2021年9月2日木曜日

音楽を忘れてはいけない

いずれその時がやってくるのはわかっていた。
母を施設に入れるまでも、それは大変な道のりだったが、こんなにも早くそして突然父の問題が生じるとは、正直想像していなかった。
どちらにせよ、父は一か月半にわたる検査期間を経て、大手術に挑んだのである。手術時間は10時間以上となり、輸血も行われた。
そして、2週間が過ぎた今、父はいまだに歩行できていない。コロナ禍で面会制限となっており、実質誰も父には会いに行かれないのである。それなのに、入院期間は最低1か月、場合によっては2か月を超えることもあるらしい。大手術後の痛みと苦しみだけでなく、一人切りで過ごす夜中、明け方を父はどのような思いで乗り越えてきたのだろうか。それを考えただけでも心が痛むのである。父は少なからず「死」を身近に感じとったはずである。そして何度となく、これ以上生きる意味や気力を問いただしたはずである。老いとは、本当に酷なものである。老いと共に、人間が仙人のように成熟してゆけばよいが、自分を振り返っても、今の自分は20代の頃の敏感さや弱さをまったく改善できていないようにも思えるのである。どんな年齢であろうと、死が目の前に立ちはだかって、おびえない人、何も感じぬ人はいないはずだ。老いとは酷だなと、今日もそれを思い、自分自身にも言い聞かせるのである。死は明日やってくるかもしれない。死を遠ざけてはいけない。唯一確実なことは、自分が死ぬということ以外にないの
だ。
妻を突然奪われるような形で自宅に一人きりになり、その寂しい生活が少しは軌道に乗ってきたかと思ったら、急に病気が発見されてしまった。 年を取っていくと、急激な変化で生活が一変してしまうこともあるということを思い知らされた過去3年であった。すぐさま飛び立って帰国したいところだが、父にも施設の母にも会えない。数か月帰国できる身ならば良いが、仕事や自分の糧を振り返ると、とても不可能だろう。それを思うと、退院のめどが立つまで待って、その後日本での滞在時間をできるだけ父と過ごす時間に当てなければと思う。
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自分の家庭と言えば、成人した子供たちそれぞれに対して、未だに様々な心配事を抱えている。
独立した娘も、誰もが経験する人生一度きりの激しい恋が過ぎ去り、その痛みをやっと乗り越えてきているところである。自分で決定を下し、自分で前に進んだとたん、ゆっくりではあるが、彼女の目の前にもやはり光が見え始めている。これは、まさに方程式といえるもので、人の人生は、自らが行動を起こさなければ、道は切り開かれないということなのだ。もちろん、巡ってくるチャンスというのは、運に関わっているともいえるが、運を待っている姿勢と、気力がないので何かを待っている姿勢は比べられない。まずは、やはり行動ありきなのである。打開しようという気力を取り戻すことが、何よりも大事であり、最終的には、何を切り捨ててでも、自分自身を立て直す以外に方法はない。

真ん中の息子は非常に順調であるが、いよいよ人生の分かれ目に差し掛かっている。様々なオーディションが目の前に転がり込んできた。ポストが空くだけでも幸運なのだ。それがいくつか空きが出て、公募がかかったということは、人生のチャンスと捉えるべき出来事であろう。本人もそれはよく理解しており、今までのだらけた自分の尻を叩いて、ようやく起き上がったところである。職人気質で、楽器が好きで楽器を完璧に操ることに情熱を抱いているという性格であれば、とりあえずコンクールやオーディションと言った場面には強い。しかし、息子は幸か不幸か、まったく正反対の性格で、揺れ動き、あっちこっちへと興味が移り、本来素養があると誰にも認められていながら、それを棒に振っているのかと思うような不安定さを見せていた。もちろん、いざという時に実力を発揮できなければ、それ自体が才能のなさを象徴しているのだ。
音楽の演奏解釈だとかいう以前に、まずは何をしてでもプロにならなければならない。プロとはあの楽器の場合、オーケストラに入ることである。それも首席奏者にならなければならない。これは、高望みというわけではなく、今までの経緯から、誰しもが彼からそれだけの結果を期待しているという事実に基づいているのだ。つまりそれを達成できないとしたら、それは単に本人の努力不足に過ぎないということである。
そうした中、息子は、自分はまだまだ駄目だと言いつつ、段々職業としてやっていく覚悟ができてきたなど、まったく意識が熟していないのだ。もっと一直線に盲目に前を見なければいけない。演奏家として、この姿勢はどうかと思うが、残念ながらスポーツと同様に、勝ち取る場面では、そのぐらいの勢いがないと職を取れないのである。全ては、根底に流れる恐怖心のなせる業である。恐怖心は克服しなければならない。何が何でも自分で制御して、乗り越えなければならない。自分を丸裸にして差し出そうと思うことが第一歩である。自分の失敗を恐れるということは、自分を信用していないと同様である。自分の実力に、自分自身で一つ一つ実績を載せていけば、恐怖心は消える。その実績が毎日の練習時間であり、集中力である。 息子の試練はどのように転ぶのか、私にはまったく予想がつかない。しかし、親として、たとえすべてのオーディションに無残にも大敗したとしても、息子の価値を疑うようなことがあってはならないと考えている。

さて、末っ子であるが、これが最もよろしくない。私が甘やかしたなれの果てだと認識して、毎日何とも言えない苦い後味を感じている。
何がよろしくないかと言えば、彼の集中力も探求心も恐るべき意志の強さも、他人にはまねのできない筋金入りのものである。これは彼の兄である真ん中の息子とは比べ物にならない。しかし、これは、彼が関心があることだけに言えることであって、彼にとってどうでもよいことは、まったく無視、嫌それどころかそういった分野を軽蔑しているのではないかとさえ思えるのである。こういう人は世間でまともに生きて行かれない。義務ということを拒否する人なのだ。たぐいまれな才能があろうとも、絶対的な自由を確保してやらなければ、廃人になるか狂人になるかして、才能は単なるゴミとして墓場まで持っていかなければならない。
しかし、考えてみれば、彼の原動力は100パーセントコンプレックスなのである。それは身体的なコンプレックスかもしれないし、男女平等を訴えるのも男性性のコンプレックスかもしれない。あるいは、他人と同じにはできないことに対するコンプレックスというのもあるはずだ。どちらにせよ、激しいコンプレックスを抱えており、それを認めるにはあまりにも自我が強すぎるため、それをカバーする強靭な意思やエネルギーを武器にするという解決法なのである。だから、彼の目指したことに対する意志はすごい。それは自分を完全に守り、一生コンプレックスに触れないで済むように、強靭な鎧を着るということ。つまり、本人にとっては生きるか死ぬかの問題なのである。この末っ子に、普通になってくれ、と頼み込んでも無駄である。母への情けなど、彼の心には一切響かないのである。それには、自分に課した使命が大きすぎるのだ。表面的には、社会的使命、社会を救おうとする使命感である。しかし、私にしてみれば、自分を完全に完璧に救済する手段なのである。これに対する対処法が私にはまったく思い浮かばない。下手に知能が高いと、下手に議論を交わすこともできない。気が付くと、あちらが正しいとする会話に巻き込まれて全く反論できなくなるのである。まったくもって、不安が積もり募ってゆく。
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そんなこんなで、なんだ、大した心配じゃないじゃないか、そんな程度で気分が落ち込むようでは、何にもならない。そう言われても当然だろう。私自身、何がここまで私を鬱にさせるのか、私の奥深くに何が鬱積しているのか、まるで分析できない。

しかし、父のことを思いながら、父の昔聴いていた曲を繰り返し聞いてみる。父はかつてオーケストラの団員だったので、子供時代はいつだってクラシック音楽がかかっていた。そして、火がついたように次から次へと楽曲、指揮者、演奏者をあさって聴きだす。もう止まらない。同じ楽曲を幾多の指揮者と演奏者で聞き比べる。何度でも聞く。狂ったように夢中になる。音楽を聴いた感動は、殆どがその後に悲しみを覚える。何かが常に死と直結している。そして自殺行為のように、いやアルゴリズムのせいでか、最後は決まって前夫の音源へとたどり着くのである。そしてそれを聴いた途端、私はまた泣きじゃくる。私の魂をあれだけ揺さぶる音楽家はいなかった。そして私にあれだけの苦しみを与えもしたのだが、あれ以上の芸術に対する歓びを与えてくれた人もいなかった。私の若い時代のすべてを捧げた人物なのである。泣いて当然だろう。そして、やっと心にたまった緊張感が崩壊する。私はやっと周囲に音のない静けさを実感できるようになる。真空パックの中に一人で佇んでいるような、切り離された孤独感を実感でき、やっと安心できる。あ、私が、ここに、いた。生きている。そうだったのか…と。

まったくまとまりがない。単に書きなぐっているだけである。それでも、私は何かしらを書きなぐれたことがうれしい。まとまった作品らしきものも書けなければ、文芸的な言葉を並べる才能もない。しかし、私には、吐き出さねばいられない思いがあるらしく、それを書きなぐれただけでも、心がずっと軽くなるのだ。

今後、全てがどう動いていくのか、全く予測はつかない。が、人生は容赦なく刻々と先へ進んでいく。死は実は常に背後に迫っているのである。せめて、それをしっかり心に留めて、毎日感謝しつつ生きていかなければならないと思っている。