2010年9月17日金曜日

心理的カオス

再三書いてきたテーマだが、心の整理に記した走り書きを投稿。
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そういうわけで、少しは落ち着いただろうか、と思える感じに、また日常が回り出した。

ドイツに帰国してくることは毎回苦痛なのだが、今回は特に哀しくて、なかなか辛いものがあった。
新高輪まで送ってもらい、そこからリムジンバスで成田にくるようになって、もう何年か経つ。
昔は、母が成田まで送ってくれたものだが、今の彼女には長距離を一人で帰路につく気力もないし、私自身、そろそろ高速を使っての長距離運転はできるだけ控えて欲しいと伝えてあった。

そこで、発着共にリムジンバスとなったのである。

ホテルで別れる時、母はバスが来る前に、私たちを降ろしたら子供たちを一人ひとり抱きしめ、私の目をあえて見ずに、翻るように帰って行った。私は若干胸に痛みを感じつつ、彼女の車が去っていくのを見守った。

バスが来てから、気を取り直したのだが涙が流れてしまった。いつも我慢できていた涙が、今回は勝手に流れ出してきた。やはり病気の母を置いていくという良心の呵責が強かったのだろう。

バスの中から、日本の通勤風景が見える。ハンカチで汗を拭いながら急ぐサラリーマンや、日傘をさして歩くOLたち。制服を着た中高生、犬の散歩をする下着姿の老父。

何もかもが愛おしく映り、何を見ても涙があふれ出てきて仕方なかった。
日本を去るのは、日本の暮らしやすさや、育った場所や、母語を離れるから辛いというのではない。

この場において一言では語れないが、私の子供の頃の魂は、日本のどこかで私に捨てられたまま待っており、かたや、ベルリンから日本への飛行機に乗った途端に、私は大人になるためにずっと一緒にいてくれた私の魂の片割れをドイツにおいて来ている。

私のルーツと欧州はつながっておらず、私の立っている地面の足の下に、多少根が生えているぐらいである。
ところが、日本の国土は、私のルーツと直結しており、家族や友達、さらには、そういった人々と複雑に絡み合った思い出が、網の目のように地面の下に張り巡らされているのだ。

富士を見て涙が出るのは、私の五感による故郷という実感であるだけでなく、富士に関する思い出、歩いた道、家族との散策、そのときに食べたもの、来ていた服、はやっていた音楽、乗っていた車、読んでいた本などが、一丸となって、こみ上げてくるのである。

そして、それは横浜であり、中華街であり、東京のあらゆる場所、小さな横丁に至るまで、散りばめられている。

ドイツにもそういう思い出があるだろうと指摘されても、一人きりで、あるいは自らの配偶者や子供たちなどと築いてきた思い出など、無意識に襲われるような、半ば支配できないような思い出の嵐とは、比べ物にならない。

子供時代の思い出は、大人のように意識して体験されたものではなく、親というものに守られながら、感覚的な記憶として残っているからだろうか、その波は突然やって来て、そして常に思っているよりもずっと大きいものなのだと実感した。

そして、私は今、子供達が後に彼等の子供時代を思い出した時に、こうして胸に響くような体験となる、その大切な種をまいているところなのだと気がつく。

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母は、元気な声を出しているが、彼女も娘と離れて暮らすことにすっかり慣れてしまっているのだ。
しかし、母が病気であるとか、家族が助けを必要としている場面で、私自身が一人、ドイツで歯を食いしばって、忙しいです、仕事が来ます、頑張っています、子供も育てています、と言ったところで、如何ほどの意味があるのかまったく自信がなくなってしまった。

自分はどうしたい、という次元ではなく、私の役割は何で、それはどこにあるのか、と言った考え方をするべきなのだろうと言うことだけは見えてきたのだが。


しかし、役割を考えるに当たって、子供たちの母であるべきか、母の娘であるべきか、私の場合、それを決して物理的には混合できないところが、本当に苦しくてしかたない。

子供の母としては、教育を考えてどうしてもドイツに居残ろうと思うだろう。私自身としても、どんなに五感から来る故郷を愛おしく思っても、20年以上暮らしてきた中で築いてきた幾ばくかの基盤を捨ててしまうのも怖いのだ。

けれど、私が日本に帰ると、母だけでない、役に立つことが重複して出てくる。
父も、そして母も、誰一人帰って来いとは言わないし、むしろ帰ってくるなと言っているのだが、兄や義姉がどれほど私の帰宅を待ちわびているか知れない。

家庭の事情で、私が帰ると、救われる問題と言うものある。

そして父いわく、

おまえが今までキャリアを積んで、立派に課長だ、何だという立場を持っているのなら、何も言わないが、ここまでやったって、フリーター以上のものにはならないじゃないか。リスクを負って生きるなら、日本だって同じではないか。

このような発言の次の日には、父も帰ってくるなと言うわけで、彼自身孫の将来と自分たちの立場とで、揺れに揺れているのだろう。

しかし、そうなのだ。私の立場など、日本の家族に苦労をかけてしがみつくほどの価値はないのかもしれない。
しいて言えば、子育てのために残ると、たったこれだけの理由のみが、帰国を阻止しているのであり、これが実は最大の問題なのかもしれない。

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日常が回りだすと、帰るという言葉が見えないところまで遠のいてしまう。
ドイツでもやっぱり良いや、などとそんなことを思うからではない。しかし、ここにいる限り、私には子供を除いて助けを求めてくる人もいないが、助けを求める人もいない。私の運命は、私だけの手にある。私の責任である代わりに、私が私自身の中心を常に実感しつつ、それを手中に収めたまま、生きているという直接的な人生への関与を実感できる、

日本に行ったらどうであろうか。
役に立っているという満たされ、意義のある実感、そして家族との連帯感、家と言うものを守るという伝統的行為。そういうものを私は得ることができるだろう。

しかし、この、明日もあさっても、どうころんでも、泣いてもわめいても、私が立ち上がらなければ、子供のご飯もなければ、私自身の明日もない、という、ある種ストイックで、純粋な生命の感覚は、もう得ることはできないかもしれない。

それを失ったら、強いと思っている私自身が崩れるようで怖い面もある。
私が日本に帰るならば、私の背中に常にいて、私と常に会話をしてくれる、もう一人の私の中の私という魂の片割れを置いていくことになるのだ。
何故なら、彼女は私が一人になったからこそ、私の中に生まれた。彼女の故郷はドイツなのだ。

まさに、二つの大陸に跨って、大切な過去(両親)と未来(子供)に向かう家族を抱え、どうしていいのか分からない。

日本ではドイツ学園にも行き、申し込み用紙もそろえた。
しかし、まだ申し込めていない。

日本の国土で当然と思える私の人生観や価値観、そして決意なとは、欧州の土地を踏んだ途端にぐらぐらとその足場を失う。

そして、欧州に一週間も滞在すれば、また過去20年の間に、私自身が築いてきたこの場所における価値観や人生観、決意などが、これこそ正しいと言わんばかりに、にょきにょきと芽を出すのであった。

「私」の言う「私」が、これほど意味がなく、筋が通っていない。
決意というものが、実際には少しも決意になっていない。

それとも私が二つあるのだろうか。


そう言いつつ、今晩も夕方は入った月曜納品の仕事を断れず、ワインもそこそこに下準備を始めている。

不満を言いつつ、仕事が来ることがありがたく、頼りにされていることがありがたく、私を探してくれる人がいることがありがたく、それを切断して帰国するのは、身体的な痛みにも感じられるほど、良くしてくれた欧州に対する、まるで裏切り行為のようにも感じてしまう。

そして、手術前に、頻繁に電話が来るようになった母と、電話するたびに、私は元気だし、またカならず元気になるのだから、帰って来ようなんて思わないで、と最後の一言として言うのである。
そして、だからこそ彼女の本心が見えてしまい、迷いを示して、彼女を残酷にも傷つけることだけはやるまいと、大丈夫、準備を進めますという自分に、なんともいえぬ欺瞞を感じて鬱病になりそうなのである。


そういうことで、備忘録。