2007年6月18日月曜日

Dogvilleと現実

二週間ほど前になるが、Lars von Trier監督のDogvilleを見た。

道の行き止まりになっているロッキーマウンテンの小さな村、Dogvilleにギャングスターの娘が迷い込んでくる。Tomという真面目な青年の計らいで、彼女は村に隠れていることができることになる。その礼に、彼女は村人達の仕事を助ける。やがて警察が、ギャングの娘である彼女を捜しているということがわかると、危険を恐れ、村人達はだんだん彼女を虐げ始める。
彼女は、村を逃亡しようとするが、裏切られ、また村に戻され、道徳の塊のような言い草で罪を着せられ、とってもいない金を盗んだと濡れ衣を着せられ、鉄の車輪を鎖でつながれ、二重の仕事を強いられ、大変な屈辱を味わう。さらには、トムを除く、村の男達すべてが夜な夜な彼女の元にやってきて、娼婦以下の動物的な扱いをし、村の子供達はそのたびに喜んで教会の鐘を鳴らす。

今まで、Graceという名前をあらわすように聖母的に、善の塊であった彼女も、いよいよこの村を去りたいと、お互いに恋に落ちていたTomに打ち明ける。Tomは、いままでも、彼女を助ける人間だからこそ、彼女の側に立っていると村人にわからせてはいけないとか、道徳的口実で、本当の意味で彼女を地獄から助け出さなかった。
Tomは、二人で逃げようといいながら、いよいよギャングの父に連絡を取り、彼女を迎えに来るように取り計らう。

たった一人の頼りだったTomは、もはや自分の夢である作家になるために、彼女との出来事をまるで利用するかのように、自分のインスピレーションに入れ込んでいる。彼女の苦しみや、彼女の善良さをまるで踏みにじるように、それを題材に彼は、自分は今までかなえられなかったが、いよいよ社会から認められたいがために、エゴをむき出しにするが、それは常に道徳的なもっともらしい言葉で、覆いかぶされる。

聖母であり続けたGraceは、迎えに来た父とその仲間の黒い車を何台も見、Tomの裏切りを知る。
その父の残虐さを軽蔑していたGraceは彼と話しているうちに、「助けや恵をまったく受けるに至らないものもいる。彼らは、お前をこんな目に合わせて、まったく何の恩恵にも値しない人間達だ。」という意味の言葉を聴き、次第に、自分のなかに大きくアグレッシブにあふれ出していく感情を覚える。

彼女は、すべての人間を少なくとも自分が味わったと同じかそれ以上の苦しみを味わわせて殺せ、と命令をする。Tom自身は、そのギャングの残虐さにおののいていたが、最後にGrace自ら車から出て、「幾つかのことは自分自身でやらなくてはならない」と言い、彼を銃で殺す。

ストーリーとしてはこうだが、結局私が一番強く感じたのは、悪と善の裏返しとあいまいさであろうか。
キリスト教の思想に支配され、教会を中心として話し合いがなされ、善行として彼女は村にかくまわれるのだが、村自身に危険があるかも知れないという不安が、人々を不安定にする。安全が保証されない彼らは、よそ者である彼女を犠牲者のように祭り上げる。その悪の行為に限りはない。しかし、常に、それは村を守るためだとか、濡れ衣を着せて、罰せられるべきは彼女だと言う言葉の下に、善が守られる行為として、実際のところは悪が行われていると言うグロテスクさである。

それにも動じず、自分を自ら犠牲者として祭りたてるように、従順なGraceであった。ところが、このシステムには属さない人間、父との会話により、いかにその行為が酷いものであったかが、いよいよ意識に上り、彼女に復讐心がわく。善を貫き通していた人間の、善自体のもろさを見せ付けられた。

善を謳っている人間の、行為そのものは善の名の下に悪であったりする。
悪や汚い物として扱われている人間こそ、善の行為で埋め尽くされたような生き方をしている。これが、犠牲者のシステムで、そういう力関係は、実際にあるし、ある意味でイエスキリストも、このような犠牲者の枠にはめられたところが会ったといえるのだが、その後、このシステムの箍が外れると、彼女は、人間としてその仕打ちの残虐さに気づき、自分自身の残虐な復讐心が彼女を支配するのである。

善とはなんであろうか。
悪とはなんであろうか。
人間は、善悪を備えているものであり、世界は善悪を分けた行為をすることは不可能なのである。
善が、善のみでありうることは難しく、悪が悪のみであることも、これまた殆どありえないのである。

閉鎖的な村という設定は、世界をミクロコスモスのように描き出すことがある。
キリスト教の、特にプロテスタントの道徳的行為に対する批判かとも思えるような感じだったが、それは少々勘ぐり過ぎかもしれない。

昨日、ニュースで知った。
バイエルン地方の、とある小さな村である。
そこに、父親を早くなくしてしまったり、両親をなくしてしまったりした子供達が入る孤児院があった。

そこである少女は、二人の農民に、何年もにわたって、規則的に強姦され続ける。その少女は現在50近い。彼女は、ひょんな偶然から、村を早くに出て行った、もう一人の孤児少女に再会する。彼女が、やはり二人の農民に、定期的に何年間も強姦されていたと聞く。
二人は、その男どもが同人物だとわかり、ショックをうける。
男二人を訴える決心をした。

結果、すべての村に住む女性達が、彼女ら二人をコテンパンにけなすのである。
魔女に違いない。
変なフェミニスト思想に染められた。
どうせレズなのだろう。

下劣かつ低俗な言い草である。
中世かとでも問いたくなるような批判の仕方である。
こんなレベルで、村の女がかばったのは、強姦魔の農民男二人だ。

一人は、現在仮逮捕され、取調べ中である。
もう一人は、あれは全部嘘だ、という遺書を残して、首をつって自殺した。

村の女達の怒り心頭である。
どうしてくれる!
村をめちゃくちゃにした!

一見当然のようなこの言い草だが、
めちゃくちゃにされたのは、当時少女であった二人の女性である。
何もないのに、訴えるわけがない。

閉鎖的な村は、日本でも村八分という言葉や、楢山節考などの映画にもあるように、村独特の法律がある。法律というかシステムと言った方がいいであろうか。
そこには、独特の道徳や倫理が定められている。

しかし、日本では、道徳観念が欧州とは違うと思う。

楢山節考でもそうだが、悪を犯した家族は、悪でもって処分される。
あんな奴ら、殺しちまえ!

ところが、キリスト教社会では、
あんな奴ら、殺しちまえ
とは言えない。

そこで、もっと複雑な善的発言の下に、真実は悪の行為がなされるのである。
しかし、これは自他共に認められる善行とみなされるわけである。

その辺が、私はDogvilleを見て、胸糞が悪くなった原因であろうし、
この村の話を聞いても、胸が悪くなるのでる。

しかし、Dogvilleを象徴するような出来事が実際にあるのだ。

小さな閉鎖的村では、障害者、独り者、孤児、などの社会的弱者が、犠牲者として祭り上げられることが多い。

それこそが、この村の安定を保っている軸である。

この辺の理論は、ルネ・ジラールを参照されたい。