2017年8月11日金曜日

急に状況が変わりだした。
母の容体が思わしくないのはいつものことだが、父の精神状態も限界に近づいているようであった。老いているからであろうか、一度そちらの方向に動き出すと、転がるように状況が変化してしまう。

私は故郷で怒りを買っているようである。
親を除く家族に対して、私は謝罪を要求されているようである。
確かにその場にいないのだから謝罪して当然なのだろう。それで済むのなら、何度でも頭を下げる。

しかし、感情的にはとてもつらいものがある。傍から見れば「好き勝手」で「我儘」で「はちゃめちゃ」で「我慢が足らない」ようにしか見えないとしても、自分としては今まで一秒たりとも人生を「軽く」捉えたことはない。毎日必死の思いで乗り越えてきた。他人を責めずとも、自分を責めなかった日はない。しかし何万マイルも離れている所にいる誰かが、どうしてそれを理解できるというのだろう。
外部から見える事象だけを追っていれば、単なるバカにしか見えないのかもしれない。それも十分理解できる。

今更、弁解するつもりも理解してもらおうと努力するつもりもない。その代わり、ほぼ自分一人で戦い抜き、築いてきたほんの僅かながらの「何か」を犠牲にしてまで故郷の人々に納得してもらおうとは思えない。私の払った対価のことは、私自身が一番よく知っている。払った労力などすでに忘れ去ってしまったが、それで得た小さなものは、とてもじゃないが、どんなことがあっても手放すことはできない。私の人生の全てと言っても良いものなのである。

それは自らが壊した家庭をゼロ以下から苦労して一人きりで再建してやっと得ることができた、ごく小さな私だけの「家族の絆」である。子供たちの傷は最初の頃よりも、思春期になってからの方がよほど明らかに表出し始めた。私は申し訳ない気持ちがあったからこそ毎日自分を叩きのめした。自分がこれらの嵐に巻き込まれて負けたら、子供たちはバラバラになる。家庭再建の機会は二度と巡ってこない。そう知っていたからである。

登校拒否も、暴力も、家出も、酒もドラッグも全部ありだった。特別にぐれていたわけではない。ただ心に空いた穴は、ほかの子供以上に深かった。年頃になって再び魂から血が流れだしたと言えるのかもしれない。それを目の当たりにして、無責任に目を背けたり時が経つのを待ったりすることはできなかった。毎日毎回、一緒に何時間でも私は彼らと向き合った。苦しかったが、それ以上に彼らは大切だった。

何はともあれ、三人の思春期は大方終わった。そして私は今辛い気持ちになると「でも、私には私だけの家族がある」とつぶやいて自分を慰めている。そう呟けるようになったのは、ここ1年ぐらいの話で、それ以前はずっと孤独で、まさに四面楚歌のような気持ちで手を離れようとしている子供たちを必死に守ろうとあがいていた。今は、子供たちの姿を思い浮かべるだけで、温かい液体が体中にゆっくりと充満してゆくような感覚に満たされる。彼らには感謝してもしきれない。
子供たちは成長し、二人は家を去ったが、その代わりに私は心の中で、子供たちとの絆を実感して、それを文字通り、もう離すまいと手に握りしめているのである。

このごく小さな温かい安らぎを得るために通り過ぎた時間を考えてみると、とてもではないが、私の魂が必死に乗り越えてきたこの地を捨て去って、本格的に帰国などという話を思い浮かべることすらできない。
これはどんなに恨まれようと、一点も譲れない部分である。私はこの地を去らない。この地が私を育ててくれたのである。私を大人にしてくれ、意識を変革させ、新しい出発の機会を与えてくれ、私に生きることの何であるかを教えてくれた。今の自分は日本で生きていたらあり得ない姿なのである。良し悪しに関わらず、私は猿真似をして日本を捨てたと言われようが、その代償は十分払ったつもりでいる。自らの意志で、当地が故郷であると迷いなく選択する。

私の両親は、私の心の隅々まで理解しているに違いないという信頼感がある。私は両親との絆を強く感じている。不思議なことに、絆があれば、距離感など怖くないのだ。物理的な苦労はあっても、心は常に一つであると実感できる。私が帰らなくても、彼らは決してそれを責めることはない。甘えかもしれないが、それは絆のなせる業ではないかと、今ではそう考えている。私も巣立った子供たちを引き戻そうなどとは決して考えない。どんなことがあっても、縛り付けてはいけない。そう心している。

日本には帰らないと固く決心したのは、2010年である。20年滞在したあと、仕切り直しを一度考えたが、種々の理由で実行できなかった。その時、もう二度と帰るまいと決心したのだ。しかし、矛盾するようであるが、つつましやかで目立たないが一生懸命にそれぞれの人生を生きている日本人が多く写る集団の写真などをみると、わけもなく涙ぐむのである。日本なんか帰るもんか、と言っているのではない。日本が愛おしいという気持ちを抑圧しなければ、絶対に乗り越えられない時期があった。だからと言って、その気持ちが小さくなったことはない。抑圧しているだけに、ふとした瞬間に涙腺が崩壊する。彼らを見るたびに、そして日本の気配を感じるたびに罪悪感を感じ、安らぎを捨て去った自分と、当地では埋めきれない深い孤独を思い知らさせれてしまう。行く先々で知らない人に知り合うと、ここで育ったのかと訊かれる。しかしそれが何だというのだ。そんな希少なことよりも、未だにまぎれもないFremdkörper(異物)であると思い知らされる場面の方が、はるかに多いのである。

それだけに、やっと得た「小さな家族の絆」だけが、私の心の中で唯一小さく揺らめく一点の灯なのである。目をつぶってこの小さな消えそうな光を必死で見据えると、私の魂が静かに安らいでゆく。心の中でただ一つの安全な場所なのだ。それを捨てることは、やはりどう考えてもできない。

_____________________

苦しい時に、見事なタイミングで娘から電話が入った。親の私が甘えてあまり元気じゃないと伝える。「どうしたのママ。元気じゃないなんて。大丈夫だよ。最後にはみんな理解し合える。必ずまた直ぐに気持ちが楽になるはず。また明日必ず電話しようね。私にいろいろ話してくれればいいよ、私も色々と知りたいから。元気出してね。」と言われた。言葉で書いただけでも立派な発言であるが、あの子が口にすると、まるでセラピストに慰められているような効果があるのである。胸の中心から心が徐々に温まっていく。「まるでセラピストみたい。どうしてそうやって人の心をつかめるの?あなたはやっぱりすごい。」そう伝えると娘は「どっちがセラピストなの?私が一言いえば、ママは千もわかってくれるから気持ちわるい。そっちこそセラピストでしょ」と言われた。こんな会話を娘とできるようになるなんて、どうしてあの時考えられたというのだろう!また申し訳ない気持ちと感謝とが入り混じて涙ぐんでしまう。すでに子供は私をはるかに超えているのである。あの子は大丈夫、あの子は大丈夫と呪文のように唱え、感謝した。

続く