵庫に冷やしてあったビールを飲む。
土曜日の午後4時だった。最高の気分だった。
帰宅しても窓を開け放ち、春のそよ風を夜になるまで味わっていたい気分だった。
家事もできず、仕事もできず、なにひとつ家や個人の義務をやり遂げることはできなかったが、それでも私の身体は程よく疲労しており、髪の毛は風に吹かれてかさつき、乾燥した独特の「外のにおい」がしている。爪の間には、砂がこびり付いていることに、言葉に言い表せないような満足感があったのだ。

命とは、毎日身体的に実感することで、精神の方も健康でいることができるのではないか。
ふと、そんなことを思った。
そして突然、今の生き方をすっかり変えてしまいたくなった。
このリセット欲望は、私の中に常にある。破壊してしまい、一から出直したいと言う欲望である。常に自分自身に不満であるから、そこから逃げたい。

今の仕事を思ってみても、お金の為にやっているのと、多少言葉弄りが好きだと言うこともあって、続けている。
しかし周囲を見ると、これをやりたかったから苦労して勉強してきたという「これ」を持っている人たちばかりなのである。

暫しビールを片手に、疲労した頭で考えに浸っていたら、自分の決定的に間違っているものが次第に浮き上がってきてしまった。
私の生きる動機は、コンプレックスだったのだ。それも筋金入りのコンプレックスで、死闘を繰り広げながらも打ち負かしてやろう、という風にもなれない、弱弱しいコンプレックスであり、そこには自分はこれでも良いのだと、強制的に信じたいという欲望やプライドも入り混じり、まったく持って支離滅裂なものが、根本に流れている。

私は、音楽をずっとやってきたが、親に認められたかったからではなかろうか。
小学校の成績が良かったのに、兄が楽器を始めたら、親の感心と期待は、いつも私よりも怒られることの多かった兄に寄せられてしまったのだ。
それで私は、兄を追うようになった。
予定していた中学受験も捨てて、兄と同じ道を行くと言い出したのだ。勉強ができることなどに親は感心がないのだと、そこは察知したのであろう。
それはおそらく、親自身の持っていたコンプレックスとも重なり合いながら、私たちへの期待となっていたのに違いない。
立派な大学に入るよりも、一人前の演奏家になれるものならなってみろ、そういう声がずっと背後にあったことは間違いないのである。

突然父のもとを訪れた一人の演奏家の言うなりに、父はある夜私に一つの楽器を与えて、私はそれを見ても、触っても、一切興味はなかったのに、兄の学校へ行く切符を手にしたとばかり、それをやることにしてしまった。
ピアノやバイオリンは専攻するなと、母からも父からも口をすっぱくして言われていた。
それは彼らが本能的に、演奏家になるために現実的な可能性の多いものを与えたかったという、彼ら自身の親として当たり前の「気遣い」であったのだろう。

大学に入るときに、私はあがいた。
親の敷いた線路や、兄を追い続けた線路を突然離れたくなった。
私に力があるのか、それを試してみようと、思春期になって初めて芽生えたのである。
三年生になると寮生活から週末や休み毎にいわゆる予備校に通ったのを覚えている。
そのとき、今まで練習する代わりに勉強してきた人々と触れて、別の世界を見た感動は忘れられない。
しかし私の考えていることと言えば、脱出でしかない。寮からの、そして敷かれた線路からの脱出。
私のように、親のために或いは兄を追ってなどと、そんな動機から職業につけるような、甘い世界でないことぐらいはとうに承知していたのだろう。
わたしには、あのダメだった兄が頭角を現すにつれ、勉強をがんばっているフリをするしかなかったのである。そして周囲との違和に胃がよじれるほど苦しんだ。隠れて母に電話をして泣いたことも何回かあった。

それから一つだけ受けた大学受験に失敗した。
何故一つだけだったのだろうか。
それはどうしても何学部に行って、何になりたいと言う計画がなかったからであろう。
兄とは違う認められ方をしたいと、それだけだったのかもしれない。

そして大学に入り、留学した。
世話にはならなかったが、留学とて、兄の後を追ってきたのだ。

そして私は始終、私という人間を親に向かって認めさせようと思ったのだが、本気で音楽で飯を食おうと思って覚悟している人には勝てない。
何でもできる私は、さっさと卒業もして、体裁だけは保てるのである。
しかし、何がやりたいのかやりたくないのか、考えてもさっぱりわからない。しかし、常に闘ってきた。コンプレックスに苛まれ、悪夢にうなされるほどであった。
それは外国人という弱者に見られることでもあり、日本からの女の子というクラスでの偏見でもあり、出来が悪いというコンプレックスでもあり、この楽器が嫌いなのに嘘をついていると言うコンプレックスでもあった。そして最初の夫に知り合い、彼の周囲と云うさらに強力にコンプレックスを刺激してくる環境におかれ、コンプレックスは膨張しきり自分をすっかり殺してしまうことで、影となった。そして心が半ばおかしくなって、這い出してきたという、非常に情けない廻りだった。

その後も、私の原動力はコンプレックスであり、どこに行っても良い成績と業績を上げるのだが、過去の道なりが、4筋にも5筋にもなって、どれも体裁だけは整えて卒業だの資格だのというところまではいくのだが、流石に物にならない。
何でもできるくせに、何も使えないと言う、まったくもって要らない人材なのだ。

_______

いや、だからそれに気がついたのだ。
なんという馬鹿な生き方をしたろうと。それでも自分は相当鍛えられたのだが、それは全部過程での話であり、行ってきた内容は、と散らかるばかりで積み重なっていない。

演奏家にもなれずに、学問も全うしなかった。
演奏家にはなれなかったろうし、学者にはまったく向いていない。
才能の問題ではない。へんな言い方をすれば、私より明らかに才能のない人が、立派にオケで演奏家になっていたりする。それは信念とモチベーションの原因の問題であろう。学問に関しては、知的コンプレックスを少しでも叩こうと思っただけで、私には学術の世界でやっていくための、決定的な何かが欠けている。おそらく静的な人格ではないから、すぐに行動したり、直ぐに興味を移したり、そういう半端な性格がすべてをダメにしているのだろう。
無論このモチベーションも半端なコンプレックスに根付いたものなのでモノにはならないのだ。

____________

仕事の長電話で中断されてしまった。
ウダウダ言っても仕方ない。
これが私という人間をかたどっている姿なのだし。

とにかく、最近は仕事を変えたいとかそういう希望が大きくて、それはと散らかすように、できること、目に前に転がってきたことをやって来たからなのだが、それは多かれ少なかれ、皆そうして職業についていくのだろうし、大人になることはこうだと思ってあきらめている。
しかし、それよりも行く先々で、成果を挙げようとか、認められようとか、そういうコンプレックスモチベーションでやってきて、時には欲しいものを得たこともあるし、褒められたことも、ありがたがられたこともあるのだが、うつ病みたいな、魂の死んだ感じは、どうしようもなく消えてくれない。
それは、人の為と体裁のために動いてきた自分の人生の果ての姿なのだなと、だんだんわかってきた。

もう知的コンプレックスも、演奏家コンプレックスも隠さずに、嘘偽りなくそれを正々堂々と認めて、私はコンプレックスにまみれているけれど、その私が少しも立派なところもなく、自慢できる人格もないのということだけはしっかり認識しています、というその部分が人々への共鳴となって、それでも尚且つ生き生きと輝いている私を見せることが、一つの作用となってくれるような仕事が欲しいなと、そう思い出しているのである。

コンプレックスを撤回するために、コンプレックスの磁場にずっととどまり続けた。
しかし、そこから離れられないことこそ、未だにコンプレックスに支配され追い掛け回されていることの証拠だとわかった。
もう私は、自分が生き生きとできるところへ飛び立ちたい。
それはきっと、人とのつながりがあるところで、ずっと机の上でキーボードを打ち続けていることじゃないと思う。
私の唯一の長所の一つは、制御できないけれど、止むことなく流れ続けているエネルギーがあることである。
生きていること、その毎日苦しいと思うような課題に向かって、前回の記事のように、それでも尊いものとしてあきらめないで進むこと、そういう姿勢を深い次元で分かち合う為に、小さなきっかけを与えていくような仕事をしたいと思う。

ピアノや音楽を教えるのだっていい。
人とかかわらないと、私はダメなんだ、庭掃除をして体で命を感じないと、私はダメなんだ。
助けも手本も何もないところから、明日もあさっても生き抜いていこうとする、必要最低限の創造力が私にはあるのかもしれない。それだけはうっすらと感じている。
その創造力を使わずに、人に後ろ指刺されないことだけを念じて、安全圏だけを夢見て生きていては、自分は死ぬと、そういうことを掃除しながら思った。


相変わらず、くどくどした文章で、牛の咀嚼のようになってしまったが、自分を納得させる為の手段として書いているので、あしからず。

2011年5月14日土曜日

「硝子戸の中」から



女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛をきわ)めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、あん)に女の気色けしき)をうかがった。女はもっと判然した挨拶あいさつ)を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択おえら)びになりますか」
私はまた躊躇ちゅうちょ)した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのがこわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世間せかい)の中にたった一人立って、一寸いっすん)も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前もはば)からず常に袂時計たもとどけい)を座蒲団ざぶとん)のわき)に置くくせ)をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女はいや)な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が)けたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱くつぬぎ)に下りた。
その時美くしい月が静かな)を残るくま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄げた)の音はまるで聞こえなかった。私は懐手ふところで)をしたまま帽子もかぶ)らずに、女のあと)に)いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈えしゃく)して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目まじめ)に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、またうち)の方へ引き返したのである。
むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれがたっ)とい文芸上の作物さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。



不愉快に)ちた人生をとぼとぼ辿たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりもたっ)とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来おうらい)するようになった。
しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母ふぼ)、私の祖父母そふぼ)、私の曾祖父母そうそふぼ)、それから順次にさかの)ぼって、百年、二百年、乃至ないし)千年万年の間に馴致じゅんち)された習慣を、私一代で解脱げだつ)する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
だから私のひと)に与える助言じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
こうした言葉は、どんなになさけ)なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠におも)むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を)らしている。こんな拷問ごうもん)に近い
所作しょさ)が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しゅうちゃく)しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸をきずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人のおもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に)き)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向って、すべてをいや)す「時」の流れに従ってくだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。はげ)しい生の歓喜を夢のようにぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々なまなま)しい苦痛も)り)ける手段をおこ)たらないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口きずぐち)からしたた)る血潮を「時」にぬぐ)わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
かくして常に生よりも死をたっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に)ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸ぼんよう)な自然主義者として証拠しょうこ)立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。


_____________

七に関して

若い頃には解らなかった漱石の文章が、今なら少しずつでも心に入ってくるようになった。
何故生きるべきなのか。それに適当な答えを見つけるのは難しい。宗教的に死を選ぶことが罪とされている場合には、理屈はいらないのかもしれない。しかし死の方が尊いと思う心も解らないではない。

私は相当の馬鹿で阿呆で、この文章を読んだときに、「その女の始末」という言葉を、この会話をしている女を苦しめている別の女性だと思っていた。

しかし、読み進めていくうちに解らなくなり、もう一度読み返してやっと、この女が自分のことを漱石に話して聞かせ、小説だとしたら、この女、つまりまぎれもない彼女自身は死ぬべきか、生かされるべきかと聞いているのだと、やっとわかったと言う次第である。

そして漱石は、
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支(さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高(けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」

単に生きるという目的だけならば、生きていれば良い。しかし美しい、気高い心持こそが生きる理由になり得ると考えれば、問題は違うという。つまり単に息をして生きているだけでは、人間は生きていない方がましではないかという、女性自身の疑問を受ける形の答え方をしている。

そこで女が、
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
と述べ、漱石は女が「広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事」を理解している。

そして漱石は、その後何も言わずに立ち上がって女を帰すのである。そのときのことを
その時美くしい月が静かな夜(よ)を残る隈(くま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄(げた)の音はまるで聞こえなかった。」と書いている。
おそらく、漱石はこの女の悲痛な人生を聞かされ、誰にどうすることもできない、つまり言葉では到底解決や救いのない問題を聞き、胸苦しい思いで彼女の天涯孤独と切羽詰った状況を知るのだが、彼の夜空を見上げる心は、その描写のように清浄であった。そして外套や帽子のことも考えずに、女の後ろに、つまり女の人生に寄り添っている。

そして女は、最後に「先生に送ってもらって光栄」だと言う。漱石は本当にそう思うかと聞き返し、女はそうだと答えると、
「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と伝える。
この光栄をどう解釈し、そして光栄ならば何故生きているべきなのか…。

それは女は初めて漱石に自分の人生を語りつくした。そして、語ると言う行為の間に、自分の人生に言葉を与えることによって、苦しみこそ生々しく浮き上がってきたが、それ以上に「これが紛れもなく自分の生である」ということを悟ったのではないだろうか。何を語ろうとも、どんな助言を請おうとも、自分の生は、自分にだけ与えられたものであると同時に、他の誰にもどうしようもできない。 なぜなら生を語るのは言葉であるが、自らの生とはやはり生きるものに他ならないからであろう。女は、これまでの苦労に満ちた人生を語りながら、同時に「美しい心持」をその生き様に実感し、それを失ってゆくことを極度に恐れている。
それを誰か、つまり漱石に語ったことで、彼女は捨てても良いと思った生を実感した。聞き手は言葉を与える代わりに、その苦悩も孤独も言葉を介さずに受け入れ、彼女の中に鼓動を打つような生命と生を尊いと思わせるような、覚悟や真剣さを見出し、寄り添うように送っていった。それを彼女にも、無言で理解できたからこそ、「光栄」だと言ったのではないだろうか。
だからこそ、「ならば生きていなさい」と云う答えになったのではないだろうか。
漱石は、死の方が尊い、と言いつつ、彼女の話の中に、生を尊いと思わずにいられないものを感じたのかもしれない。


「むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」

________

八に関して

「私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。」

これが女の背景である。

「私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。」

これが漱石の答えだった。

そして「深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶」を取り上げたとしても、「彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」」によって止血させようと試みた。なぜ「いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当」と言ったのか、私にもそれは良くわからないのだが、それは彼女の奥ゆかしい生に対する姿勢が、命そのものをすでに尊いものとして捕らえている、それを漱石が感じ取ったからではないだろうか。

「かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。」
それは人間の営みは、真剣であればあるほど、また運命というものに逆らいすぎずに、それを一種の自分に与えられた生としてひたすら生き抜くと言う姿勢そのものが、すでに尊いからなのだと、私はそう解釈したい。
そうでなければ、

「有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」
という文章は表れないのではないだろうか。小話や人生劇など現実の生に比べれば、その存在の尊さにおいて、比較にならないということなのではないだろうか。

最後に、彼女に生きていなさい、と言ったことに対して、凡庸な自然主義者ではないかと揶揄するが、漱石もまた生に対してなんとも慎み深いのだろうかと読み取れ、その漱石の温かい人柄、そして生きていくということは、根本的に淋しいということを知っている、そのような孤独を感じ取り、この話を読んだ後、えらく心を打たれて、暫し硬直してしまった。

私自身に重ねれば、やはりなぜ生きるべきか、何故生きていなくてはならないのかと問い続けた日々があり、自分の生き方を肯定できずにいた。私は残念ながら今まで、人生の歩みを言葉にして語り、聴いてくれる人があったという機会には恵まれていない。
それどころか、私は自分の人生だけは、延々と言葉にしまいと誓ってすらいる。他人にとって、人の人生など、どうという関心はないのである。しかしこの作品を読んで、彼女が語らなかったら、決して生き続けていたかどうかはわからない、ということを理解した。
彼女は、生に言葉を与えたことで、自分の生をその手で握っていることを実感し、救われたのである。
そして漱石は、尊い小説を読んだ後のような、人間らしい良い心持を感じた。

ここに、まさに私自身も救われるような思いがしたのである。
美しいものを見たかと問われれば、見たことがあると答える。
美しい心持にめぐり合ったこともあれば、自分自身からも深い献身を試みた、純粋な深い思いを知ったとも答えられそうな気がする。
それならば、それは私の人生の最大の幸運であり、傷から血を滴らせながら、その美しい心持を現在のまま保つことが生きることではなく、それを言葉として刻み込み、私自身の事実として色あせても手中に持っているだけで、十分幸福なことであり、それ以外の不愉快なことは、死ぬ理由でもなければ、美しさや純粋さを失うことが死ぬ理由でもない、ということを知ったからである。

現在は常に色あせる。
そして激しさの中で、傷の癒える時間を待ちきれないとき、やはり「語り」は己の人生を救うのではないだろうか。そして漱石は、それを強力に肯定しているのではないだろうか。
そして、人は書き、記録し続けるのではないだろうか。

2011年5月4日水曜日

萩原朔太郎 ― 月に吠える 北原白秋の序、及び序文からのメモ

月に吠える

白秋の序

「[…]さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互いの胸の奥底に直接に互いの手を触れ得るたった一つの尊いものである。」

「[…]さうして君の異常な神経と感情の所有者であることも。譬えばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、まさしく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持ってゐるからだ。」

「『詩は神秘でも象徴でも何でもない。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。』と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷はそこから来る。さうしてその葉の根の尖まで光り出す。」

「君の霊魂は私の知ってゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身が一粒小砂に擦られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身であり、生身から滴らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。」

「而も突如として電流対の感情が頭から爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。」

「天を仰ぎ、真実に地面に生きてゐるものは悲しい。」

朔太郎の序

「詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」

「私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の 「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併 しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。」

「思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。」

「けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。」

「人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。[…]とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。[…]けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのであ る。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」

「私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。こ の特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らな い。」

「詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。」

「私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。」

「私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。」


___________

言葉の一つ一つに息を吹き込んだという点では、Dichtungに通じる重みを感じた。
リズムが以心伝心だという言葉は実感できる。
ドイツ語をろくに理解できなかったときに、リルケの悲歌を音読し、ただただ涙が流れてきたのは、そういった韻の中にある、以心伝心、単語そのものの持っている命の存在の予感ではなかっただろうか。


危険な散歩

春になつて、
おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、
どんな粗製の歩道をあるいても、
あのいやらしい音がしないやうに、
それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、
それがなによりけんのんだ。
さあ、そろそろ歩きはじめた、
みんなそつとしてくれ、
そつとしてくれ、
おれは心配で心配でたまらない、
たとへどんなことがあつても、
おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
おれはぜつたいぜつめいだ、
おれは病気の風船のりみたいに、
いつも憔悴した方角で、
ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。




さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活らいふ)の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。


山に登る
旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつてくち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。

孤独

田舎の白つぽい道ばたで、
つかれた馬のこころが、
ひからびた日向の草をみつめてゐる、
ななめに、しのしのとほそくもえる、
ふるへるさびしい草をみつめる。

田舎のさびしい日向に立つて、
おまへはなにを視てゐるのか、
ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。

このほこりつぽい風景の顔に、
うすく涙がながれてゐる。

雲雀の巣

おれはよにも悲しい心を抱いて故郷ふるさと)の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、
おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいてゐた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなくはぐ)くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなく DELICATE の哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷ふるさと)の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。



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壮絶な孤独と、精神にあふれている愛に形を与えて他者に与えたい欲求とが、本人の心を苦しめては罰している。これは、白秋の言うように「凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃」として表出しているように思うのだが、何故これらの詩には救いがあるのだろうか。

何か、確かに朔太郎の言うように、宇宙的な次元では、永遠に孤独ではないからなのかもしれない。
至る所に、自然との会話を感じる。

それは春であったり、寂しい木陰であったり、飛んでゆくつばめの群れであったりする。
一面に広がる海、そして身体に感じる風、そして歩きながら口に押し付けている小石。
そして孤独でも、日向に立っている、自然とどこかが触れ合っている。
感覚的に、私も読みながら、自分の中にある深い孤独や罪悪感を共感しつつ、身の回りの空気や自然を感じて、それに慰められるのであろうか。どこか実に日本的であると思う。

自然を描写し、自然を融合した文章を書く人は多く居るが、朔太郎の言葉は、日常なのだけれど、心の深い窓の中に小さなコスモスへの入り口があり、それがなぜか小さいけれど、深い傷口を鎮めてくれる。

癒すのではない。鎮めてくれる。
それが日本的だと感じてしまう。

2011年3月30日水曜日

何も手につかないので書いてみる

あれ以来、何かが変わってしまった。
聞こえる音も、見える景色も、呼吸する空気も、みんな以前とは違う。

おなかの中に、重くて悲しいものが宿ってしまい、それがどこへも行ってくれない。
そして不思議なことに、どこへも行かないで欲しいと、大切にその塊を抱いている自分がいる。

それは、何かの、誰かとの共有なのだった。

朝起きたときに、眠い目でニュースをチェックした。
何の虫が知らせたのかわからない。
外国に暮らすようになって、日本で大変なことが起きても、私はまるで部外者のように、ニュースを知るのも現状を知るのも大幅に遅れる。

妊娠8ヶ月のあの時、何もかもが不安だった。
初めての子供をおなかに抱えながら、未来も見えず、夫がいてもいつも一人であった自分の地面は、何かがあればすぐに崩れるほど脆そうだった。
日本には帰らない、帰れないという決心も事情でもなく、帰ろうと思えば、すぐにでも帰れるほど、日本はまだすぐ近くにあった。

その朝早く、実家から電話が入った、
TVを見たら、神戸の町が燃え盛っていた。
頬を抱えて、テレビ画面の前で泣いていた。
地震災害のショック、被災されたかたがたへの思い、そういうものも当然あったのだけど、実際は、私の心こそ、心の中に起こる地震を恐れていたのであり、実際の自然の破壊力の大きさを見たときのショックは、私の心を直接揺さぶった。
生きている自分の世界が揺らぐ、そういう根本的な不安感だったのを覚えている。

しかし、インターネットもなければ、コンピューターすらなかった時代で、テレビ番組も今ほどチャネルが充実していたわけでもない。
大変な状況を画面に見つつ、多くの詳細を知らずにも済んだともいえる。

それ以来、私は殆ど毎日のように考えてきたことがある。
いつか、自分の実家に近いところに大地震が来て、オロオロすることがあるだろうと。

3月11日は、娘の誕生日だった。
前の晩にケーキを焼いて、テーブルにセットして寝た。
甘い匂いにつられて夜中に起きてきた娘が、ちょっとキッチンに立ち寄って、そのケーキを目にし、きっと満足そうに再び自室にもどった音を聞いた。

その朝、皆で朝食にそのケーキを囲んだ。
娘は新しい携帯をもらって、息子たちは忙しく登校していった。
日本で大地震があったよ。
それだけ伝えた気がする。しかし、自分の親にも連絡できていない。この分だと、昼ごろまで連絡がつかないだろうと思い、落ち着いてニュースを見ながら、時間を稼いだ。
難なく親には連絡がつき、父が渋谷からの帰宅に手間取っているという話は聞いたが、無事だったようで心配事は一つ消えた。

しかし、これは何か大変なことになったという予感は、非常に強くあり、午後レッスンだったのだが、手につかない、そういう状況だった。

_________

そうして始まった震災なのだが、今では震災という言葉よりももっと、何か背景を動かすような意味を持って、私の中の何かを変えてしまった。
遠くにいて、部外者のように、何の苦しみもなく、ただ画面を見つめてオロオロしている人間が、何かが変わったなどと、大げさなことを言うべきではないかもしれない。
しかし、事実何かが変わってしまったのだ。

たくさんの人の涙を見た。
家が流されるとき、思いでも歴史も、家族で共有した何もかもが、自分や家族が存在していたという証さえも一緒に流されてしまった。
考えただけでも言葉を失ってしまうようなことで、おそらく私自身が同じ境遇に遭遇したら、足がすくむだろう、泣き崩れるだろう、ただのどの底から嗚咽が漏れるのみだろうと、無力な姿しか思い浮かばない。
幾つかのニュースや動画で、そういった人々の嗚咽と叫び声を聞いてしまった。
そんなとき、自分のおなかが絞りあげられるような痛みを感じてしまう。
子供と手が離れてしまった話、子供の棺の上にぬいぐるみが置いてあり、その傍に佇む母親が号泣している土葬の様子、孫を抱くようにして無くなった祖母、他の人が流されるのを見た話をしながら、自らが泣き出してしまう人々。
数え上げればきりが無い。
そんな話と場面の数々が、毎日毎日私の目に飛び込んできた。
そして、そこに「彼らの悲しみ」とはとても言えない、個人の一人一人の慟哭を感じてしまった。

いったい、彼ら一人一人の悲しみの重さを集めたらどれほどの重みになるのだろうか、一体、彼らの流す涙を集めたら、どれほどの深みになるのだろうか。
そんなことばかり考えた。
そして悲しむ人の顔と姿は、血の気がなく、まるで血がめぐらずに冷え切ってしまったように、生命力を吸い取られていた。
そこには、早く天使が舞い降りて、一人一人の心臓を暖めて、再び鼓動を呼び起こし、血が流れ出すようにしてあげないと、いつしか氷のように凍ってしまう。
そんなとてつもないことを考えていた。

ある家族は、身内の遺体を流された車の中に見つけてしまう。
どうしよう、どうしようと半ば取り乱して、車の中に声をかける。
そして警察が来て、遺体を運び出した。
その間、彼らはシート外で待ち、しゃがみ込んで、絶望と悔しさに声を出して泣いていた。
しかし、その後すぐに、彼女は立ち上がり、またやり直す。守るものがたくさんあるから、まだ若いから大丈夫。
そうして、泣きじゃくりながら、おそらくひざを震わせながら、笑顔を作って去っていくのである。
リポーターもその後に嗚咽していたのが聞こえた。

この動画に対する意見は様々に分かれているようだが、私自身には、とても大切なものだった。
悲しいみや痛みは、限りなく個人的なもので、人にとうていはかれるものではない。
しかし、人間は死を恐れている。死体はショックを与えるもので、死体に対面することは、想像しただけでも恐ろしい。
死は、そこにありながら、ずっと抑圧されているのであり、死は家族の中にずっと流れているにもかかわらず、それは病気、またはまれに起こる事故という形で、ある種のプロセスを与えてくれる。
しかし、今回のこの様相は、文明を一瞬にして波に飲み込んでしまい、まるでずっと昔の人間が、なす術も無く波にさらわれていったのと、なにも変わりないのではないか、そんな恐ろしさを見せ付ける。

しかし、命とはもしかすると実に単純なものかもしれない。
そういうことをこの動画を見た後に、またはこの震災のニュースを二週間追い続けて思った。
死んだらおしまいだということ。
そして死や運命をコントロールすることは誰にもできないということ。
死は人にショックを与え、人をどん底に突き落とすが、それは一瞬にして生きていることだけが実はすべてなのであって、それ以外に何も求めるべきではない、そういうことに、誰よりも早く気がつくのではないか。
そして何よりも強いのは家族の存在なのだと思い知らされた。
死に掛かった人々を生かしたのは、多くの場合家族の顔が浮かんだかららしい。
家族のために生きなくてはと、木にしがみついたという話もあった。

2011年3月9日水曜日

春の陰影

春の光があって

空気が透き通って

毎日芽吹き始めて

ひんやりとした風も、乾き始めた土のにおいを運んでくれて

木々の上にちらほら見える黄緑色がいとおしくなる

でも予想のつかないことを恐れるような不安感がどこかにあって

誰も見ていない、だれも責めていないのに、罪悪感が募って

光の中に身をおいても、その灰色がどこから来るのかわからないときがあって

それが思わぬときに、未熟な種のまま顔をあらわにして

殻が破れてしまうことがある

そんな話みたいに、光があって暖かくなってきたのに、

どうしても通じ合えないものにも光が当たって

身体の傷と一緒に心の傷も深くなるのだけど

探ろうとして、試みようとすればするほど

ミシミシと傷が切れ込んで行き

どう転んでも悲劇の穴にしか引力が通じていないという失望感が見えてしまう

春なのに悲しいことや

青空だからこそ涙が出ることがあるけど

それは悲しいことや未熟なものみんなに平等に光が当たってしまうからだろうか

光のおかげで幸せになるのに

光のおかげで新たな影ができてしまう



昨日はそんな日だった

2011年3月6日日曜日

保守の難しさ

さすがの当地も、そろそろ春の気配となってきた。

朝起きると明るい。
キッチンのカーテンを思わず開けたくなる。これは春の到来である。
暗闇の中、子供たちを登校させる不安がない。

そして、午前中掃除をする。そんな気になるのも、春のおかげである。
起きたって9時まで夜が明けないのに、誰が掃除なんかしたいものか。

10時半ごろ、まるで職人さんの休憩のようにお茶を入れる。
起き抜けには、いつもコーヒーなのだが、さすがに午前中の休憩はお茶。
気に入ったお茶をいくつか買ってあるのだけど、それを気に入ったポットに淹れて気に入ったティーカップを出して飲む。新聞を開いたりして、ちょっと贅沢。
こんな余裕も春ならでは。

Tee.jpg


午後になると、今度はリビングのほうから、斜めに陽が差してくる。
つまり、一階というあまり好ましくない立地条件でも、それなりにアパート全体が明るくなるのである。
これは嬉しい。
実 はもう22年も欧州にいながらにして、いまだに実感していなかったことであるが、Frühlingsputzというのは、春の掃除という意味で、日本のよ うに大晦日に掃除をするのは、実用的視点から見るとまったく意味がなく、やはり春になってやっと掃除をするエネルギーをもらえるということなのだった。
まるで、冬眠から覚めたようだ。

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実は、先日Guttenberg氏が、国防相を辞任して以来、なんだか寂しくて仕方ない。
思ったことを、ほろ酔い気分のまま(現在夜中)、ちょっと殴り書きしてみる。
正確な情報を確認しないまま、うろ覚えで書くので、間違っていたらすみません。


私は、彼は余儀なく失脚すると予想していたし、あの博士論文を見たからには、嘘つきと思わずにはいられなかった。
あんなものを提出したのは、冒涜とも取れるし、悪質であるといやな気分になったのも事実である。

しかし、なにかが心に引っかかった。
あの辞任の表明が、あまりにも潔く、kurz und knapp、つまり何かのせりふを聞いているかのような、ある種の美しささえ感じただけに、またそこから皮肉なことに「嘘」の匂いさえ嗅ぎ取ってしまったのだ。

貴族の出である。
フランケン地方の古いGuttenberg家出身で、男爵の称号を持つ。
父親は指揮者であり、母親は彼が5、6歳のころに離婚して家を出ている。
弟と共に、腹違いの兄弟4人と共に育った。ローゼンハイムのギムナジウムを卒業した後、法科では有名なバイロイト大学で法律を学び、博士号を取得したわけである。

この一家は、古くから自分の家系の財産管理会社を運営するほか、病院の株を持っており、実質的に彼も監査役であった。そのほか、プファルツ地方にワイナリーも所有し、いわゆる屈指の貴族なのである。

そういう慈善行為、ワイナリー経営、病院監査役などの役割をこなしていくことで生活していく貴族のボンボンに納まりきれなかったのが、このKTと略される、Karl Theodor zu Guttenbergなのであろう。
そういう意味では、あまりぱっとしない指揮者である父親にも、そうした野心があったと考えてもよいのかもしれない。

政治、あるいは学術の世界で「も」認められたい。
この「も」は重要で、彼はカヴァリエ祭で賞を授かるなど、貴族の息子としてスポーツの世界でも、紳士的な価値を認められている。つまり、コンプレックスを持つ理由などどこにもないはずなのである。

しかし、今朝読んだTAZでは、最近の保守派の在り方を問う書き方をしており、なかなか興味深かった。
つまり、現在の保守は、保守であるだけでなく、その伝統を重んじる生き方に、さらにモダンな価値観をも実現しなくてはならない側面があるということである。
つまり、リベラル保守という位置であろうか。

Guttenberg自身、剽窃問題が明らかになった当時、若い家族の父親としての役目、政治家としての役目を果たしつつ、100パーセントの実力を出し切れないまま書き終えたもの、ということを強調していた。

そういえば、彼の周囲は完璧なのである。
Otto von Bismarckのひひ孫にあたる、シュテファニという、これまた見せるために存在するかのような金髪の美女を妻に迎えている。もちろんそこには愛情あっ ての結婚生活に違いないが、若いころから、描いてきた一つの人生地図を汚すような人物を妻にはしまい、ということはしっかり念頭にあったに違いない。

知れば知るほど、意地悪な言い方をすれば、人生を隅々完璧に演出してきたのである。
そして「暴走する野心」で手にした博士号であったが、やはり付け焼刃で手にできるような代物ではないはずで、こうしてぼろが出てしまった。野心は、それに見合った用意周到な計画と実践がなければ、形となって実現されることはなかなか難しい。

ある新聞は、これをリベラル保守のひびなどと見ている。
Ursula von der Leyenは、突然斬新な髪型にしイメージを一新した。が、家庭には7人の子供たちが待っており、幸せな一家の母親でもある。
若手のKristina Schröderも、今まで一度もぼろを出したことがない上、古い形のウーマンリブをせせら笑い、本当の女性解放主義を実践すべく、国会議員として妊娠していることをカミングアウトした。

こうなると、もう子供を持つこと、幸せで機能する家庭を持つことが、キャリアの妨げになるという言い訳すらできない。家庭もキャリアも、というのが当然教養ある女性の生き方の指針となってしまうのである。

また、外務大臣Guido Westerwelleの完璧主義は、若干形を変えて、外見の完璧さとしても現れているという。
つまり、ドレスコードがカジュアルといえば、彼の場合隙のないほど完璧なカジュアルないでたちとなってしまい、そこにはかつてのSchröderやFischerといったロックなラフな感じはない。

そんなことを考えていると、なるほど、このCDU/CSUまたはFDPといったリベラル保守の人たちの、すさまじい野心と完ぺき主義には、驚いてしまう。

実際、保守でいることは現代では難しいのではないかと、そんなことを考えた。
そして、そのシンボリックな出来事が氏の辞任であり、だからこそ、なにか後を引きずるような悲しさが残るのだろうかと、少し新しい視点をもらった。

メルケル女史の博士号も、物理学のナントカであるが、現代ではまったく役にも立たず、なんの革新も含まれない実に退屈なものであるらしい。
しかし論文の中に、すくなくとも、この元大臣のような、初期的間違えは見られないだろう。

し かし、なぜ政治家は博士号を欲しがるのだろうか。緑の党の党員は、何が何でも博士号を欲しがるだろうか。Die Linkeはどうであろうか。SPDにいたっては、元首相のSchrödernなど、Realschules出身で、後で非常に苦労して弁護士になった人 である。博士号の比率は少なそうだ。

そう考えてみると保守派というのは、リベラルでも堅苦しい。
何に追われているのだろうか。
そして、この暴走する野心の裏にある、本当の上昇志向原動力は、いったい何なのであろうか。

ほろ酔いで書いたので、書いたことを忘れた。意味をなしているかどうか。

おやすみなさい。

2011年2月25日金曜日

一人という勘違い―寄り添うこと

 昼に日記をアップし、鬱な心を恥ずかしげもなく吐露したところであった。


なんのことはない。

また母の体調で心配事があるだけなのだ。

もう老人の域に入っているのだから、命にしがみつくような望みや希望など持っているわけでもない。

ただ、そこにひたすら寄り添えないこと、彼女自身が決して口には出さない不安を分け合えないことが、非常に苦しいだけなのだ。


私の敬愛するディートリッヒ・ボーンへッファーというプロテスタント神学者は、第二次世界大戦で、反ナチ運動に参加していたことがわかり、囚われの身となって、ヒットラー自身が自決するほんの3ヶ月前あたりに処刑された。

彼は、苦しみや不安や痛みこそを分かち合うべきだと、熱心に説いていた。


私は、苦しいときも辛いときも、だからこそ一人で克服せねばならないと、自分にも他人にも厳しい時期があったが、この言葉に出会ったころ、それはもうずいぶん前なのだが、思いを改めるようになった。

私は、愛する人間の痛みを少しでも一緒に体験できることで、相手の途方もない不安感が薄らぐなら、徹夜をしても付き添ってあげたいと思う。

本当の辛さを目の前にすると、人は言葉を失うものだ。

それは、痛みに対する敬意であり、他人であるのに、やすやすと気持ちがわかると言ってはいけないという気持ちがある。

何も言うことはない。けれど、私はそこにいて、お茶を入れて、たわいもない話をして、ただただ時を共にすることはできる。

そして、それこそ、本当に辛いときの恵みなのではないかと、分かち合いなのではないかと、最近気がついた。


他人を助けることの難しさは、昔からわかっていた。

それは、私が辛いときに、多くの人がいろいろな手を差し伸べてくださったのだが、私はやはり私一人で乗り越えるしかないということを知っていたからだろう。


しかし、そこには、お茶を入れてくれる人、電話をしてくれて声を聞かせてくれる人、はがきをくれる人、ひょっこり尋ねてくれる人、ご飯を作ってくれた人、話を黙って聞いて、助言らしきことは何も言わないのに、ずっとそこにいてくれた人たちがいた。

私は、その人たちなしに、今幸せに生きていることができるとは思えない。


助けることは可能だが、いつでも人を助けられると思うことも驕りではないか。

人が死ぬときには、誰も助けられない。

仕方なく、一人で息を引き取るしかないのである。


そして、私はキュープラーロスの言葉を思い出す。

人を一人で死なせてはいけない。

手を握り、声をかけ、皆で囲んで逝かせてあげること。

孤独の中に死を迎えることと、温かみの中で死を迎えることには、運営の差がある。

戦争でたくさんの死を、そして臨床でも死を乗り越えてきたキュープラーロスの言葉には、本当に真実味があった。


結局、寄り添うことが愛情なのである。

どんなことがあっても、親は子供を見捨てない。

パートナーも、どんなことがあっても、続く限り一緒に寄り添うのが愛情なのである。


_________


仕事に行って、帰り際に音楽学校のボスに出くわす。

彼はとてもよい人なのだけど、今まで対で話す機会があまりなかった。

軽快な挨拶ばかりで、お互いに知ったようで知らない関係である。


ところが、今日は話しかけてきた。

階段ホールで、思わず長話になる。

お母さんどうしてる?と、何を察したのか、突然聞いてきたのだ。

そういえば、去年、突然の帰国ということもあり得ると話をしておいたのを忘れた。


しかし、なぜ、今日、私がこうしてさびしくて、不安で、居た堪れない気持ちのときに、話しかけてきてくれるのだろう。


ひとしきり話して、心が暖炉の火を浴びたように暖かくなった。


結局看病や助けなど、実践的なことは帰国しなければできないけれど、親のために帰国したら、それも重荷かもしれない。

私自身が、子供たちや、私が一人で必死に築いてきたさまざまなここでの可能性に、大きな異変を与えても、帰国するべきである、そうせねばならないし、そうしないと、一生後悔するという問題があった。

結局は自分の問題なのである。

親がその一生を終えたあとに、私が精一杯尽くしたと言い切りたい、というある種のエゴでもあるのだ。


しかし、彼と話しているうちに、私が帰国するたびに、はじけるような笑顔で生き生きとした私と子供たちの姿を見せ、できる限りの思いでを作り、娘がこんなに幸せに暮らし、孫たちもスクスク育っていることを、信じて歌がわない時間を与えることが、私の役目ではなかろうかと、だんだん気がついてきたのだ。


職場のボスと話をしながら、こんな風に気持ちの方向性が出てくるとは思ってもみなかった。

でも、彼の目は優しく、話しかけてくれた彼の言葉は、十分に真剣だった。



こういうことは、いつしかタブーになって話せないじゃない?

だから、僕から話しかけないととは思っていたんだよ。


そう暖かい立ち姿で私を見守ってくれている彼を前に、


親のことは大切で、本当に与えてもらうばかりで、感謝をしているけれど、


というとそれをさえぎって、


でも、それが親というものじゃない?


と彼が言う。


そうなのね。親に借りを返す必要なんかどこにもない。そして、親も借りを返してもらおうと思ったことすらないよね。


そうだ。私の母は柔和な人で、私とはまったく違って、明るくやわらかく、自分の時間や労力を割いて、人に与える人であった。

その彼女が、私に何か見返りを期待しているはずがない。

どんなことがあっても帰国するなといってくれている。

私は大丈夫よ、みんないるからと。



いまや彼女の精神を支えているのが私であるということは、何よりも明らかである。

しかし、かつて私の苦しみを一手に飲み込んで、何も言わずに「そこにいて寄り添って」くれたのは、母であった。

そうか、気持ちは精神的にお返しできるものなのだ。

実践的な「助け」をすることにこだわる必要はないかもしれない。


できれば、触れたいとか、見たいとか、そういった即物的な望みは尽きないのだけど、私たちが常に精神的に共にあるということも事実である。



その彼と話している間に、私のここに残らねばならない、帰ることができない、という事実の中にあった大きな良心の呵責が次第に小さくなっていった。



未だに、どうすればいいのかわからないし、実際問題として、止むことのない癌という病の恐ろしさを前に、なにだできることなのだろうか、というのはわかっていない。


けれど、自分を枯れ果てたと呼び、誰も要らない、人間関係がストレスだと語り、一人で涙を流して、不安を抱える自分はかわいそうではない、と言い切ったことに「間違ったなにか」を感じた。


誰かは常に自分のことをちゃんと見てくれていて、気にかけてくれている。

そして、その人たちが話しかけてくれるとき、その言葉は本当に真実味を帯びているのだ。

その人がそこに寄り添ってくれているのが本当に体温として感じられる。

それを、自己完結して、たった一人で乗り越えようとする私の態度は、頑張り屋としては納得できるけれど、周りに取り巻いている好意や温かみを踏みにじる、無視する行為にもなりかねない。


そして一人でなんでもやり、何でも乗り越えてきた自負のある私の強さは、それは立派だとしても、自己満足でしかない。

そうして、実際に助けを必要としている人を目の前にした私の第一の感覚は、もちろんもっているものを与えつくしたいという気持ちであるけれど、そこには後悔したくないという自分本位の恐れがあるのだった。



人生はそうじゃない。

与えるものやもらうものは、物差しでかかれない、時間でも重さでも測れない。

それは、気持ちという感覚なのである。

それなら、私も遠くからでも十分に与えることができる。

そして、あの母ならば、その気持ちをどこまでも深く理解してくれるに違いない。



男女関係は、心が重い。

けれど、今日ドイツにいて、記録に残るほど、久しぶりに、誰かが私のことを気にかけていてくれた事実を知り、心がホカホカに温まり、感謝したい気持ちでいっぱいである。


そして、それは知人というか友人であった。

意味や、利害、義務のある関係ばかりに囲まれている。

けれど、友人は大切にしないといけない。

彼らは、普段いないようで、ふと驚くべきタイミングで手を差し伸べてくれる、寄り添ってくれる。

そう実感した。


帰宅すると、翻訳のほうの同僚からメールが入っていた。


うちに来ない?また僕が料理人になって、腕を振るうけど、どう?


あの素敵な奥さんのいる知性ある彼である。



文字を見ながら涙が出た。


本当にみんなありがとう。

私は、一人だなんて、そんなことを言ってはいけない。

一人でがんばってきた、乗り越えてきたと、そんなことを繰り返し書いた。

けれど、とんでもない、彼ら、友人たちが常に私の周りにはいたのだった。

一人なんかではなかったのだ。


それは、日本の友人たちもまったく同じ。

遠方にいるのに、私にはすぐ近くに感じることがたくさんあった。



反省しています。

一人でがんばってきたなんて、そんな人は誰もいない。

そんな人がいたとしたら、その人には誰か気にかけてくれた人がいたはずなのに、それを見えずに、いや無意識に見たくないから、その気持ちをないことにして、一人で閉じこもってしまったに違いない。


なぜ見たくないかって、それは一人でがんばっているという実感にひたって、自分を許したいからである。

救済は、人の助けを受け入れないと訪れない。

それも、最近私は教会の説教を通じて学んだのである。



私はまだまだ。まだまだ、大人でも一人前でもない。


がんばろう。


後ろから追ってくる影

 排卵後に気分が抑うつになって、とても悲しい思いをしたり、イライラが募ったりすることは、実は20代からのことである。

今に始まったことじゃないので、別に更年期だと改めて思う必要もない。

若いころは、PMSなどと診断されて、ホルモン治療を進められたが、ピルでもないホルモンを錠剤で飲むことに抵抗があり、処方されたものを捨ててしまったこともあった。


当時の夫には、気を使い緊張した生活が続いていたため、排卵あたりに大喧嘩をして、そのあと二週間は地獄のような孤独感を味わう、といったパターンが日常化していたのを思い出す。


さすがに、現在はそんなにひどい波はないが、それでも未だにこの二週間タームでやってくる心の変調は続いている。ひどくならないだけありがたい。


そんなわけで、今私は後期二週間、抑うつの期間にあるのだが、洗い物をしながら、掃除機をかけながら、涙がこぼれてしまう、胸が締め付けられるような悲しみを感じるという思いをしている。


実は、心の中に誰にもどうすることもできない、運命のみぞ知るという心配事があって、それを抱えて生きていくということに対する、心の強さを要求されている。

背後に詰め寄るような重い不安感、暗色の何かが迫ってきているということを、随時実感しながら、それでも私は買い物をし、子供たちを教え、自分の子供たちに食事を作り、一緒に笑い、彼らを叱り、励まし、学校などの役割を果たし、夜は締め切りを大きく意識して、ひたすら翻訳をしなくてはならない。

つまり、どんな心配事があっても、誰しも今や明日にかかわる日常の役割を果たさないわけには行かない。

人は、つながっており、いろいろと助け合ったり、励ましあったりしていかねば生きていかれないけれど、本当のところ、結局「生きる」ことを全うするということに関しては、まったく一人ぼっちなのである。


心配事や不安を打ち明けられるパートナー、肩を抱いてくれるパートナーがいない私は、こうして一人で泣いているなんて、かわいそうなのかしら…。今日も洗い物をしながらそんなことを思った。

しかし、と思う。

いたとしても、いや実際日本を離れて以来、今まで私には常に誰かしらがいたはずなのだが、試験の不安とか、人間関係の不安など、自分で能動的に対策をとっていかれる悩みであれば、そうしてパートナーに支えてもらった思いではたくさんある。が、自分にもどうすることができない、つまり息をするのも歩くのも、本人がするしかなく、私が変わってあげられることができない、私が能動的に動いたから、何かが変わるわけでもないという根源的な悩みに関しては、どのパートナーがいてくれても、いっそう孤独感が募るのみだ他ことを思い出す。


一緒にいるからこそ強調されてしまう「一人ぼっち」感、孤独感。

一人でいると、誰かに何かを言う、分かち合う、慰めてもらう、そういうことはまったく期待していない。

だから、不安を一人で抱えることへの、理不尽さ、といったものを感じる隙がないのかもしれない。


パートナーのことなんか、今考える余裕はない。

自分は、今まで落ち着いた静かなパートナーシップというものを経験したことがないので、まるで今エネルギー切れしているように、枯れ果てている。

隣に人がいると思うとストレスであり、誰か男性が、今度いつ会える?ときいてくることを考えただけで、息切れがしそうなのだ。


そして、あらゆる意味での欲求は、死んでしまったかのように消え去った。

してもらいたい、やってほしい、一緒にわかちあいたい、という「~したい欲求」は存在しない。


そんな時、この後ろからやってくる心配事は、私に何を突きつけているのかと考える。

私は、これに関して他人に助けを求めることに、何の意味も慰めもないことは知っている。

だから、一人だけで抱えてたまにブログを書いたりしているのだ。


それだけのことがわかっていながら、それでもこの心配事に終わりがないのはなぜだろうか。


どんなに人を助けたくても、助ける力すら自分にないことを悟り、自分の目先の生活をしっかりやれというお告げだろうか。

助けることができる、という驕りを捨てて、この孤独な不安に耐え抜くことで、生きることの本当の自立を学べということだろうか。


できない、と心の中のひとつの声が言う。

それを聞いた私は涙を流す。

冗談じゃない、今までこれだけがんばってきたのに、乗り越えられないことはありえるわけがない!

という怒りの声を心の中に聞く。

私は涙をぬぐい、自分を強いと実感する。


実際は、まったくわからないのだ。

自分のことすらわからない。





そして、今日も仕事に行く前にこうしてちょっと書くことで、心をなだめている。

そして、帰宅したら、私には私にエネルギーをくれる子供たちの世話をして、話を聞いてやらなくてはならない。

そして、疲れていて面倒くさいと思うけど、一生懸命子供に向き合っていると、不思議と力となって返ってくるのである。

だから、私は子供たちを一生懸命育てないといけないと、本当に反省している。


そして、根源的な心配事を抱えながら、つまらぬ家事をこなし、ちょっと涙を流しても、また生きていくという、実に単純な「生活」にまみれる毎日を送る。

そして、永遠に思えるほど、毎日同じ営みを繰り返し、同じ行為を繰り返し、ひたすらに「生きている」ことだけを実感している。

生きていくことは、生活であり、生活を絶え間なく繰り返していくことに耐えていくこと。

そして、大きな事が起こらなくても、太陽が明るくなったことに、感謝して、今日も笑えたことに感謝している。

謙虚になっても、反省をしても、この心配事は消えない。


中世のカトリックのように免罪符を払ったところで、煉獄の日数が減るというものではない。

カルバンやルターのような運命予定説を一瞬思う。


信じても中世を誓っても、自分が救済されるのかされないのかは、神のみぞ知る。

自分の生前の行為で、そんなことは左右できないのである。

だから、結局自分と神との関係において、忠誠を尽くし、信仰し、自制しつつ、救済を請うことが、唯一能動的にできることの一つである。


ということは、今の私にできることは、望みを持ち続けること、そして、繰り返す日常生活の中に喜びを見出し、与えられるものは、今のうちにできる限り多くを与え、自分には多くを望まず、ただ今も息をして生きていることに、感謝をするのみだ、ということが今理解できた。


最近、キリスト信者になろうかと思うことがある。

神学に首を突っ込んでも、信者にはなれないと常に言い聞かせてきたが、自分が、他人の存在では解決できない、根源的問題に突き当たったとき、いつも私に答えをくれたのは、聖書だった。

西欧社会に長いこと生き、この文化圏で生活し、関わっているから、キリスト教がしっくりくるのかもしれない。

それも、若干他力本願とも解釈できるカトリックではなく、ひたすら自分と神との対話を追及するプロテスタントのほうに、親近感を覚える。

これも、私がプロイセンに住んでいるからだろうか…。


しかし、最近宗教の意味がうっすらと見えてきた。


そして、祈ることも、最大の能動的行為であると、私は思っている。



涙を流しながらでも、命そのものに人間は逆らえないということを理解して、私は精神的に寄り添い、「生きることの質」を「内面」から築くことを忘れないよいうにせねばならない。

そして、内面からこそクオリティが生まれてくるのであれば、私にも何かできることがありそうな気がしてきた。


意味不明な内容だと思います。

でも、私は元気になりました。

では行ってきます。


2011年2月15日火曜日

息子の成功

この日曜日、息子参加するTrioのコンクールがあった。

ドイツではJugend musiziertと呼ばれて親しまれている。


Anne-Sophie MutterやPeter Frank Zimmermannなども、このようなコンクールに子供のときから参加して、全国大会で、一位を収めてきているのである。


朝から夜8時まで縛られて、親子して疲れたが、結果として、彼らは満点で一位を獲得し、州大会への出場許可を手にした。

次回、また得点を獲得し一位になれば、今度は全国大会となるのだが、楽器も楽器だし、道は険しい。


ちなみに地域大会の点は25点が満点で、0~4点 参加しました、~8点 成功を収めて参加しました、~12点 大きな成功を収めて参加しました、~16点 三位、~20点 二位、~22点 一位、~25点 一位+州大会への資格


となっている。


息子たちは、よく練習を積んできた。

三人の両親は、私も含めて全員音楽家である。

親が口うるさく言いつつ、人の迷惑にならぬよう、それぞれが子供をけしかけたのがよかったのだろうか。


今回は、同類管楽器アンサンブル、同類弦楽器アンサンブル、ソロはピアノ、声楽、ハープ、アコーデオンであった。

年齢別に5グループほどの別れており、息子たちのグループは、12、3歳であった。

この年で、あの楽器を吹きこなす子供の数は圧倒的に少ない。

なので、それもあっての好状況だとも言えるが、ほかにフルート、クラリネット、縦笛など、年少からやってきているグループも多く、決して州大会への資格を手にすることは容易いことではなかったろう。


評価も批判はなく、特に息子の大きなフレーズの音楽性を褒められたのに驚く。

あの子には、音楽性がゼロだと先生に疑われ、親としてももうおしまい、違う学校へ行きなさいとまで叱咤してきただけあって、彼の殻がこの特訓で破れてくれたのはうれしい。


ところで、彼の学校からは同じクラスメートも含め、ピアニストや弦楽器アンサンブル、管楽器アンサンブルなど、10人以上が参加していたが、全員25点、もしくは24点で州大会へ出場となった。

あの学校は、この音楽コンクールに参加しないように、という意見もあるらしい。

確かに、一般の公立音楽教室での才能コースに通っている子供と比べても、訓練が違うので、昨日の結果を目にして、なるほどとうなるものがあった。

息子の学校には、ただ同然であれだけの教育を与えてくれて、感謝をするのみだが、5年生から音楽一本にしぼり、しごかれまくる姿を見るのは、特にバイオリン・チェロでは、胸が痛むこともある。

精神を病んだり、脱落する子供が、本当に多いのだ。

DDR体質を残したこの学校を批判する人も、多いのも事実である。


ちなみに、何年も前に娘のこのコンクールに参加し、20点でぎりぎり二位であった。

彼女は当時は、才能コースに通っており、公立音楽教室ではスターであったのである。

そのときに、25点満点で州大会へ行き、全国大会で一位をとった少女が、今息子のクラスに転校して来た。

バイオリンは、本当に生死の分かれ道が早い。

娘はやめさせてよかった。

今彼女は、違う道を探りながら、彼女なりの表現を見出しつつある。



さて、州大会への出場資格を得られなければ、学校の生徒としてあり得ないという雰囲気であるが、この地区戦は、実に甘い。

ここから州、全国へと移っていく中で、さすがにレベルはどんどん高くなる。

勝つことは考えずに、舞台に立つことを学んでほしい。

舞台が仕事場になるからには、舞台慣れしなければ、神経が持たない。

最近、新聞で目にするのは、音楽家の演奏会前にあがってしまう体質改善をするという精神科医たちの記事である。

あがってしまうと、管楽器の場合、息も上がってしまいとても吹けたものではない。

ピアノの場合、手が汗で湿り、震えることで、ミスタッチが出る。

暗譜をおそれることで、かえって穴が開く。


そういった不安を抱える音楽家は常にいたのであり、多くのオケの中でさえ、アルコールに頼ってきた音楽家の伝説は必ずある。

最近は、それを回りに知られないよう、匿名で厳正なる極秘主義を保ち、セラピーしてくれる医師が出てきたようである。

それだけプレッシャーが高まると同時に、商売と仕事が絡み、一切の弱みを見せられないという現状なのである。


子供に音楽をやらせることは、しかもこういった学校にまで入れてやらせることに、今でも抵抗がある。


しかし、今回息子を見ていて思うのは、やはり人間的な成長があるということに尽きる。

鍛えることで、心が鍛えられ、技術が鍛えられ、そして成功体験により、自信が出て、表現する勇気が出てくる。

野心が芽生える、意欲的になる。


息子は、やめるという言葉や、転校という言葉を一切口にしなくなった。

それどころか、学校でも、クラスで飛びぬけた成績を取りたいとまで言い出したのである。

もちろん一過性のものであるが、この意欲はこのコンクールからきている。


音楽をやらせることは、全人格教育であると改めて思うのである。


自分は、何を鍛えられたかといえば、つぶされてもつぶれないところだろうか。

練習したくなくてもやらねば、という意識から、ノルマや責任感があるのかもしれない。

そして、舞台に立った経験から、ちょっとやそっとのことで、びびったりしない。


たったそれだけだが、音楽もやらなければ、これすらなかったかもしれないのである。


息子は、これからが本番。

まずは州大会で全力を尽くしてほしい。

2011年2月6日日曜日

日曜日 ― ミサ

日曜日、久しぶりに早起きをしてシャワーを浴び、しっかりと食事を取った。
息子が教会のミサを兼ねたコンサートに参加するので、こういうことになったのだ。

Frühstück2


ミサに参加したのは、もう何年ぶりだろうか。
一時はさまざまな教会を覗きに行って、さまざまな説教を聞いてみたことがある。
聖書を読んで、少し解釈して、ニュースを話題に出し、表面的に道徳的な教えを説いておしまいにするところが殆どだったが、今日行った教会の牧師様は、心に響いてくる言葉をたくさん下さった。

クロイツベルグという、マルチカルチャーな地区の小さな教会で、角にあるアパートの建物の天辺に鐘が突き出しているという、まさに住民とひとつになったようなつくりである。

80人の教会員のうち、常時参加は30人だというが、その小ささがちょうど良く、誰もが互いを知り、説教をする牧師様が自分に語りかけてくれているような、程よい距離なのである。

片隅に座った私に、世話係の老齢の男性が賛美歌の本を手渡してくれ、握手で挨拶を交わす。
牧師様は礼拝堂(といってもそんな大げさなものではないが)に入るなり、見知らぬ私を見つけ、握手して、ようこそいらっしゃいました、とで迎えてくれた。
はっきり言って、私たちの訪問が先に告げられていたとしても、このような暖かい歓迎は、あたりまえではない。
この教会の魅力をすぐに感じ取った。

説教の内容は、一字一句といって良いほど、心に刻まれている。
それほど、聞き逃したくなく、心に留めておきたい言葉ばかりであった。
しかし、それを全部ここに記してしまうと、非常にありきたりな言葉になってしまうそうなので、控えておく。
私の心は、確かに深いところで動いたのだが、それを書いてしまうと、まるである種の作用が無になってしまうそうで怖いのだ。

しかし、聖書のコリント人への手紙からの引用であり、それは物事の表裏に関してであり、裏こそに目を向けるべきであること、そして表の美しさというのは、非常に壊れやすく、赤絨毯の上できらびやかな装いを披露している有名人ですら、自分たちと同じ非常に中庸な人間性であるのに違いないということ。表面が壊れた場合には、中身に入っていたもののみが、価値のあるものとしてのこるということ、そういうことを聞かされた。
そして、Herrlichkeitというのは、紛れもなく光であり、光は、どこで一番明るいかといえば、暗闇で最もその明るさを発揮することができるという言葉である。

そして最後の逸話からは、真の幸福とは、自らの心底から欲して他人を助ける喜びを知った時ではないか、そしてそれは、極貧、または戦争のような世界にあっても可能であるということを教えられた。

その後、静かな祈りのときが来る。
うつむき、沈黙に入り、その説教の内容がこだまする中、頭の中で自らを捜し求める。そして他者の存在を思う。

そして厳かに主祷文を唱え、再び賛美歌を歌う。

__________

結局、信仰しているのか、信者なのか、それともわれわれは人間なのだろうか、ということを問うた時、この教会においては、信者であるかないかということは関係なく、訪れるもの皆、信者たちと一緒に、一つの深い思いへと至ることができるのだと実感した。
それは、自らの日常生活を振り返り、自らに問いかけながら意識して生きているかということを再び問われ、欲望と虚栄を振り払うべきであるという教訓を聞き、自分にとってでは失うことができないほど大切なもの、そして伝えていきたい大切なものとは何かということを直に問われる。
その思いの中で、礼拝堂にいる人間は一つとなっていた。
もちろん、私自身も動かされる心を意識しつつ、そこに共に在った。

教会の雰囲気といえるほどの建物ではない。
おなかに響くようなオルガンの音色ではない。
歌われる賛美歌は簡易で、ラテン語の魔術に惑わされることもない。
地に足を着いた普段着の人間が、心の扉を開ける時間、または自らの中へ帰る時間として、そこに立っている。
蝋燭の数も少なく、ステンドグラスもなければ、乳香が漂うわけでもない。

何が言いたいかといえば、教会という圧倒的な建築物、そしてそれの持つ神秘的な雰囲気に飲まれてしまったのではないということだ。
私の心が動いたのは、そして信者の心が毎週洗われ、思考を刺激され、反省を促されるのは、紛れもなく、「ロゴス・言葉」によってであり、神は目に見えず、自らの中に対話を通して見つけ出していくものであり、写実的な存在でもなければ、バロック的絢爛としてその光が現れるものでもないという、まさにプロテスタント的実感であった。

今まで、いくつのプロテスタント教会を訪れたろうか。
いったい、何回プロテスタントの説教を聞いただろうか。
私の心をここまで動かしたのは、しかし、このマルチカルチャーな街角の小さな教会なのであった。
人々が、生活の中に、この説教から生まれる「思い」を生かしているからこそ、この教会はこうして息づいているのに違いない。

特に経験から言うと、プロテスタント教会では、信仰しているのか、それならば、どれほど深く聖書を理解しているのか、洗礼を受ける気があるのか、教会の共同体に尽くしていかれるかなど、そういった質問が圧力を持って浮き上がってくることが多い。
カトリック教会は、個人的にはその点、非常に開かれているという気がしている。たとえ啓蒙がなされていなくても、万人に扉は開かれていると、個人的には感じる。
プロテスタントは、子供でもない限り、自らの意思の強さをしっかりと確認される。
私は、どちらが良いのか問うつもりもなければ、問うような立場にもない。
カトリック教会では、荘厳な雰囲気の中に、神の存在を天上に実感してしまう瞬間というものを見たし、信者のファナティックとも言える信仰心と、その祈る背中から立ち上る情熱に、心底心を打たれたこともある。

しかし、この教会のミサに参加して再び実感するのは、宗教の存在の本来の目的は、信仰そのものなのではなく(教会の目的は信仰であり信者の拡大であるが)、人間性の中身を切り裂き、人間性、人間的とは何かを常に問いかけ、本当の喜び、満足は、実に献身の姿勢の中にしか見出せないのだ、という究極の真実を実感するために在るのではないのかということだった。

使徒達の思いを実感するには、新約聖書、特に手紙を相当読み込まないとなかなか難しい。
しかし、説教の中で、断片を聞き、その解釈や背景を知ることにより、彼らもたゆまぬ労苦と困難を乗り越えても、歩む限り壁に突き当たってばかりいたことを「体験」として実感できる気がするのである。
そして、暗い道を歩んでくるものこそ、希望も救いも、人によっては神との対話を通して、自らの中に見つけ出していくしかない、ということを知らないで通り過ぎることはできないのだということを理解する。

もう誰もいないと思った時に、言葉に出会う。
言葉によって、光が見える。
光によって、神なのかもしれない、神と呼ぶことを許容する。
不思議なことに、希望の足りないところに、希望が生まれてくる。
もう少し暗闇を歩んでみようと思う。
そして、一人ではなかったことに気つき、現在一人でいる人々が見えてくる。
そして、一人ではないことを、その人たちに何とか伝えようとする。
そして、献身の姿勢のなかに、今まで覚えたことのない幸福を感じ、自らが光るようになる。

私は、私たちのまったく気づかないどこか遠くの、またはどこか裏の世界で、こういう作用が起こっていることを信じているし、そういう人生は、光の当たるところには生まれないだろうということもなんとなく理解している。

教会へ行くこと、または何かを信仰することにより、人間が一番苦しいときに、一歩でも前進し、一つでも多くの希望を得ることができるなら、それこそ、宗教の意味ではないかと、そんなことを思ったのである。

そして、苦労がなく幸せで、何にも憂うことがないと実感している人間は、それが自分ひとりによって、得られたものではないことを忘れずに、感謝の気持ちを持って、虚栄と欲を捨て、謙虚に、そしてもっと謙虚に生きていくことを忘れず、良いときに分けることのできるものを、できるだけ分かち合う努力をすべきであると、本当に実感するのだった。


説教の間中、何回も仏門に入った方と、同じようなことを説いているなと思った。
つまるところ、人間には、生命に意義を与え、日々できるだけ内実を伴った生き方をしたいという根本的な気持ちがあり、それは表の成功ではなく、裏の人間としての成長に代わる物はないのではないかと気がついた。

そして私のように若干自己嫌悪や自己過小評価の傾向があるものには、こうした「言葉」を聞くたびに、生きる価値を得ようと努力する必要はないのだと救われる。
生きる価値は万人に在り、誰かの存在価値が低いことはないのだという原点を信用することができる。

私はたまたま、言葉に出会うと、光にめぐり合ったり、心が溶け出すことが多い。
その上、たとえ簡易化された賛美歌だとしても、皆で歌い、トーンを紡ぎ出す行為には、何か一つの浄化作用があるような気がしている。
なので、キリスト教会に通うことに違和感は覚えないが、信者になるつもりはなく、しかしそれは実は、全然関係のないことなのではないかと今日思ったのである。

神秘主義とか、インチキくさい霊能者とか、ペテン的占い(れっきとした統計学や天文学に基づいたものもあるが)などに頼るのではなく、もう一歩を踏み出せないときに、もっとこうした伝統宗教がその役割を担って欲しいものだと、これは日本に関して特に思うのである。
仏教では、例えばお寺がもっと意味を持って欲しいし、福祉と連帯して何かできないのだろうか、そういうことを思ってしまうのである。


良い日曜日だった。
帰宅後、二度目の朝食をとった。

Frühstück1

2011年1月29日土曜日

故郷

心の故郷を求めて、さまざまなところを彷徨い続け、けれどけれどどこにも故郷を定められない自分を、もしかしたらそれも神からの贈り物かも知れないと、今日そんなことを思った。


空に青空が見えるようになった。

その青は、12月に見上げていたあの灰色がかった青ではない。

澄み通るような青に、白い雲が浮かんでいる、あの春先の空。

そして、運転しながら、そろそろサングラスが必要だなと思うこともでてきた。

極寒を越えた後の光ほどうれしいものはない。生き物としての自分を実感できる。


昨日前から気になっていた歌手のアルバムをやっと買った。

そして、懐かしく過去を思い出し、憂う心で未来を思い描き、深い暖かさと共に現在の幸福と静けさに感謝した。


彼女はスイス人で、父親の関係で欧州を渡り歩き、英独仏とスイス語で歌う。

私のお気に入りのオルタナティブシンガーソングライターである。

(最下段動画参照)


彼女の曲を聞いていると、スイス時代、本当に手のひらにしか乗らないような、他人にはわからないような小さな小さな幸せを、胸の中に抱きながら、一心に子供を育てて夫を待っていた自分を思い出してしまう。

そんな自分を不幸だとも、苦労だとも思ったことがない。

必死だった。


そのわき目も振らない必死さに、当時純粋だった自分を見る。

いとおしいと思う。

そして、彼女のスイス語で歌うその曲を聞くと、涙がほろリとこぼれてくるのだ。


ドイツから引っ越す前、長男が生まれ、夫婦は大変な危機に陥った。

ある日突然、ツアーから帰ってきた夫は、どうしてもできるだけ早く私と子供二人を日本に帰し、自分は新しい人生を始めると言い出したのだ。


彼の帰宅に備えてご馳走を作っておいた、その料理がキッチンで湯気を立てていた。

あまりの不意を付かれて、そう言えばそれ以来拒食症になってしまい、さっぱり母乳がでなくなり、二ヶ月の息子を小児科に連れて行き、栄養が足りていないと言われたことを思い出す。

恨む気持ちはまったくなかった。

それより、いよいよこの時が来た、自分の至らなさを突きつけられる瞬間が来ただけだと、そう実感すると、食べ物など一口も喉を通らなかった。

空腹すら感じなかった。


泣いてばかりいる乳飲み子をいつもひざに抱いて、夫が恋に落ちた悩みを聞かされ、その共演した彼女のことを愛しすぎているから、自分たちの間にはどんな関係もない。それほど、聖なるものなのだ、どうしたらいい?どうしたら僕と彼女はうまくいくだろうか、そんな話を聞いていた。


寝る前に公衆電話から彼女に電話するために、毎晩外に出て行った。

そして泣き腫らした目をして帰宅した。

私はベッドの上で天上を見つめ、魂を失った人形のように、ただ息をしているだけだった。


帰宅した彼を黙って見つめ、愛を全うして欲しいと本気で願っていた私は馬鹿だろうか。


そんな一騒ぎがあったあと、君の愛が足りないから、僕は孤独でこういうことが起きた、と突然ヴェネチアから電話があった。

一年が経過していた。それほど、この話は尾を引いたのだ。


あまりに孤独だから、今から海に飛び込んでしまうかもしれない。


そんな道化のようなことを、でも本人に泣き声で聞かされ、私は自分の愛の足りなさを恥じた。

そんなこと言わないで、死ぬまで努力するから、そう答えて力説していた私は、やはり悪魔の輪に巻き込まれていたとしか言いようがない。



スイスの話が来た。

やり直そう。


私は場所を変えて問題が解決するとは思ったことはない。

やり直しは無理だと思ったけど、希望というのを絶つことは生きている以上、やはりなかなかできないのだ。

希望は悲しくも、やはり抱いてしまう。


そうして始めた新生活がスイスだった。


全然違う言葉を話し、小さな町で、まったく違うメンタリティーの中で、一からやることは苦労ではなかった。

むしろ新しいからこそ、希望をいつまでも抱き続けられたのだ。


___________


スイス語を聞くと、悲しくて仕方ない。

そしていとおしくて仕方ない。


私たちのあの頃は、本当に馬鹿が付くほど未熟であったけど、お互いに必死で、愛を守ろうとし続けた。

そして、小さい子供たちが常に私たちの間には存在しており、それを愛する気持ちは、ぴったりと一致していた。


きっと、家族崩壊のトラウマが消えることはない。

初めて弁護士のところを二人で尋ねて、気をしっかり持っていた私が、道路に出たとたんに泣き崩れてしまった。

その隣で彼も泣き崩れた。


次に一人で弁護士を訪ねたとき、地下駐車場に留めた後、財布を忘れていることに気がつき、近くの警察署でお金を借りて駐車場を出た。

よほど、気が動転していたのだろう。


家族が崩壊した場所なのだが、何があっても救おうと毎日醜い闘いを続けながら、私ができることのすべてを投入しきった土地もあそこなのだった。

本当に倒れるまであきらめないと決め、最後にシェルターに逃げる形で、終止符を遂げた。



あれから私は随分と打たれ強くなった。

でも、一皮むけば、あのころの傷はすぐにまた、どくどくと血を流し始める。

何もかわっていない…。

私という人間の交渉の仕方は変わったけれど、私という人間の在り方あまったく変わっていないのだった。


過去の自分が、そのまま皮膚の下にまだあのころのままで住んでいるのだった。

それは私が全人生を賭けて守ろうとしたものであり、一生に一度の何にも変えがたいものであったのだろうと思う。


だからスイスは、私の故郷とも言える。

あそこには、必死で正直で純粋で、ただ夢中だった私がいた。

そして、それこそ、私の素の姿であり、私の原型なのに違いない。


だから、私は彼女の歌を聞いていると、私の全人格が揺り動かされ、見知らぬ彼女を抱擁したい衝動に駆られる。


彼女こそ、彼女の人格がそのまま表現と歌に現れている。

感動するということは、恐れを持たない人間を実感するときなのかもしれない。

そして、評価に対する恐れをまったく持たずに、素の姿をそのまま丸裸に世間になげうってしまえる、その直接さが私の心を打つのだろうと思う。

それができるということは、自分が常に自己と一体であり、その自我と自己の一致した根底から、一貫した自分への信頼があるからこそ、世間に防御なき自分の波打つ心臓をさらけ出すことができるのだろうと、そんなことを思う。


そして、スイスに暮らしていた私は、まさにそういう生き方をしていた。

自分の試みは、どこまでも正しい、いや正しいなどという判断をする間もなく、ただ一心に信じていたのだろう。



そういう生き方は、もはやできない。

それは大人になってしまったのだから、本当に仕方ない。


でも、私には、いろいろな心の故郷があることが、実はとても豊かなことだと思えるようになった。


言語は精神を支配している。


そのさまざまな言語が使用される場所で、生き、体験し、感じてきたからこそ、私には、4言語の心の思い出がある。

個人的な体験が、周囲社会の言語という支配下にある言葉の世界の中で、一つ一つ微妙に違った様相を見せているのだ。



そのうち、どれが私の心なのかわからない。

そのどれも自分の心なのだろうと思う。


4ヶ国語で歌ってくれるSophieは、私の心の琴線に触れる。



過去を思って涙を流しても、実感するのは不思議なことに、私はなんて幸せなのだろう、そういった満ち足りた気分なのは、鈍感なのか、鍛えられたのか、それともフロムが言うように、苦労や喜びの如何に関わらず、集中的(インテンシブ)な人生こそ、真の満足と意義をもたらすのかもしれない。



週末はSophie三昧だろう。





2011年1月17日月曜日

燃えろアタック

 こんなタイトルの番組があった。


久しぶりに風邪を引いて、寝込んでいる。

水曜日に気分が悪くなり、木・金と仕事を休んだ。

休んだとは言え、翻訳の仕事を休むわけには行かない。

引き受けたものには締め切りがあるし、今回の案件は、翻訳ソフトウェアを扱える人間が私しかいなかったため、ほかに人に代わってもらうことができなかったのだ。


私の同僚に、優秀な中国人がいる。

同じ案件を違う言語で引き受けていたので、打ち合わせもあって風邪だということを伝えた。


風邪を引く時点でだめなんでしょうね。

自己管理能力の欠如なんだわね。いや、しかし子供が風邪を持ってくるわけだし。


と自己叱咤とも言い訳ともつかぬ半端なことを言ったわけだ。


しかしね、子供が三人もいて、一人きりで二つの仕事を掛け持ってやっているというのは、それだけでパワフルじゃないの。

僕なんか、子供が一人で妻が世話をしていても、時々死にそうになる。

そういう意味で、君のことはいつも、よくやってるなと思うんだよね。



普段こういうことを私に敢えて言ってくれる人はほとんどいない。

私自身、誰かに何かをやってもらったことがない、つまりそういう人にめぐり合わない、選択しない、または無意識に拒否しているところがあるので、自分の立場を比較できる状況を知らない。

だから、あまり泣き言も言わないのかもしれない。

泣いても、一人でなくと白けるのだ。


しかし、それとは別に、父のことを思い出す。

私の父は頑固で、厳しかった。厳格で長身、インテリ、という素敵なお父様じゃない。

気風の激しい、東京育ちの厳しさである。


私が何かを相談しようと思っても、一切相手にされなかった。

そして一言、居間に掛けてある額縁を指差して、でかい声で言う。


「不言実行!」


この額縁は、鎌倉の浄智寺の先代のご住職に書いていただいたもので、父は大切にしているのだ。

やりたいこと、言いたい事があったら、物言わず実行し、結果を見せて相談に来い!


まあ、単に面倒くさかっただけ。しつけも教育も、一切関心なかった、といってしまえばそれだけ。

まったく便利な額縁であったのだ。


しかしながら、不思議なことに、彼の熱いバイタリティは私の中に宿っているらしい。

私がすばらしく努力家であるとか、すばらしい成果を上げているとか、とんでもない。

そんな世界とは180度反対の、くすんだ世界にいるのだが、好き勝手にやりたい代わりjに、泣き言を言わずに自分で生きていく、という部分は似ているらしい。


そこで、結果は全部ハチャメチャなのだが、責任は引き受けているつもりなので、許してほしい。



話がそれた。

熱がある頭では、あまり文章を書けない。


その同僚は、上海出身のそれなりの家柄の中国人であるのだが、ベルリンでメディア学の修士を取り、小津安二郎に関する論文を書いたというほど日本びいきなのだ。


その彼に、いよいよ中型プロジェクトが入った。

まだ熱はあるけど、ファイルが来たので、仕事配分をしたり、ファイルの変換をしたりと準備していたら、結局仕事を始めちゃったわ。


というメールを書いた。

すると彼から、一つのリンクが送られてきたのだ。


この番組の主役に、君ならなれるなと、僕はいつも思ってたんだよね。

懐かしくない?これ?

君を見ると、この主題歌がなっちゃうんだよね。



メールの最後にウィンクマークがついている。


私は、実は人生に一つの戦略しかもっていなかったと気づく。


根性。


効率も、道筋も、論理も何にも考えずに、ただ相撲取りがぶつかっていくように、前面に体当たりしていくだけという、超原始的な戦略。


人生の時間を無駄にしまくり、壊したくないものが壊れ、(ポイント!自分で壊したものは一応壊して正解でした)、未だに先が見えていない。



根性のどこが悪いんだと思うのだ(今の時代馬鹿にされます)。


効率だけが人生じゃない(言い訳)。



でも、これ、毎日見てました。

歌ってたよ、一緒に。

私の人生戦略は、燃えよアタックだったのか。