2023年8月21日月曜日

大人への道 ― 無力な親

子供が大人としてはばたく時に寄り添いながら、その血を垂れ流して瀕死の状態にある顔を見ながら思うのは、自分自身がどんなにか親に心配をかけたかということだった。私自身は自分のことに精いっぱいで、親の気持ちなんて努力したところで到底わかるはずもなかったのだ。しかし、今親になってしばらくたち、子供たちが一人ひとり大人になる過程へと飛び込んでいく様子を見ながら、やっと自分の親の気持ちの一かけらに触れたようなそんな気がした。

忙しさにかまけて、いや仕事が忙しいのはいつものことだが、長男の問題が絶頂に達したため、精神的な余裕を失ったとたんに、父のために設けた小さなミニ仏壇まがいのスペースをすっかり疎かにしていた。見るたびに心苦しく、何を伝えればいいのか、何を訊けばいいのかも分からず、いつも通り過ぎていた父の写真の前に立ち、改めてお線香を焚いて手を合わせた。今日、2度もそれをやった。

私が大人になるまで、いくつもの試練があった。大人になってからもたくさんの苦労に見舞われたが、父や母はそれをどんな気持ちで見ていたのだろうか。
私が親に悪態をついたことはなかったけれど、それでも喧嘩したことは何度もあった。どんなに怒られても、私は最終的に親の強い愛情を感じずにはいられなかった。
そういう愛情を軸に、子供というのは親の気持ちも知らずに自立の道を歩んでいくものなのだ。親の気持ちなどまともに考えたことはなかったのだと思う。私自身の子供たちも、年齢的には全員成人したのだが、誰一人として一人前になったとは言えない。自分の20代なんて、今から思えば本当に世の中への扉を開けたぐらいで、まだまだ片足は子供時代に足を突っ込んでいたとしか思えないのだから、自分の子供たちが完全に大人になるのはもっと先のことだろうと思う。

子供たちの大人への道のりが順調ではないだろうということは、ずっと昔から気が付いていた。彼らの育った環境を思えば当然のことなのだ。それでも、彼らがもがく姿を見るのは楽ではない。今その渦中にいる長男も例外なく、血を流すような苦しみを味わっている。

人生というのは不思議で、多数の小さな「真っ直ぐでではない事柄」が長年にわたって無視された後、やがてクライマックスに到達するときちんと瓦解するのだ。クライマックスに達すると様々なことが同時多発する。そしてクラッシュすると、人はどん底に近いほどの深み突き落とされる。今思えば私にはすぐにわかる。この若き日の第一の奈落の底こそがチャンスなのだと。それから正しく築き直し、諸々の出来事に対する自分なりの対処の仕方を学ぶチャンスだということが大人の私には見える。しかし、当人は、社会になじめない自分、他とは違う自分に大きな劣等感を抱き、ひたすらカメレオンのように状況に自分を合わせることを学ぶ者もいれば、夢のために、目的のために突き進んでいた自分が、ある日突然完全に崩壊して逃げ道に走ることもある。自分を偽らない生き方とは何なのか、社会に身を置きながら、自分を見失わず、自分を壊さない生き方とは何なのか。果て、自分とは一体誰なのだろうか…。そういう存在の根源的な問題にぶつからなければ、本当の意味で大人にはなれない。その問題にぶつかる衝撃の度合いは個人差があるだろうけれど、創造的な人は特に、その衝撃が大きい気がする。

私は創造的な人間であるはずもない。何も生みだしたことがないし、そんな能力もないからだ。しかし、創造的であれという職種の家庭に生まれ育ち、親戚の中にも芸術を生業にしている人間が何人もいる。そうした価値観で育った私自身の大人への道の衝撃は大きかった。そして、筋金入りの創造的人間との間に生まれた子供たちの道のりの衝撃は、家庭崩壊した歴史背景もあって、それよりもはるかに大きく深いようであった。今回は、長男の衝撃である。
辛いのは、助言など与えることができないということだ。子供と言っても十分な大人の思考力がある。ただ、彼らには人生から距離をとって俯瞰するという余裕も考えもない。ただただ、波にのまれて溺れそうになりながら、自らの哲学を紡ぎだしたり、自らの主張を掲げて「自分」の主観を大きく語る。そりゃそうだろう、そうでもしなければ溺れるんだから。

親に求めるものは、「圧力をかけずに、自分に健全に期待して欲しい、苦しい時は寄り添い、関心を持って自分の人生に関わって欲しい。でも、もう一度言うけれど、自分はもう自分を曲げるつもりも、誰か他の人のようにふるまうつもりも、誰かのために何かするつもりもないから、信頼しつつ、野放しにして欲しい」というような壮大なものなのだ。そうとわかると私は固まってしまう。長男の未来に触れることも、長男の気持ちを訊くことも恐ろしくなってしまう。質問に罪がなくても、ノンバーバルに伝わることがある。いくら理性的に正当な質問を投げかけても、私が自分自身ですら気が付いていない息子への期待が、まさに言葉とは関係なく伝わってしまうこともある。自由に「本当の自分自身の人格を生きる」というのは、まさに人生の大きな課題でもある。それには自分自身を見つけなければならない。そのとき、「そんなくだらないことを考えずに、早く大人になって、これとあれとそれというおまえの義務と責任をしっかりまっとうせい!」と怒鳴ってくれる父親像をいつも心に描いている。私自身が父に何度も怒鳴られた場面を何度も思い出す。私は無論反抗を試みたが、父が怒鳴るという壁は大きかった。父には何の論理武装などなかったが、父の言葉は常に痛い矢となって私の胸に突き刺さった。
その役割を、私自身が子供たちに対して全く果たせていない。私は固まって言葉を失うばかりである。無力さを実感し、非常に情けなく自分をことごとく親として無能に感じる。母親だからだろうか。

結局、私は私の人格から生じる、自分のやり方を手さぐりで見つけていくしかないのだ。別の人格と真剣に対するとき、自分の人格を取り繕ってもすぐにばれる。そんなもの通用しないのだ。
子供と話すとき、「ママのときはね」と言うのはあまり良くないのではないかと思っている。子供と私では時代も背景も違う。子供は自分と似ていることがあったとしても、まったく別の時代を生きる、性格も異なる別人なのだ。その別人に、「ママにもそういうことがあったからわかる」という話し方は、ごく限られた場面でしか効果がないと思っている。すくなくとも子供が聞きたい話ではない。私が子供を理解したことを感情をもって伝えるために、私の経験談を出す必要はない。相手の話を聞くということは、自分に話しを振らないということなのだ。
だから私は耳をそばだてる。長男の言っていることも理解できるし、気持ちも理解できる。何とかなんらかの方向性や希望をあげようと考えをまとめている矢先に、息子はすでに自己完結しており、さっさと私が言おうと思った答えを自分で言っている。「ママのの話が終わるのを待つのも、考えをまとめて話のポイントを言うのを待つのも、そんな忍耐はない」との賜った。

私も年を取ったなと思う。仕事では第二母語のようになった外国語もすらすらと間違えなく出てくるが、感情的になるとどうも支離滅裂で毎日すらすらと話す外国語の速度が遅れる。結局母語ではないと、理路整然と言いたいことがわかっていなければ、話す速度が落ちつということらしい。まあ、それ以外にも最近、本当に脳みその瞬発力がなくなったと日々実感している。


話が横にそれたが、長男の話を聞けば聞くほど、子供というのは実に自律的に機能するもので、どこかで答えを知っているのだという確信を得る。よって子供を信頼してやることしかできないという、下手すれば投げやりにも聞こえる答えに辿り着く。本当はガミガミ親父のような父親がいてくれればと望んでいるが、そんな人はいないし、子供の将来に対して現在責任を担っているのは、子供自身と私しかいない。そうなれば、仕方なくても私が対決するしかないのだ。自分のやっていることが正しいのか、あるいは何をやっているのかさっぱりわからない不安の中、文字通り手探りしながら子供に立ち向かう。そして最終的には、多くの場合子供自身がほぼ答えを出していることを知るのである。ここが思春期とは違うところなのかもしれない。しかし、思春期の方が大変であったと思うが、あの頃は子供に助言する言葉が天から絶え間なく降ってきた。「あれもこれも、話にならない。そっちに行ってもだめだ。こっちに進んで、このように考えながら進め!」といくらでも言うことができた。そして子供たちは反抗しながらも、まだまだ生活を親に依存しており、結局従うしかないという結果になることが殆どだった。
だから、思春期の方がドラマは大きく、次から次へと絶え間なく学校だ友達だと問題が発生し、日常生活の至る所で反抗され、まったく言うことを訊かなくなった子供に手を焼く。その労力はおそらく今よりもずっと大きい。しかし同時に、親としての役割を果たそうとしている無我夢中の自分を確実に実感することができた。

ところが、今はどうであろう。親としての役割すら果たせていない自分を発見したのである。親の役割とは何か、それを改めて問い直す分岐点に到着したような気がするのである。今までのような関わり方では通用しなくなり、子供自身が親に求めているものが変化していることに気が付く。結局、このターニングポイントに生じた何らかの事件を基に、子供、つまりは長男に「新たにめぐり逢い」、彼が自立の道をとうに歩き出していることに気づかされたということかもしれない。

何はともあれ、私は父のことをインテンシブに思い出した。今日こそ父の助言を訊いてみたいと思った。おそらく「人生なんて分かんないからな。なるようにしかならない。」と言い捨てられて結局は何も言ってもらえないのがオチなのだろうと思う。けれど父亡き今、父の立場を改めて思うと、すっかり大人になった私に何を今さら教え込めるというのだろう。「意見は何とでも言えるが、答えはおまえが出すしかない。何も言うことはない、自分で考えろ。」そういうことなのだと納得がいった。そして、私自身もしばらくしたら、長男にもこれ以外の答えを出してあげることはできなくなってしまう。今、その入り口に差し掛かっているということに気が付いた。彼はまだ大人ではない。だから私は寄り添い、見守らなければならない。足を踏み外しても見守り、傷ついて血を流してもずっと見守る。明らかに間違った方向に行ったら、取り返しがつかなくなる前に助け舟を出しに行く。常に本能を研ぎ澄ませて、相手に関心を持って視界から離さない。それが見守ることなのだと思う。

私の精神もまだまだ健全とは言えない。そんな中、本当に次から次へと問題が生じてくる。それも超ド級の深刻な問題ばかりだ。それに耐えなければいけない。そのために私は充電しなければならない。子供がもうすぐ大人になれるからこそ、もうすぐあと一歩で自立できるからこそ、その前で血を流している。私もあと一歩で静かな老人への道を歩みだす、その一歩手前で今一度最後のエネルギーを振り絞らなければならないということなのだ。

子供、いや家族のコンステレーションとは非常に面白いもので、子供が三人いると、誰かが問題を抱え、その問題が一段落してしばらくすると「必ず」また違う誰かが同じぐらい大変な問題を持ち出してくる。そしてすべての問題が進行形のまま、交互にそれぞれの山場が襲ってくる。1人が治まったと思えばまた次といった具合である。実存の問題が完全に解決するには長い年月がかかるから、常に進行形なのであるが、それでも一番苦しかった娘の問題は随分と平坦になってきた。山場がエベレスト級ではなくなってきたのだ。それと並行して私のエネルギーも消耗しつつあるのだが、あともう少し。子供たちはきっと立派に大人になる。そう信じて毎日重い体に鞭を打って起きている。

物心ついた時からインテンシブな人生を求めたのは自分だった。それを裏切らない人と結婚し、文字通りドラマに力尽きて別れたが、子供たちが理想通りのインテンシブな人生を未だ与え続けてている。皮肉を込めた物言いだが、つまりはすべて望み通りの人生というわけなのだ。文句を垂れる資格はない。自分が望んだことが原因で今の人生がある。私は死んでも負けない。できることがある限り、絶対にあきらめない。私は立派なことは何も成し遂げられなかった。だから人生のモットーは、ただ一つ「あきらめない、逃げない」これだけである。
明日も、頑張ろうと思う。