2019年11月28日木曜日

知らなかった過去

今回の帰国で、ここまでことがスムーズに運ぶとは想像もしていなかった。ただ、母を施設に入れなければならないだろうという漠然とした覚悟を持って帰国しただけだったのに、帰国当日に相談員と面会し、次の日に3件見学し、その日のうちに最初のホームに決定してしまった。それから、何もかもが滞ることなく実行され、あっという間に母の施設入居は現実のものとなった。

夜、眠りに就こうとするたびに、様々な考えが思い浮かび、その多くは罪悪感、同情、憐憫、不安、悲しみといった感情に直結しているため、自然と涙が流れてしまう。身内の命という問題を扱うのが、ここまで重い仕事になるとは思ってもいなかった。頭で理解しているのと、実際に感情の揺れ動きをなだめながら体験してゆくのとはまったく違うのだと、今更ながら実感している。

何はともあれ、素晴らしく明るく温かい雰囲気で、活気のある介護士たちが誠実に働いていることが伝わってくるような施設を見つけたことは幸運だった。建物にも内装にも細部にわたるまで気遣いがなされており、ホテルのようなその様子には、まったく寂しさを感じることがない。対応も文句なく、すぐに信頼感を与えてくれたこのような施設に直ぐに巡り合えたのも、また何かの運命だったのだろうか。

一年前から真剣に介護のことで悩み、様々なサービスを利用しようと試みたが、うまく行かなかった、母自身の強い拒否感もあったが、何より父をはじめとする私達家族がそこまで決心できなかったというのが最も大きな理由だった、それでも段階を経て、今回はこれ以上父が母を介護することは不可能だという意見にまとまった。全員の気持ちが限界に達していたのだ。
しかし、母自身の人生の今後を決める決定権を我々は奪ってしまったことになる。彼女の背後で準備を進めることは、彼女の尊厳を無視していることになる。それが最も辛い。家族全員が、その重い罪悪感と共にこの日々を過ごしている。
そして、無理に入居させられた母が毎夜何を思い、どれだけ不安になり、どれほど家族を、とりわけ父を恋しく思うかを考えると胸が張り裂けそうになる。

そんな中、私は突如、祖母の位牌がある仏壇の下の引き出しを開けた。何の意味もなく、ただ好奇心から開けただけだった。そして私はそこに、いくつかの非常に大切なものを見つけてしまった。それらは母の人格をしっかりと象徴しているものばかりであった。

まず、祖母のお葬式の写真があった。それと共に祖母の施設での最後の数か月がくまなく記録された報告書もあった。私はそれらすべてを一語一句逃さず読んだ。祖母が7年以上にわたって暮らした施設での姿を私は殆ど見たことがない。すでに日本を離れて10年以上経っており、祖母が入居した次の年には末子が生まれ、引き続き別居となったため、日本に5年間帰国しなかったため、入居したその年に祖母を見舞ったのが最後となった。そのため、報告書から祖母の日常を知ることは、私にとって非常に新鮮なものだった。祖母の独語が増えたことや、最後は嚥下がうまく行かず痩せていったこと、それでも時折笑顔を見せて会話をしていたことを読み、施設で撮った2枚の写真と見比べながら、私は記憶の底から優しかった祖母を思い出していた。そしてその2枚の写真には痛々しいほど年老いた祖母の姿があった。
祖母のお葬式の写真は、母が送ってくれた。ちょうど私の所を訪ねてきたその時期に祖母の容体が変化して亡くなり、父が電話口で号泣していたのを覚えている。義理の母の死に声を出して泣く父の声を初めて聴き、私は父の優しさを知った。母は次の日、航空券を買いなおして帰国した。祖母の死に顔は穏やかで、母がそっと顔に手を当てていた。祖母を本当に慈しんでいる表情だった。ご苦労様という声が聞こえてくるようだった。

その母は、その時期を前後して、終活や介護に関する新聞記事を数多くスクラップしていた。その記事も引き出しに入っていた。傍線が引いてあったり、同意と記されていたりし、母が熱心に老いや死について考えを巡らせ、多くの情報や意見を集めていたことがうかがえる。なんと皮肉なことか、母は今はもうそうしたことを一切覚えていないに違いない。もう一度記事を見せ、読ませたところで、それを自分自身に反映させることはできなくなってしまった。病識が一切ないのだから、仕方ないのだ。しかし私は、老いに対する母の葛藤を、不安を確かに感じ取った。母も自分自身の老いを体験しながら、未来に不安を抱き、万全な準備をしようと心していたのだ。それが、今は何の役にも立たない。母自身、今一瞬でも明晰な考えを取り戻して、自分の今の状況を見ることができたなら、自ら進んで施設に入ることに同意したかもしれない。しかし、今となってはその答えを知ることはできない。

母方の祖父や祖母の写真の中に、母自身の幼少の写真も混ざっていた。目がクリっとした、目鼻立ちのはっきりした幼い母が、大切に育てられた様子がわかる。母の生まれは複雑であるが、母は暖かい家族に囲まれてすくすくと育ったに違いない。母自身も子供時代を何の苦労もなく幸福だったと言っていた。私は母の顔の中に自分の一部を認め、私自身が確実に母の血を受け継いでいることを改めて実感した。
子供の頃の写真と共に、母の中学時代の同級生の写真もあった。母が後日大学を卒業してから結核を患った際、ノートにこの同級生らが各自様々な格言を記して、母を励ましたらしい。その達筆さと種々の格言のすばらしさに私は胸を打たれた。それに加えて、母自身の小さなノートブックも出てきて、そこには母の記したいくつかの詩、そして草木のスケッチがあった。私は思わず泣いてしまった。そこには母の輝くような感受性があふれていた。このノートは若い母の魂がかつて存在し、たくさんの美しい言葉や描画を生み出す豊かな感受性が存在していたことを証明するものだった。今の思考力を失ってしまった母からは想像できない、生き生きとした若き母の姿がそこにあった。それは私が生まれすずっと前の若い女性としての母の姿だった。

さらに引き出しを探ると、二冊のノートが出てきた。
一冊は父が1960年新婚早々結核にかかった時のノートだった。父が万年筆で病室での日々を書き記し、たまには母もそのノートに自分の想いを綴っていた。
そしてもう一冊は、母が1962年に結核にかかった時のノートで、こちらは母が見舞客や父の様子と共に自分の病室での日々を克明に綴っていた。
両方のノートを読むのは、私にとって非常に気恥ずかしいことであったが、思いがけず私は二人の若々しく情熱的な愛情を知ることとなった。母は病床の父が寂しくはあるまいか、退屈してやいまいかと、絶えず気を使って、いかに喜ばせてやろうかと苦心しているようだった。母自身、夜は眠れない日々を過ごし、父を訪ねて笑顔を見ることを毎日心待ちにしていた。父も母の訪問を心待ちにし、同じく寂しい夜を過ごす空虚さを嘆いていた。
母が病気になった時のノートでは、母が入院するまでの父の気遣いと心配が書かれ、入院後も毎日のように母を訪れては、あらゆることを話し、明日も来るという約束を交わして家に帰り、母も二人の家を恋しく思って、何度も外出や外泊を願い出ていた様子がうかがえた。二人で外出や外泊した際の楽しさは格別で、二人がどれほど幸せな関係を築いていたかを知り、私は少し気恥ずかしくなったが、同時に誇らしくもあった。私自身の子供上二人のような年齢の両親の新婚夫婦としての姿は、本当に微笑ましく、彼らが幸せな結婚生活を送ってきたことに安堵した。そして父が此奴には本当に世話になったので、今度は俺の番なのだと言って、母を今まで7年も支え、介護してきたことにすんなりうなづけた。それだけ深い愛情の歴史と土台があったのだ。

ノート以外にも、父が学生時代に母に書き送った手紙が数通入っていたが、何かプライベートを侵すような気になって、これはまだ読んでいない。しかし、単純に母も父も達筆で文章がうまかったことに驚く。昔は手紙やはがきで通信しあったのだ。今のような崩れた日本語ではなく、しっかりと美しい日本語で、好意を書き記し、愛情を表現していた。私は両親の全く新しい姿を知り、年老いた彼らの姿を楽にタイムスリップさせて過去に戻り、若かりし頃の姿を生き生きと心に思い描くことができた。

彼らも確かに存在していたのだった。
無垢な幼い子供として。
多感で傷つきやすい青年として。
そして、情熱的で思いやりにあふれた若い大人として。
私たちがこの世に生まれてくるずっと前から、彼らはこの地球上に存在し、血の通った人間として、彼らの人生を生き抜き、彼らのストーリーを紡いできた。その道のりの途中で私たち子供が加わり、今まで50年余、家族として共に歩んできたけれど、彼らが親になる前、彼らが自らを形成してきたずっと前の年月を垣間見て、私は初めて彼らを独立した個人として認識することができた。それは命に対する感動と言っても良かった。

私はなぜ、この引き出しを開けてしまったのだろうか。よりによって母が施設に行く四日前に。まるでそれは、母とのお別れのようだった。母の命はある。けれど、母と私は別れなければならない。物理的にではなく、心理的に私は母にさようならを告げなければならないのだ。なぜなら、確実に一つの時代が幕を閉じるから。彼女の意志に反してであるけれど、今彼女の終活への扉が開こうとしているから。

不思議なことに、今、ここで母のことを「母」と呼ぶのは相応しくないようにさえ感じる。私の中で、母と言うよりも「彼女」と呼ぶ方がしっくりくる。彼女は私たちの母であるというだけでないのだ。母は、何より一人の生き生きとした人格を持った女性であったのだ。

私たち家族が暮らし、私達兄妹が育ったこの家に母が帰ってくることはもうない。私が実家に帰宅しても、もう母の姿はここにはない。それに対して、私は今晩偶然にも母に精神的な別れを告げることになったのではないかと、そんな気がしている。

その後、リビングの棚に無造作に積み重ねられていた何百枚もの写真をじっくりと時間をかけて見て、大切なものはすべて写真に収めて、デジタル化した。それは、母の根源を初めて知った後、ゆっくりと現在までの道のりを時間軸に沿ってたどってきているような感覚だった。様々な年齢の、様々な場面の、様々な表情の母を見た。私の子供たちを抱き、弾けそうな笑顔を見せている写真。父が世界各地、日本中で撮影したいくつもの母の写真。もう十分に見納めたと感じることができた。

母は素晴らしい母だった。
そして母は父にとっても素晴らしい女性だったのだと初めて確信することができた。
母は祖母にとっても素晴らしい娘であったの違いない。
母は、母を取り巻く家族全員にとって、かけがえのない、素晴らしく、愛すべき存在であった。

その母は、認知症になって以来、すっかり変わってしまったように見える。しかし、母の魂に変わりがあるはずはなかった。私が帰国するたびに、母がこの上なく幸せになることは明らかだった。私が完全に帰国して、限界が来るまで母を介護すればよいのだろうか。私は仕事もやめて、家族も置いて、母の病状の悪化と老いを支えるべきではなかろうか。そんな考えが頭をもたげてくる。
しかし、その時、あの満面の笑みを見せた60代ぐらいの母の姿が浮かび上がってくるのだ。そしてこう言う。
「バカなこと言うんじゃありません。自分の家族や仕事をおろそかにしてまで親の面倒を見るなんてばかばかしい話はない。そんなこと私はこれっぽっちもしてほしくない。そんなこと言うなら、専門の人に見てもらった方がよっぼど合理的で理にかなっている。私はそんなこと許しませんよ。」
私は、脳裏に浮かぶ若かりし頃の母に、心の底から礼を述べ、そして同時に謝罪する。本当にごめんなさい。近くに住んでいないことを許してください。

父も年で、もう母の介護をすることはできない。
父の苦しみと葛藤は、私の比ではないだろう。父はそのことに関して深く話すつもりもなく、むしろ自分の感情には触れてくれるなと思っているに違いない。その父の思いを私は決して知ることはできないが、私が生まれるずっと前の両親を知った今、私は父がどのような思いでこの最後の日々を過ごしているのか、少しだけ想像がつくような気がしている。

今晩は、たくさん泣いた。施設に入居させるはずの母が、過去に生き生きとした人格を持ち、自分の意志で人生を生き抜いてきた、豊かな感情を持った女性なのだとわかったからである。申し訳ない気持ちでいっぱいになったからである。でも、母は私の母であり、愛する父の妻である。母に健全な理解力があれば、必ずや私達と同じ決心に至ったであろうということを信じて、私は今後過ごすしかない。

母は渋谷で生まれ、3歳で大田区に引っ越し、そこでずっと育った。
父は恵比寿で生まれ育ち、母と結婚して大田区に住み、一時一家で横浜に移ったが、10年も経たずにまた大田区に戻ってきた。
母の施設は、大田区でも母が育った家にほど近い。母の中学時代の友人も住んでいたのではないかと思われるほど近い位置にある。今の母にそんなことを言っても何も感じないかもしれないが、私はこれも何か、ルーツに立ち返るような気がし、ある種の運命としてとらえている。

この病気を憎むけれど、母への愛情はこれっぽっちも変わっていない。今晩、私は母の若かりし頃を知ることができただけでなく、このことを深く再認することもできたのだった。

どうか、許してください。
どうか、これも愛情から生まれた決心であることを信じてください。
そして、本当にどうもありがとう。あなたが存在しているだけで、今でも私は無条件に「愛情」というものの存在を信用できるのです。それは私があなたから、十分過ぎる愛情をいつどんな時でも受けたからに違いありません。
本当にありがとう。

2019年10月6日日曜日

娘の木の人形

いつだったろうか。きっと娘がまだ幼稚園の頃に、木の人形をプレゼントしてやったことがあった。娘は小さい頃からとても繊細な子で、外に出れば太陽や雨風、虫や草木など身の回りの環境を敏感に感じ取り、一つ一つを確かめるように触ったり、見つめたりして立ち止まっていた。だから散歩に連れ出しても10歩進むのに10分もかかるようなことがあり、目的地の公園にたどり着く前に、その道のりだけですでに疲れて帰ってくることさえあったほどである。

ある日長い坂道をゆっくり歩きながら登り、黄色い落ち葉で地面が埋め尽くされている小さな公園にやっと着いた。そこには小さなばね仕掛けの木馬があったので、娘をそこに乗せてやろうと思ったが、彼女は一向に関心を示さず、すぐに飛び降りて、枯葉の下に隠れている石ころを探し出しては、一つ一つの石を丁寧に見比べて、気に入ったものは手のひらに収めていった。その後は、どんぐり集めをして、きれいな葉っぱをいくつも集めて、またのろのろと坂道を下って帰ってきたことがあった。数個の石とどんぐりと葉っぱを彼女はいつまでも大切そうに手に握っていた。結局、遊び道具よりも、自然の小さな世界を発見する方が、彼女には楽しいらしかった。

春になれば、なんでもない道路の端っこに集まった蟻を見つけてしゃがみ込み、いつまでも「アリさんだ」とニコニコ呟きながら黙って蟻の一行を観察していた。ダメな母親であった私は、買い物の時間とか、その後の家事などが頭にあって、娘のことをいつも急かしてしまった。発見や観察の喜びを彼女と一緒にじっくりと味わうという余裕を大人になった私はすでに失っていたのだ。

そんな娘は、リカちゃん人形のようなものよりも、自然に近いものをこよなく愛した。どんぐり人形はもちろんのこと、手編みの毛糸のセーターを着たテディや、布地で作った人形をこよなく愛し、ベッドの枕もとに並べて良く世話をしていた。出かけるとき、彼女は人形用の乳母車にそうした大切なぬいぐるみや人形を入れて、どこへでも持って行った。乳母車を押せないときには、かならず一つ人形を手にし、汗で濡れてしまうほど大切にそれを握りしめていた。

それもあって、Waldorfschuleのバザーを訪れたときに、ちょうど手のひらに収まる男の人と女の人と一対の木の人形を買ってやったのだ。思い返せば、そんな娘にはWaldorfschuleこそぴったりではないかと思い、ごくまれにしかいない当時の夫に頼み込んで、娘と三人そろってバザーに行った。私達の関係は当時まだ非常に情熱的であったが、付き合い始めた当初より波乱万丈の日常で、私は常に一触即発の雰囲気に脅え、夫の一挙一動に注意して腫れ物に触るように行動していた。幼かった娘は、それを完全に感じ取っていたはずである。そんな不安定な親子三人がバザーに出向き、見知らぬ環境で様々な人に会い、多くの教室を見学し、蟻んこ一匹で10分も楽しめる娘は、ほとほとその情報量の多さに疲れ切ってしまったのかもしれない。最後にたどり着いた教室では、裁縫作品が販売されており、可愛らしい人形がたくさん売っていた。そこで布の人形と木の人形も買ってやったわけなのだが、娘は手のひらサイズの木の人形を特に気に入っていたようだった。…いや、実はそうではない。それが男女一対だったから、娘は常に手に握りしめていたのに違いない。両親の情熱的だが常に不安定な関係を見て育った娘は、常にある種の不安や悲しみに付きまとわれて育ってきた。だからこそ、男女一対の人形を手に力を入れて握りしめていた娘の姿は、今思い出しても、涙が出るほど心が痛む。

ある日、私たちはまた喧嘩をしたのだろうか。あの頃の記憶はほぼ飛んでしまっているので、あまりよく覚えていないのだが、どこかで私たちはまた3人だったのだ。娘が寂しそうにしていたからか、娘がぽつんと一人で立っていたからか、私は「ほらお人形だよ、これ忘れるところだったね。○○ちゃん、これいつも持ってるでしょう?」と言って彼女の手のひらに対の木の人形を握らせてやった。娘は突如、糸が切れたように泣き出し、やがて嗚咽に代わり、私はいったいどうしたものか途方に暮れて娘の腕を握って彼女の前にしゃがみこんでいた。

先日娘と電話で話した時、笑い話で終わるはずが、なぜか急に木の人形の話になった。
「ママ、覚えてる?私が木の人形をいつも持っていたこと。」
「そういえば、あったね、いつも握っていた人形。」
「そう。あれね、あれをママに渡してもらって、いつだっかた大泣きしたこと覚えている?」
「うっすらと覚えているよ。あれどうしたんだっけ?」
「私ももう覚えていないけど、とにかくもう感情がそれ以上我慢できなくなって、木の人形見ただけでもう感情があふれだしてきて、悲しいのか、嬉しいのか、それもわからないけれど、どうにも我慢できなくなって大泣きしちゃったの。私、昔のこと、色々覚えているんだけど、とにかくいつも感情があふれだして、どうにもならなくなって泣いちゃったことがたくさんあった。」
「そうだね、見知らぬおじいさん見ても泣いたし、訳もなく泣き出すことがたくさんあった。」
実際は、彼女に泣かれると5分かそこらで済むことではなく、何時間にもわたって泣き続けることも稀ではなく、私は神経は擦り切れ、疲れ果て、慰めきれず、いっそ頬を打てば目でも覚ますのではと思ったことも1回や2回ではなかった。
私はだからこそ、娘のことをおとなしくてどんな言うことも聞くのだけれど、とても難しい子だと認識していたのだ。

しかし、この電話で娘の言った「感情があふれてきてどうしようもなかった」という言葉に、私はほとんどショックを受けてしまった。
彼女を身ごもった時、そしてそれを知った時の悲しい背景、私自身が健全な精神を保つ限界にあった妊娠時代、深い愛があってもその愛が果たして健全と言えたかどうかはわからない両親のもとに生まれた娘。こうしたいくつもの要素を考慮すると、娘にとって男女一対の木の人形の象徴する意味を推し量ることはそう難しくはない。
あの時、娘が円らな瞳から大粒の涙を流して、顔を真っ赤にして大泣きしていた。汗ばんだ手にはしっかりと人形が握られていた。なだめようと、人形を受け取ってやろうとしたが、彼女が人形を離すことはなかった。

私は、およそ20年経った今、親としての責任を改めて実感せざるを得なかった。幼い子供にも、夫婦の緊張感はしっかりと伝わるのである。子供の感性というのは大人とは比べ物にならない。娘は毎日のように、悩み苦しみあがき続ける私の背中を見て育ち、父親が帰ってくれば、溢れんばかりの愛情と、次の瞬間は殺気立った緊張感が走るそのギャップをしっかりと感じ取り、色々な人形を握りしめながらおとなしく振舞っていたのである。私はふとした瞬間に、親らしく優しい一面を見せて、人形などを握らせてあげると、何かがきっかけで突如嵐のように泣き出してしまうということだったのかと、新たに彼女の当時というのを理解できたような気がした。それと同時に、胸がしくしくと痛み、あんな幼い子どもに、私は何という寂しい日々を与えてしまったのだろうかと、悔やみきれない思いになった。

人形というのは握りしめ、可愛がり、一緒に寝ることで魂が宿っていくものなのだろうか。それが真実であるかどうかはわからないが、少なくとも娘にとっての人形には魂が宿っていたのではないかと察している。彼女は人形に本当に話しかけていたのだ。そして必ず人形の方からも自分の悲しい心を温めてもらっていたの違いない。彼女は風とも、草木とも、蟻んことも話ができる子供だった。そんな繊細さは、幸に恵まれれれば、スクスクと個性的に育っていくのだろうが、悲しみや不安に囲まれた環境では、そんな繊細さがあるからこそ感受性がさらに鋭くなり、彼女自身では到底抱えきれない感情の波を生み出してしまったのに違いない。

「人形だけじゃなくて、ママがパパに怒られてね、一人でベッドで泣いてたの。だから私、ママの所に行って、膝の上に乗って、ママ大丈夫?って聞いたことも覚えてる。そうしたら、まま泣きながら笑ってくれて、私も少し涙が出たと思う。」
娘はもう一つの思い話も語ってくれた。私はこの時のことはよく覚えている。いや、ほとんどの記憶が飛んでしまったけれど、娘が私を助けてくれた光景や、娘が私を助けるために描いた絵や手書きの手紙のことは、ほぼすべて覚えている。それは大変ありがたいことである。これらの記憶すら忘れてしまっていたとしたら、私はこれ以上生きていかれないほど不幸であったのに違いない。

私自身が無我夢中で生き残ろうとしていたあの頃、死ぬつもりで早朝に車を走らせに行ったあの頃について、私は文字通り私の側から見たわずかな記憶しか残っていない。確かにそこに存在していた娘が、今あの頃の気持ちを吐露してくれたことで、私の消えそうな記憶が再び鮮明に浮かび上がってきた。思い出すのが辛いと同時に、娘の小さい頃に思いを馳せて深い愛情を感じるという、甘さと苦さの混ざった後味がしている。ただ、子供というもののすさまじいほどに鋭い感受性に本当に驚いた。そんなことも知らずに、まだ半人前の子供だった自分が一生懸命幼子を育てようとしていたことを思うと、恥じるというよりも、自分に対する哀れみが沸き起こってくる。
人はだれしも一度は未熟であったものなのだ。子供というのは大抵の場合親を許してくれるが、たとえそうであったとしても、私はやはり娘に、子供たちに本当に心の底から謝罪し、ごめんなさいと何度も何度も唱えたくなるのである。

2019年6月21日金曜日

長男のメッセージ

昨夜、過去の街から帰宅した。
そして今日は仕事を終え、散歩を嫌がる犬を車に乗せて、かつての飛行場跡地の公園に来た。広大な敷地に草花が育ち、傾いた太陽が小さな花をキラキラと輝かせていた。空は青く、白い雲がところどころ風に揺られて東に移動していた。
その空を見上げた途端、長男を思い、目頭が熱くなった。昨日まで2日間一緒に過ごしていたため、こうした気持ちになっても不思議はないのだが、実際にはもっと深い何かが潜んでいる気がしてならない。

一昨日、長男が学士試験を終えて、見事な演奏を披露してくれた。この間22歳になったばかりだというのに、その演奏は、若者ならではの荒々しさが一切なく、落ち着いた情緒があり、内面に深い音楽性の広がりを感じさせるものだった。まさに、本当は実に優しい長男の人柄が出ているのである。
昨今の音楽業界は、商業意識ばかりが先に走り、スター性のある演奏家ばかりが注目を浴びる。スター性とは極端に言えば、人を惹きつける万人の好む容姿と性格で、超絶技巧をこれ見よがしに披露し、「誰にでも分かりやすい音楽性」を「自ら見せびらかす」ことである。客が、派手な演奏と容姿に喜べば売れるからである。客層とは世代が常に入れ替わるもので、一部の忠誠的な客以外は成長しない。それに合わせているようでは、自らの内面も成長しないのである。

長男は、本能からだけでなく、自らの意志でこうした道を選ばずに、自分の内面と深く向き合いながら音楽を奏でている。内向的であるがゆえ、その技巧や音楽性をもっと前面にぐいぐいと出した方が良いという声もあるが、息子は「自分が見せるものではない、見せるなどおこがましい、作曲家に敬意を払えば、自分は黒子なのだ」と自覚している。だから、どこにもスポーツの匂いがなく、闘争心などというアグレッシブな音色が一つも聞こえてこないが、それでも内面の力強さは動かぬ土台として、十分な説得力のある演奏をしているのだ。それが私には誇りである。

若くして、有名になることをハングリーに求めず、音楽の神髄を追求していくその姿勢を私は非常に誇りに思っている。
本当に、成長の証としての卒業を嬉しく思う。そして、このような演奏を聴かせてくれた息子に心から礼を述べたい。

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息子がくれたものは、しかし音楽だけではない。
私は息子がその街で勉強することになったので、かつて家族が崩壊した土地を何度か再訪することとなった。
あの街に移り住んだのは21年前、そして離れたのもすでに15年前である。
それでも、空港に降り立ち、あの街の空を見上げるだけで、言いようのない悲しみに襲われ、突如嗚咽したくなる衝動に駆られるのである。それはまさに、衝動と言えるもので、決してだんだんと思い出が蘇って悲しくなるというものではなく、文字通り意識とは別の所から、情動が津波のように押し寄せてくる感じであるため、自分ではなかなか制御できない。
一昨日も、スーツケースを手にタラップを降り、素晴らしい天気に爽やかな気持ちを感じたのは一瞬で、地面に降り立ち、歩き出すや否や涙が流れてきた。バスに乗り換え、街中へ向かう途中、記憶によみがえるその景色を見ながら、気持ちがどんどん悲しくなっていくのを感じた。母を迎えに、または帰国の際に、何度となくこの道を走ったのである。中央駅に着いても状況は同じで、悲しみに包まれたまま、それでも15年経って変わってしまった駅前の様子を眺めていた。
別れて子供を連れて別居した後、初めて父親が幼い娘と長男を連れて2、3日遠出をすることになったとき、私はこの駅まで子供たちを送り、父親に引渡した後、一人で赤子だった末っ子を抱きながらボロボロ涙を流して、子供たちに手を振ったのだった。その時、家族を無残に引き裂いたのは、この私であるという事実を私は身をもって実感したのである。

その駅も背後に、新しくできた店で朝食を取り、しばし朝陽をたっぷりと浴びてから、私は大学へ歩いて向かった。そして長男が試験前の練習にやってくるのを一人カフェテリアで待っていた。

その後のことは、具体的に書く必要はない。

私は、最近になって、自分はやはり心理セラピーを受けなければいけないと実感するようになった。私は前夫と一緒にいた頃から、酷い神経症になり、パニック症候群や不安障害、連日の悪夢などで生活に支障をきたすことがあった。理由は前夫との関係にあったことは明らかである。別れた後最初の数か月は、いつ前夫が突然扉を叩いて静寂を破り、私に罵詈雑言を言ったり泣きついたりしてくるのではないかと不安で居てもたってもいられなかった。わずかな物音にも体が飛び上がり、存在を示すのが怖くて、テレビをつけるのも明かりをつけるのも躊躇したことさえあった。しかしそんな症状も数か月する頃から徐々に消えていった。

しかし、自分は幸せであると納得できる立場にいる今、突如また不安が襲ってくるのである。そして突然心臓の鼓動が高鳴り、いてもたってもいられない不安感に襲われ、発狂するのではと怖くなることがある。そしてこの不安感は、過去を消化できていないことに原因があるのだと、今になってようやく理解しかけているところなのだ。今まで思いもしなかったが、これはトラウマと呼べるのかもしれないと思うようになった。
そして、この乗り越えられない過去は、すべて昨日までいたあの街で起こったことなのである。
現にこれがトラウマでないのなら、15年前に去った街に降り立っただけで人は泣くものだろうか。そして何日間も鬱の状態から逃れられず、少女の声を聴けば涙を流し、小さな子供を見れば自分を責めずにはいられないなどということが起こるものなのだろうか。

子供たちが成人した今、私はできることなら、子供たちに明るい家庭を与えてやれず、一緒に遊んでやる時間も少なく、子供たちと過ごした記憶すらしっかりと思い出せないという、この終わりのない悲しみから逃れたい。
長男は半ば必然的にあの街で勉強することになった。ここには書けないが、そうせざるを得ない理由があったのだ。それで私は、再び過去に引き戻されることのなったのだが、それを私は一つのチャンスであると思うようになった。
記憶を上書きすることなどできない。それには起きた傷があまりにも大きすぎる。しかし私は長男を通してあの街を再訪し、街角をくまなく歩き周り、過去に遭遇してありとあらゆる思い出を消化すれば過去を乗り越えられるのではないかと思うようになった。長男は、子供時代に別れを告げ、自立での第一歩として幼い頃の記憶が一切ない状態で学業を1から始めた。そして父親と対峙することで、影の部分も含めて自分というものを知り、和解とまでは行かずとも、父親をも他者としてあるがままを受け入れるということを深い苦しみを通して学んだ。他者をあるがままに受け入れるためには、必ず自分を切り刻んで見直す作業を経なければできない。長男はそのすべてを体験したうえで、自分を再建したのである。長男が、まさにあの街でこの作業を行わなければならなかったことには、ある種の運命を感じざるを得ない。だからこそ、私にとっても、あの街には違う意味が生まれたとも言えるのである。私自身もまた、長男と同じように自分自身が老年に入る前に、乗り越えておかねばならぬ過去に直面していると考え始めている。それに至る前に、私は長男を通して、どうしてもあの街を再訪する必要があったのだと、今では考えるようになった。

子供たちの成長というのは非常に興味深いものである。思春期から青年期に入り、子供たちが人格を形成するちょうどその時期に、私自身も人生の岐路に立たされているわけである。老後の価値観と生き方自体を時間が迫るように問いただされているのだ。
子供たちの成長を見守りながら、常に何かがシンクロしているのを感じていた。娘の恋愛模様を見ながら、私は過去を何度も何度も振り返って娘に助言していた。間違えを避けてもらおうとは思わない。そうではなくて、人生で避けては通れない大事なターニングポイントをむしろしっかりと体験してほしい、苦しくても乗り越えてほしいと応援していた。そして、自分が一緒に泣き、悲しむ過程で、自分の過去を再体験していることに気が付いた。長男も同じである。彼と父親との対立は、私と前夫との対立と100パーセント同じパターンを示していったといっても良い。それを見守りながら、私はすべての感情を再体験していたのである。
すべての鞘の外にいた末っ子だけ、鬱という暗闇に呑まれてしまった。今やありがたいことにしっかりと回復しつつあるが、これも思い返せば、当然の成り行きなのである。別居してしまい、父親との接点が最も少なかった彼は、「家族」という感覚がないまま、当然のごとく思春期に鬱に入ってしまったのだった。

こうした子供たちの様子を見ながら、私は年々自分の罪の意識を知らずのうちに深めてきていたのかもしれない。だからこそ、不安発作に襲われ、悲しみが深まるばかりであったのかもしれない。

長男と私は、物事に対するハンドリングと考え方が非常に似ているのである。そして長男が大人になる過程で、私に素晴らしい贈り物を置いて行ってくれたのだ。それは素晴らしく成熟した演奏だけではない。私がどうしても乗り越えなければならない過去と直接直面させる代わりに、少しクッションを挟んで柔らかく直面させてくれた。彼の姿を通して、過去にすべてが起きた街を見て、再体験し、新たな意味を見出して、希望と共に乗り越えてほしいというメッセージをくれた3年間であったのである。そして彼の一昨日の演奏の中にこそ、その希望の光が象徴のように揺らめいているのが私には見えたのだ。だから、私は犬の散歩で自分の街に帰ってきたことを実感し、急に寂しくなったのである。長男からの贈り物の意味があまりにも大きかったからこそ、私は彼を恋しく思い出していたたまれない気持ちになったのである。
長男と試験前に過ごした慌ただしい午前中、試験後に皆で過ごした昼下がり、長男と二人での夕食、その後訪れた彼のアパート、次の日の朝食、そして一緒にじっくりと見て回った美術館、大雨に打たれて歩いたバス停までの道。互いに「そのこと」に触れることはなかった。が、こうした時間の中で、無意識のうちに長男は私に信号を送ってくれていたのである。

「ママ、大丈夫だよ。僕はしっかりと大人になったから。もう一人で生きて行かれる。ママもこの街を恐れることはない。僕たちはもう皆無事に大人になったんだから。皆過去をしっかりと見つめて乗り越えられる力をもらったんだ。それはママがまっすぐに目を背けずに生きていくことをしっかりと教えてくれたからに他ならない。だから、この街を恐れずに、怯むことなく歩き回って、ママも過去を過去のものとしてほしい。それが僕たちの願いなんだから。」

私は、演奏を何度も何度も繰り返し聞いてから、やっとこの思いに至ったのである。公園ではもやもやとしてはっきりとはわからないまま、長男のことを思い出し、とても悲しくなっただけだった。が、今こうしてやっと、自分が彼の試験を一人で聴きに行き、一人の時間をもってあの街で過ごしたことの意味と課題が明らかになったのである。

子供たちは一人一人が違った形で、こうした信号による素晴らしい教示を送ってくれる。
私はいつまでも自分の至らなさを反省しながらも、人が成長する、その麻のようにまっすぐに伸びようとする自然の力を心から信頼するようになった。そして、私は子供たちから少なくともまっすぐに伸びていこうとする力を奪うほどにひどいことはしなかったのだという事実も信じて良いのかもしれないと思うようになった。

長男に、そして子供たち全員に、心から礼を言いたい。

(長男の試練:https://tokyoniobe.blogspot.com/2017/05/blog-post.html)