女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極所作
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱
私は彼女に向って、すべてを癒
公平な「時」は大事な宝物
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口
かくして常に生よりも死を尊
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七に関して
何故生きるべきなのか。それに適当な答えを見つけるのは難しい。宗教的に死を選ぶことが罪とされている場合には、理屈はいらないのかもしれない。しかし死の方が尊いと思う心も解らないではない。
私は相当の馬鹿で阿呆で、この文章を読んだときに、「その女の始末」という言葉を、この会話をしている女を苦しめている別の女性だと思っていた。
そして漱石は、
単に生きるという目的だけならば、生きていれば良い。しかし美しい、気高い心持こそが生きる理由になり得ると考えれば、問題は違うという。つまり単に息をして生きているだけでは、人間は生きていない方がましではないかという、女性自身の疑問を受ける形の答え方をしている。
そこで女が、
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
と述べ、漱石は女が「広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事」を理解している。
そして漱石は、その後何も言わずに立ち上がって女を帰すのである。そのときのことを
おそらく、漱石はこの女の悲痛な人生を聞かされ、誰にどうすることもできない、つまり言葉では到底解決や救いのない問題を聞き、胸苦しい思いで彼女の天涯孤独と切羽詰った状況を知るのだが、彼の夜空を見上げる心は、その描写のように清浄であった。そして外套や帽子のことも考えずに、女の後ろに、つまり女の人生に寄り添っている。
そして女は、最後に「先生に送ってもらって光栄」だと言う。漱石は本当にそう思うかと聞き返し、女はそうだと答えると、
この光栄をどう解釈し、そして光栄ならば何故生きているべきなのか…。
それは女は初めて漱石に自分の人生を語りつくした。そして、語ると言う行為の間に、自分の人生に言葉を与えることによって、苦しみこそ生々しく浮き上がってきたが、それ以上に「これが紛れもなく自分の生である」ということを悟ったのではないだろうか。何を語ろうとも、どんな助言を請おうとも、自分の生は、自分にだけ与えられたものであると同時に、他の誰にもどうしようもできない。 なぜなら生を語るのは言葉であるが、自らの生とはやはり生きるものに他ならないからであろう。女は、これまでの苦労に満ちた人生を語りながら、同時に「美しい心持」をその生き様に実感し、それを失ってゆくことを極度に恐れている。
それを誰か、つまり漱石に語ったことで、彼女は捨てても良いと思った生を実感した。聞き手は言葉を与える代わりに、その苦悩も孤独も言葉を介さずに受け入れ、彼女の中に鼓動を打つような生命と生を尊いと思わせるような、覚悟や真剣さを見出し、寄り添うように送っていった。それを彼女にも、無言で理解できたからこそ、「光栄」だと言ったのではないだろうか。
だからこそ、「ならば生きていなさい」と云う答えになったのではないだろうか。
漱石は、死の方が尊い、と言いつつ、彼女の話の中に、生を尊いと思わずにいられないものを感じたのかもしれない。
「むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」
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八に関して
「私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。」
これが女の背景である。
「私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。」
これが漱石の答えだった。
そして「深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶」を取り上げたとしても、「彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」」によって止血させようと試みた。なぜ「いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当」と言ったのか、私にもそれは良くわからないのだが、それは彼女の奥ゆかしい生に対する姿勢が、命そのものをすでに尊いものとして捕らえている、それを漱石が感じ取ったからではないだろうか。
「かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。」
それは人間の営みは、真剣であればあるほど、また運命というものに逆らいすぎずに、それを一種の自分に与えられた生としてひたすら生き抜くと言う姿勢そのものが、すでに尊いからなのだと、私はそう解釈したい。
そうでなければ、
「有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」
という文章は表れないのではないだろうか。小話や人生劇など現実の生に比べれば、その存在の尊さにおいて、比較にならないということなのではないだろうか。
最後に、彼女に生きていなさい、と言ったことに対して、凡庸な自然主義者ではないかと揶揄するが、漱石もまた生に対してなんとも慎み深いのだろうかと読み取れ、その漱石の温かい人柄、そして生きていくということは、根本的に淋しいということを知っている、そのような孤独を感じ取り、この話を読んだ後、えらく心を打たれて、暫し硬直してしまった。
私自身に重ねれば、やはりなぜ生きるべきか、何故生きていなくてはならないのかと問い続けた日々があり、自分の生き方を肯定できずにいた。私は残念ながら今まで、人生の歩みを言葉にして語り、聴いてくれる人があったという機会には恵まれていない。
それどころか、私は自分の人生だけは、延々と言葉にしまいと誓ってすらいる。他人にとって、人の人生など、どうという関心はないのである。しかしこの作品を読んで、彼女が語らなかったら、決して生き続けていたかどうかはわからない、ということを理解した。
彼女は、生に言葉を与えたことで、自分の生をその手で握っていることを実感し、救われたのである。
そして漱石は、尊い小説を読んだ後のような、人間らしい良い心持を感じた。
ここに、まさに私自身も救われるような思いがしたのである。
美しいものを見たかと問われれば、見たことがあると答える。
美しい心持にめぐり合ったこともあれば、自分自身からも深い献身を試みた、純粋な深い思いを知ったとも答えられそうな気がする。
それならば、それは私の人生の最大の幸運であり、傷から血を滴らせながら、その美しい心持を現在のまま保つことが生きることではなく、それを言葉として刻み込み、私自身の事実として色あせても手中に持っているだけで、十分幸福なことであり、それ以外の不愉快なことは、死ぬ理由でもなければ、美しさや純粋さを失うことが死ぬ理由でもない、ということを知ったからである。
現在は常に色あせる。
そして激しさの中で、傷の癒える時間を待ちきれないとき、やはり「語り」は己の人生を救うのではないだろうか。そして漱石は、それを強力に肯定しているのではないだろうか。
そして、人は書き、記録し続けるのではないだろうか。
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