2011年5月27日金曜日

All Those Years Ago

レノンやビートルズに興味のなっかたには、一切面白くもない話である。

レノンが亡くなった後、長い間悲しみに打ちひしがれながら、私は何度この曲を聞き返したかわからない。

ハリスンの歌は、特に好きなわけではないが、ソロになってから随分と個性を伸ばし、才能を明らかにしていった気がする。
名曲が幾つか残され、私は My Sweet Lord など、カセットが擦り切れて切れてしまうまで、巻き戻して聞いていた。

ビートルズでは、他の二人に圧倒されていたが、ソロになって以来彼の内向的性質が、とても良い形で歌に、そして歌詞に出てきたのだろう。

今朝、仕事をしながらラジオで突然この All Those Years Ago がかかって、一瞬にして深い悲しみへと突き落とされてしまった。
あの頃、ウォークマンなどはなく、買ってもらったばかりの安物のモノラルのカセット レコーダーを机の上に置き宿題をして、ベッドの傍らに置きこの曲とともに眠りに入ったのを覚えている。

当時子どもだった私は、リリックを見ながら曲を楽しむと言うまでのレベルには達しておらず、メロディーを口ずさんでは、その内容を言葉の断片から想像して味わっていた。
それでも十分だったのだが、今日こうしてリリックを改めて読んでみて、その深さに驚いている。

レノンは、70年代のインタビューで、ハリスンすら洋子との関係には嫌な冗談を言ったり、嫌味を言うようなことがあり、唯一スターキー(リンゴ)と当時の妻、モーリーンだけがレノンの愛情問題に一言も口を出さなかったと言っている。
しかし、彼らの仲は決して悪かったわけではない。ビートルズ当時も、ツアー中二人は常に同室だった。ハリスンのシニカルなウィットは、レノンの気に入っていた。気難しく内向的なハリスンが、タフだが実は同じく内向的な面を強く持っているレノンに惹かれ、レノンがハリスンのそのような性質に目を向け、理解を示し尊重していたのではないだろうか。

そんな程度のことしか現時点では言えない。すべて憶測でしかないので、この辺はもう少し本を読み込んで検証したいと思っている。大変興味深い関係なのだ。

そして今回このリリックを読んで、涙が出てきた。
それは、もちろんこの曲自体の美しさ、素直さでもあるのだが、短い歌詞の中に、ハリスンがやはりレノンの本質を理解し、そしてそれを愛していたと確信させるものがあったのだ。


以下に気になるところを書いてみる。
文章そのものとは関係ないので、訳ではない。

「愛を叫んでいたけど、皆君を犬のように扱って。でも君ほどはっきりとそれをやった奴はいない」

「与えるとは何か、と語っていたけど、あまり正直に行動する奴はいなかった。でも君が愛こそはすべてと言った時、本気で真のやり方を指差していた。」

「良い時も悪い時も、君のことばかり見上げていた。今じゃ皆を傷つけたあの悪魔の親友が去って、寒さと悲しさしか残ってない」

「今では誰も神のことなんか忘れて、だから存在できるのに、あいつらの言うことはおかしいと、それを最初に言ったのは君だった。」

「皆が聞く耳を持っているわけじゃないのに、君はあえてそれを言った。もうずっとずっと前に。」

「そして君こそが、僕らの笑いと悲しみを支配していたのだ。」

レノンの当たって砕けろ的な、ストレートで純粋な姿が沸き起こるようなリリックである。
そして、彼の生きたことの核心を言い当てている。

You had control of our smiles and our tears

これは、おそらく本音なのだろう。そして知り合った頃から、本当にそうだったのに違いない。
ずっと振り回され続け、ずっと追い続けてきた姿を見て取れる。

ハリスンは、本当にレノンをあがめていたのだろうと思う。
だからこそ、レノンに傷つけられ、時に憎み喧嘩をしたが、それはハリスンがレノンの後をずっとついて行ったからである。

そして、そのハリスンも随分前に亡くなってしまった。

余談になるが、マッカートニーのトリビュートもので心に触れるものはなぜかない。
私個人の趣味の問題でもあるのかもしれないが、彼の性質は本当に合わないなと自分でも思う。

やはり彼自身が裸になって、自分の血の出る心臓を差し出しても、本気で語る、ということをしない人間なのである。
彼を庇護する為に言えば、そのようなものを持っていない、つまり与えないというわけでは決してない。
マッカートニーも、絶対に心臓を差し出しても守るものを持っているはずだし、投げ打っても本音を言わねばならない場面で、それを行ったことがあると、私は信じている。
しかし、彼は内面へあえて踏み込むことはしないのであろう。

そして、レノンを愛していたかどうか、その確信を今のところ得るには至っていない。

様々な方面から、やはり早く亡くなってしまったモーリーンがとても良い人間だったと聞く。
そのことも、スターキーの人間性を理解する上で、大切な部分となりそうなので、これもまたいずれ考えてみたい問題だ。
プライベートの写真などを見る限り、スターキーはシンプルで、ど正直である。

マッカートニーは、3度目の結婚に踏み込むそうであるが、今度のお相手は見るからにお似合いである。おそらく人生最後の伴侶となるのではないだろうか。
彼は、人間であるという以前に、ShowBizの人間であるという前提の方が先に来てしまう。そんなプロフェッショナルな男なのだ。

では、淋しい心を切り替えて、日常へ舞い戻ろう。







Im shouting all about love
While they treated you like a dog
When you were the one who had made it
So clear
All those years ago.

Im talking all about how to give
They dont act with much honesty
But you point the way to the truth when you say
All you need is love.

Living with good and bad
I always look up to you
Now were left cold and sad
By someone the devils best friend
Someone who offended all.

Were living in a bad dream
Theyve forgotten all about mankind
And you were the one they backed up to
The wall
All those years ago
You were the one who imagined it all
All those years ago.

Deep in the darkest night
I send out a prayer to you
Now in the world of light
Where the spirit free of the lies
And all else that we despised.

Theyve forgotten all about god
Hes the only reason we exist
Yet you were the one that they said was
So weird
All those years ago
You said it all though not many had ears
All those years ago
You had control of our smiles and our tears
All those years ago

2011年5月16日月曜日

コンプレックスからの解放は、コンプレックスを受け入れること

敏感であるということは、生きる上ではあまり意味がない。

最近、自分を認めてやろうという部分も理解できるようになったが、その代わり全然ダメであるというところも浮き上がってきて、暫しため息をついている。

娘の学校は、両親が様々な作業に参加することになっている。
先日、春先の敷地内大掃除の当番が回ってきた。天気もすばらしく、春らしいそよ風も吹いている。嫌がる娘を引き連れて、学校まで行った。
他に3、4人の親たちも集まってきた。リストで作業分担を行い、それぞれ黙々と作業に取り掛かる。
私は複数のガレージ掃除と、校庭に当たる庭全体の落ち葉やごみなどを取り除くことを受け持った。

巨大なほうきを生まれて初めて手にした。
そしてもくもくと掃き掃除をする。砂埃にまみれ、頭上では小鳥がさえずっている。
時折、気持ちの良い風が吹き、スプリンクラーの水しぶきが身体に降りかかるのが気持ちよい。
次には、生まれて初めて熊手を使って、砂の表面を掃除した。

気がつくと一時間以上たっており、休みなく働いた私の手のひらは、重いほうきと熊手のせいで赤くなっていた。
木陰にたたずんで、豆となりかけている手のひらをこすりながら、何か懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
そうだ、子供時代である。
子供時代には、日が翳り肌寒くなるまで外で遊んでいた。鉄棒の好きだった私の手のひらには常に豆があった。そして友人と別れて、帰宅する途中に、太陽の光と、そよ風と、髪の毛にしみこんだ太陽の匂いを身体全体で感じ取りながら、妙な満足感を抱いてトコトコと帰宅したのだった。
あの頃の一瞬がよみがえったような気がした。

一通りの仕事を終えて、きれいになった庭を見回した時、小さな心地よい達成感があった。
あれだけ嫌がっていた娘も、一人見つけた友人と、黙々と落ち葉集めを行っていた。
こういう作業は、集中力を促す。そしてまるで瞑想のように、何も考えずに、すべての些事を忘れて、庭の掃除のために使用している道具の扱いに専念できたのだった。

娘の友人も送り届け、帰宅してから念入りに手を荒い、冷蔵庫に冷やしてあったビールを飲む。
土曜日の午後4時だった。最高の気分だった。
帰宅しても窓を開け放ち、春のそよ風を夜になるまで味わっていたい気分だった。
家事もできず、仕事もできず、なにひとつ家や個人の義務をやり遂げることはできなかったが、それでも私の身体は程よく疲労しており、髪の毛は風に吹かれてかさつき、乾燥した独特の「外のにおい」がしている。爪の間には、砂がこびり付いていることに、言葉に言い表せないような満足感があったのだ。

命とは、毎日身体的に実感することで、精神の方も健康でいることができるのではないか。
ふと、そんなことを思った。
そして突然、今の生き方をすっかり変えてしまいたくなった。
このリセット欲望は、私の中に常にある。破壊してしまい、一から出直したいと言う欲望である。常に自分自身に不満であるから、そこから逃げたい。

今の仕事を思ってみても、お金の為にやっているのと、多少言葉弄りが好きだと言うこともあって、続けている。
しかし周囲を見ると、これをやりたかったから苦労して勉強してきたという「これ」を持っている人たちばかりなのである。

暫しビールを片手に、疲労した頭で考えに浸っていたら、自分の決定的に間違っているものが次第に浮き上がってきてしまった。
私の生きる動機は、コンプレックスだったのだ。それも筋金入りのコンプレックスで、死闘を繰り広げながらも打ち負かしてやろう、という風にもなれない、弱弱しいコンプレックスであり、そこには自分はこれでも良いのだと、強制的に信じたいという欲望やプライドも入り混じり、まったく持って支離滅裂なものが、根本に流れている。

私は、音楽をずっとやってきたが、親に認められたかったからではなかろうか。
小学校の成績が良かったのに、兄が楽器を始めたら、親の感心と期待は、いつも私よりも怒られることの多かった兄に寄せられてしまったのだ。
それで私は、兄を追うようになった。
予定していた中学受験も捨てて、兄と同じ道を行くと言い出したのだ。勉強ができることなどに親は感心がないのだと、そこは察知したのであろう。
それはおそらく、親自身の持っていたコンプレックスとも重なり合いながら、私たちへの期待となっていたのに違いない。
立派な大学に入るよりも、一人前の演奏家になれるものならなってみろ、そういう声がずっと背後にあったことは間違いないのである。

突然父のもとを訪れた一人の演奏家の言うなりに、父はある夜私に一つの楽器を与えて、私はそれを見ても、触っても、一切興味はなかったのに、兄の学校へ行く切符を手にしたとばかり、それをやることにしてしまった。
ピアノやバイオリンは専攻するなと、母からも父からも口をすっぱくして言われていた。
それは彼らが本能的に、演奏家になるために現実的な可能性の多いものを与えたかったという、彼ら自身の親として当たり前の「気遣い」であったのだろう。

大学に入るときに、私はあがいた。
親の敷いた線路や、兄を追い続けた線路を突然離れたくなった。
私に力があるのか、それを試してみようと、思春期になって初めて芽生えたのである。
三年生になると寮生活から週末や休み毎にいわゆる予備校に通ったのを覚えている。
そのとき、今まで練習する代わりに勉強してきた人々と触れて、別の世界を見た感動は忘れられない。
しかし私の考えていることと言えば、脱出でしかない。寮からの、そして敷かれた線路からの脱出。
私のように、親のために或いは兄を追ってなどと、そんな動機から職業につけるような、甘い世界でないことぐらいはとうに承知していたのだろう。
わたしには、あのダメだった兄が頭角を現すにつれ、勉強をがんばっているフリをするしかなかったのである。そして周囲との違和に胃がよじれるほど苦しんだ。隠れて母に電話をして泣いたことも何回かあった。

それから一つだけ受けた大学受験に失敗した。
何故一つだけだったのだろうか。
それはどうしても何学部に行って、何になりたいと言う計画がなかったからであろう。
兄とは違う認められ方をしたいと、それだけだったのかもしれない。

そして大学に入り、留学した。
世話にはならなかったが、留学とて、兄の後を追ってきたのだ。

そして私は始終、私という人間を親に向かって認めさせようと思ったのだが、本気で音楽で飯を食おうと思って覚悟している人には勝てない。
何でもできる私は、さっさと卒業もして、体裁だけは保てるのである。
しかし、何がやりたいのかやりたくないのか、考えてもさっぱりわからない。しかし、常に闘ってきた。コンプレックスに苛まれ、悪夢にうなされるほどであった。
それは外国人という弱者に見られることでもあり、日本からの女の子というクラスでの偏見でもあり、出来が悪いというコンプレックスでもあり、この楽器が嫌いなのに嘘をついていると言うコンプレックスでもあった。そして最初の夫に知り合い、彼の周囲と云うさらに強力にコンプレックスを刺激してくる環境におかれ、コンプレックスは膨張しきり自分をすっかり殺してしまうことで、影となった。そして心が半ばおかしくなって、這い出してきたという、非常に情けない廻りだった。

その後も、私の原動力はコンプレックスであり、どこに行っても良い成績と業績を上げるのだが、過去の道なりが、4筋にも5筋にもなって、どれも体裁だけは整えて卒業だの資格だのというところまではいくのだが、流石に物にならない。
何でもできるくせに、何も使えないと言う、まったくもって要らない人材なのだ。

_______

いや、だからそれに気がついたのだ。
なんという馬鹿な生き方をしたろうと。それでも自分は相当鍛えられたのだが、それは全部過程での話であり、行ってきた内容は、と散らかるばかりで積み重なっていない。

演奏家にもなれずに、学問も全うしなかった。
演奏家にはなれなかったろうし、学者にはまったく向いていない。
才能の問題ではない。へんな言い方をすれば、私より明らかに才能のない人が、立派にオケで演奏家になっていたりする。それは信念とモチベーションの原因の問題であろう。学問に関しては、知的コンプレックスを少しでも叩こうと思っただけで、私には学術の世界でやっていくための、決定的な何かが欠けている。おそらく静的な人格ではないから、すぐに行動したり、直ぐに興味を移したり、そういう半端な性格がすべてをダメにしているのだろう。
無論このモチベーションも半端なコンプレックスに根付いたものなのでモノにはならないのだ。

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仕事の長電話で中断されてしまった。
ウダウダ言っても仕方ない。
これが私という人間をかたどっている姿なのだし。

とにかく、最近は仕事を変えたいとかそういう希望が大きくて、それはと散らかすように、できること、目に前に転がってきたことをやって来たからなのだが、それは多かれ少なかれ、皆そうして職業についていくのだろうし、大人になることはこうだと思ってあきらめている。
しかし、それよりも行く先々で、成果を挙げようとか、認められようとか、そういうコンプレックスモチベーションでやってきて、時には欲しいものを得たこともあるし、褒められたことも、ありがたがられたこともあるのだが、うつ病みたいな、魂の死んだ感じは、どうしようもなく消えてくれない。
それは、人の為と体裁のために動いてきた自分の人生の果ての姿なのだなと、だんだんわかってきた。

もう知的コンプレックスも、演奏家コンプレックスも隠さずに、嘘偽りなくそれを正々堂々と認めて、私はコンプレックスにまみれているけれど、その私が少しも立派なところもなく、自慢できる人格もないのということだけはしっかり認識しています、というその部分が人々への共鳴となって、それでも尚且つ生き生きと輝いている私を見せることが、一つの作用となってくれるような仕事が欲しいなと、そう思い出しているのである。

コンプレックスを撤回するために、コンプレックスの磁場にずっととどまり続けた。
しかし、そこから離れられないことこそ、未だにコンプレックスに支配され追い掛け回されていることの証拠だとわかった。
もう私は、自分が生き生きとできるところへ飛び立ちたい。
それはきっと、人とのつながりがあるところで、ずっと机の上でキーボードを打ち続けていることじゃないと思う。
私の唯一の長所の一つは、制御できないけれど、止むことなく流れ続けているエネルギーがあることである。
生きていること、その毎日苦しいと思うような課題に向かって、前回の記事のように、それでも尊いものとしてあきらめないで進むこと、そういう姿勢を深い次元で分かち合う為に、小さなきっかけを与えていくような仕事をしたいと思う。

ピアノや音楽を教えるのだっていい。
人とかかわらないと、私はダメなんだ、庭掃除をして体で命を感じないと、私はダメなんだ。
助けも手本も何もないところから、明日もあさっても生き抜いていこうとする、必要最低限の創造力が私にはあるのかもしれない。それだけはうっすらと感じている。
その創造力を使わずに、人に後ろ指刺されないことだけを念じて、安全圏だけを夢見て生きていては、自分は死ぬと、そういうことを掃除しながら思った。


相変わらず、くどくどした文章で、牛の咀嚼のようになってしまったが、自分を納得させる為の手段として書いているので、あしからず。

2011年5月14日土曜日

「硝子戸の中」から



女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛をきわ)めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、あん)に女の気色けしき)をうかがった。女はもっと判然した挨拶あいさつ)を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択おえら)びになりますか」
私はまた躊躇ちゅうちょ)した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのがこわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世間せかい)の中にたった一人立って、一寸いっすん)も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前もはば)からず常に袂時計たもとどけい)を座蒲団ざぶとん)のわき)に置くくせ)をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女はいや)な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が)けたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱くつぬぎ)に下りた。
その時美くしい月が静かな)を残るくま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄げた)の音はまるで聞こえなかった。私は懐手ふところで)をしたまま帽子もかぶ)らずに、女のあと)に)いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈えしゃく)して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目まじめ)に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、またうち)の方へ引き返したのである。
むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれがたっ)とい文芸上の作物さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。



不愉快に)ちた人生をとぼとぼ辿たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりもたっ)とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来おうらい)するようになった。
しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母ふぼ)、私の祖父母そふぼ)、私の曾祖父母そうそふぼ)、それから順次にさかの)ぼって、百年、二百年、乃至ないし)千年万年の間に馴致じゅんち)された習慣を、私一代で解脱げだつ)する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
だから私のひと)に与える助言じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
こうした言葉は、どんなになさけ)なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠におも)むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を)らしている。こんな拷問ごうもん)に近い
所作しょさ)が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しゅうちゃく)しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸をきずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人のおもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に)き)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向って、すべてをいや)す「時」の流れに従ってくだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。はげ)しい生の歓喜を夢のようにぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々なまなま)しい苦痛も)り)ける手段をおこ)たらないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口きずぐち)からしたた)る血潮を「時」にぬぐ)わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
かくして常に生よりも死をたっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に)ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸ぼんよう)な自然主義者として証拠しょうこ)立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。


_____________

七に関して

若い頃には解らなかった漱石の文章が、今なら少しずつでも心に入ってくるようになった。
何故生きるべきなのか。それに適当な答えを見つけるのは難しい。宗教的に死を選ぶことが罪とされている場合には、理屈はいらないのかもしれない。しかし死の方が尊いと思う心も解らないではない。

私は相当の馬鹿で阿呆で、この文章を読んだときに、「その女の始末」という言葉を、この会話をしている女を苦しめている別の女性だと思っていた。

しかし、読み進めていくうちに解らなくなり、もう一度読み返してやっと、この女が自分のことを漱石に話して聞かせ、小説だとしたら、この女、つまりまぎれもない彼女自身は死ぬべきか、生かされるべきかと聞いているのだと、やっとわかったと言う次第である。

そして漱石は、
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支(さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高(けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」

単に生きるという目的だけならば、生きていれば良い。しかし美しい、気高い心持こそが生きる理由になり得ると考えれば、問題は違うという。つまり単に息をして生きているだけでは、人間は生きていない方がましではないかという、女性自身の疑問を受ける形の答え方をしている。

そこで女が、
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
と述べ、漱石は女が「広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事」を理解している。

そして漱石は、その後何も言わずに立ち上がって女を帰すのである。そのときのことを
その時美くしい月が静かな夜(よ)を残る隈(くま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄(げた)の音はまるで聞こえなかった。」と書いている。
おそらく、漱石はこの女の悲痛な人生を聞かされ、誰にどうすることもできない、つまり言葉では到底解決や救いのない問題を聞き、胸苦しい思いで彼女の天涯孤独と切羽詰った状況を知るのだが、彼の夜空を見上げる心は、その描写のように清浄であった。そして外套や帽子のことも考えずに、女の後ろに、つまり女の人生に寄り添っている。

そして女は、最後に「先生に送ってもらって光栄」だと言う。漱石は本当にそう思うかと聞き返し、女はそうだと答えると、
「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と伝える。
この光栄をどう解釈し、そして光栄ならば何故生きているべきなのか…。

それは女は初めて漱石に自分の人生を語りつくした。そして、語ると言う行為の間に、自分の人生に言葉を与えることによって、苦しみこそ生々しく浮き上がってきたが、それ以上に「これが紛れもなく自分の生である」ということを悟ったのではないだろうか。何を語ろうとも、どんな助言を請おうとも、自分の生は、自分にだけ与えられたものであると同時に、他の誰にもどうしようもできない。 なぜなら生を語るのは言葉であるが、自らの生とはやはり生きるものに他ならないからであろう。女は、これまでの苦労に満ちた人生を語りながら、同時に「美しい心持」をその生き様に実感し、それを失ってゆくことを極度に恐れている。
それを誰か、つまり漱石に語ったことで、彼女は捨てても良いと思った生を実感した。聞き手は言葉を与える代わりに、その苦悩も孤独も言葉を介さずに受け入れ、彼女の中に鼓動を打つような生命と生を尊いと思わせるような、覚悟や真剣さを見出し、寄り添うように送っていった。それを彼女にも、無言で理解できたからこそ、「光栄」だと言ったのではないだろうか。
だからこそ、「ならば生きていなさい」と云う答えになったのではないだろうか。
漱石は、死の方が尊い、と言いつつ、彼女の話の中に、生を尊いと思わずにいられないものを感じたのかもしれない。


「むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」

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八に関して

「私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。」

これが女の背景である。

「私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。」

これが漱石の答えだった。

そして「深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶」を取り上げたとしても、「彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」」によって止血させようと試みた。なぜ「いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当」と言ったのか、私にもそれは良くわからないのだが、それは彼女の奥ゆかしい生に対する姿勢が、命そのものをすでに尊いものとして捕らえている、それを漱石が感じ取ったからではないだろうか。

「かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。」
それは人間の営みは、真剣であればあるほど、また運命というものに逆らいすぎずに、それを一種の自分に与えられた生としてひたすら生き抜くと言う姿勢そのものが、すでに尊いからなのだと、私はそう解釈したい。
そうでなければ、

「有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」
という文章は表れないのではないだろうか。小話や人生劇など現実の生に比べれば、その存在の尊さにおいて、比較にならないということなのではないだろうか。

最後に、彼女に生きていなさい、と言ったことに対して、凡庸な自然主義者ではないかと揶揄するが、漱石もまた生に対してなんとも慎み深いのだろうかと読み取れ、その漱石の温かい人柄、そして生きていくということは、根本的に淋しいということを知っている、そのような孤独を感じ取り、この話を読んだ後、えらく心を打たれて、暫し硬直してしまった。

私自身に重ねれば、やはりなぜ生きるべきか、何故生きていなくてはならないのかと問い続けた日々があり、自分の生き方を肯定できずにいた。私は残念ながら今まで、人生の歩みを言葉にして語り、聴いてくれる人があったという機会には恵まれていない。
それどころか、私は自分の人生だけは、延々と言葉にしまいと誓ってすらいる。他人にとって、人の人生など、どうという関心はないのである。しかしこの作品を読んで、彼女が語らなかったら、決して生き続けていたかどうかはわからない、ということを理解した。
彼女は、生に言葉を与えたことで、自分の生をその手で握っていることを実感し、救われたのである。
そして漱石は、尊い小説を読んだ後のような、人間らしい良い心持を感じた。

ここに、まさに私自身も救われるような思いがしたのである。
美しいものを見たかと問われれば、見たことがあると答える。
美しい心持にめぐり合ったこともあれば、自分自身からも深い献身を試みた、純粋な深い思いを知ったとも答えられそうな気がする。
それならば、それは私の人生の最大の幸運であり、傷から血を滴らせながら、その美しい心持を現在のまま保つことが生きることではなく、それを言葉として刻み込み、私自身の事実として色あせても手中に持っているだけで、十分幸福なことであり、それ以外の不愉快なことは、死ぬ理由でもなければ、美しさや純粋さを失うことが死ぬ理由でもない、ということを知ったからである。

現在は常に色あせる。
そして激しさの中で、傷の癒える時間を待ちきれないとき、やはり「語り」は己の人生を救うのではないだろうか。そして漱石は、それを強力に肯定しているのではないだろうか。
そして、人は書き、記録し続けるのではないだろうか。

2011年5月4日水曜日

萩原朔太郎 ― 月に吠える 北原白秋の序、及び序文からのメモ

月に吠える

白秋の序

「[…]さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互いの胸の奥底に直接に互いの手を触れ得るたった一つの尊いものである。」

「[…]さうして君の異常な神経と感情の所有者であることも。譬えばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、まさしく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持ってゐるからだ。」

「『詩は神秘でも象徴でも何でもない。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。』と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷はそこから来る。さうしてその葉の根の尖まで光り出す。」

「君の霊魂は私の知ってゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身が一粒小砂に擦られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身であり、生身から滴らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。」

「而も突如として電流対の感情が頭から爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。」

「天を仰ぎ、真実に地面に生きてゐるものは悲しい。」

朔太郎の序

「詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」

「私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の 「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併 しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。」

「思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。」

「けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。」

「人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。[…]とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。[…]けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのであ る。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」

「私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。こ の特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らな い。」

「詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。」

「私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。」

「私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。」


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言葉の一つ一つに息を吹き込んだという点では、Dichtungに通じる重みを感じた。
リズムが以心伝心だという言葉は実感できる。
ドイツ語をろくに理解できなかったときに、リルケの悲歌を音読し、ただただ涙が流れてきたのは、そういった韻の中にある、以心伝心、単語そのものの持っている命の存在の予感ではなかっただろうか。


危険な散歩

春になつて、
おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、
どんな粗製の歩道をあるいても、
あのいやらしい音がしないやうに、
それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、
それがなによりけんのんだ。
さあ、そろそろ歩きはじめた、
みんなそつとしてくれ、
そつとしてくれ、
おれは心配で心配でたまらない、
たとへどんなことがあつても、
おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
おれはぜつたいぜつめいだ、
おれは病気の風船のりみたいに、
いつも憔悴した方角で、
ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。




さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活らいふ)の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。


山に登る
旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつてくち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。

孤独

田舎の白つぽい道ばたで、
つかれた馬のこころが、
ひからびた日向の草をみつめてゐる、
ななめに、しのしのとほそくもえる、
ふるへるさびしい草をみつめる。

田舎のさびしい日向に立つて、
おまへはなにを視てゐるのか、
ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。

このほこりつぽい風景の顔に、
うすく涙がながれてゐる。

雲雀の巣

おれはよにも悲しい心を抱いて故郷ふるさと)の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、
おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいてゐた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなくはぐ)くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなく DELICATE の哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷ふるさと)の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。



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壮絶な孤独と、精神にあふれている愛に形を与えて他者に与えたい欲求とが、本人の心を苦しめては罰している。これは、白秋の言うように「凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃」として表出しているように思うのだが、何故これらの詩には救いがあるのだろうか。

何か、確かに朔太郎の言うように、宇宙的な次元では、永遠に孤独ではないからなのかもしれない。
至る所に、自然との会話を感じる。

それは春であったり、寂しい木陰であったり、飛んでゆくつばめの群れであったりする。
一面に広がる海、そして身体に感じる風、そして歩きながら口に押し付けている小石。
そして孤独でも、日向に立っている、自然とどこかが触れ合っている。
感覚的に、私も読みながら、自分の中にある深い孤独や罪悪感を共感しつつ、身の回りの空気や自然を感じて、それに慰められるのであろうか。どこか実に日本的であると思う。

自然を描写し、自然を融合した文章を書く人は多く居るが、朔太郎の言葉は、日常なのだけれど、心の深い窓の中に小さなコスモスへの入り口があり、それがなぜか小さいけれど、深い傷口を鎮めてくれる。

癒すのではない。鎮めてくれる。
それが日本的だと感じてしまう。