2010年5月30日日曜日

鬱状態

こういう曲は、クラシックとは違うが、私の心を良く表現しているような気もする。



自分が鬱病ではないということは、承知している。
泣き言を言うつもりもないし、自分を叱咤する元気すらある。日常生活もそれなりに機能しているのだが、自分自身の内向性をどうしても改善することが出来ない。全てを悲観的に見てしまい、いじけた根性に、自分でも嫌気が指してくるのだ。そしてそれがもう一ヶ月以上続いている。

子供達はすでに自分の支配下にはなく、彼らは行動的には自立してしまった。
しかし、先立つものはなく、映画に行くにも外に行くにも小遣いというものをせびりに来る。
まるでお金が湯水の如く降ってくるとでも思っているのであろうか。

私は、行きたくないと思う日にも、毎日外出して仕事をしてくる。
そして、6時過ぎた頃、疲労を感じながら買い物をし、急いで夕食を作り片付けるともう9時を回るのである。

おいしかった。ありがとう。

子供たちが、こういうまともなことを言えないのは、全く私のしつけが悪いのであろう。
疲れていても、子供にクタクタだと告白したところで、何の交流もできない。子供の話を聞いてやることのほうが先決なのだ。子供はそもそも守られ、平和に育っていく権利があるのだから。

夜、ベッドにPCを持ち込んで、インターネット世界を垣間見たり、楽しみの読書に熱中するのが、私の唯一の逃避方法である。
思いを打ち明ける人間もいないが、例え打ち明ける相手がいたとしても、もうあまりそういう思いに熱をこめて話すような年齢でもない。すべてをそのまま受け入れてしまう自分がいるのである。期待度を下げ、幸福要求度を最低限まで下げいているのである。
そのため、私自身、本当に幸福だとは思うのである。金銭に困ることもなければ、子供も私も父親も健康である。思春期の渦中にあって、様々な問題が押し寄せては来るが、そんなもの、人生を長い目で見れば、おたおたする様なことではない。教育ママの理想もなければ、子供たちにエリートの道を行ってもらおうなどという、エゴイスティックな野心も見栄もないのだ。

人間の価値は、実は生きている、それだけで十分なはずである。
何を成し遂げなくとも、誰のためにならなくとも、社会における安全と平和を乱さない限り、どの人間も、生き続けているということだけで、十分なのだと常に言い聞かせている。
死にたくなる時もあるけれど、授かった命を自ら絶ってしまうのは、根本的に世界や人生そのものの否定になってしまう。自殺の手段すら与えられない情況というものがこの世の中には存在し、やはり私は生を全うすることはやり遂げたいと思うのだ。

子供というのは、やはり親のものなどであったためしはなく、親は授かった子供を大切に自立へ向けてしっかりと育てる義務があるが、子供達は親に礼を尽くす義務もなければ、親に感謝の気持ちを表さなくてはいけないという義務もない。
子供は、社会に出た瞬間に、彼ら自身の人生を生き抜いていかなくてはならず、それ自体が困難であるからには、親という過去を振り返ることなど出来ないのは、当然だろうと思うのだ。

しかしそれでも、私は人生のなんと過酷なことだろうと、改めて思うのである。
毎日単調に仕事に行き、買い物を済ませ、食事を作り、掃除をして瞬く間に日々が過ぎていく。
子供達は成長すればするほど、親から自立し、親に反抗してくるようになる。正しい成長過程である。私も、家庭や家族を守るために労働をし、感謝を期待せずに、毎日謙虚に人に尽くせと言い聞かせている。

それでも、心の奥深くに沈殿した垢の中には、多くの悲しみがあり、孤独があり、失望があり、存在の無意味を感じてしまうのである。

子供達の父親に赤ん坊が生まれ、彼らはこれでれっきとした家族としてのスタートを切ったわけである。今まで、父親の三人の子供を一人で育てている私への関心は高く、気を使ってくれたり、義務を果たしたりする中で、彼の妻の感じていた疎外感、または二番目の存在である自分という感覚は、とても辛かったと思う。
しかし、彼女は今、晴れて家族を持ち、夫と自らの子供を授かり、日々「我が家」という名の下に、人生を構築している最中なのだ。
一方、私の「我が家」は、私自身が崩壊させた過去がある。私の我が家と言う響きには、どれほどの罪悪感がこめられているか、自分には想像できない。

子供達にとっても、父親の家庭と言うものが、段々本物の家庭になってきた。我が家に父親が帰宅したときの、なんとも表現しがたい新鮮な風と言う感覚を私は忘れることができない。それは関係が必ずしも良くない時でさえ、父親の帰宅というのは、ある種の祭りのような空気が漂っていたのである。
そこには、そこはかとなく、人間の小さな営みの幸福というものが、見え隠れしているのであり、子供という動物的臭覚をもった者は、それを素早く嗅ぎ取るのである。

子供達の中心は、もはや私の家に父親が来ることではなく、子供たちが父親宅へ出向き、新しい命を含む、父親の家族の中へ、子供たち自身が融合されると言う形に変化しつつあるのだ。

おそらく、それが私の鬱の中心なのだろうと思う。
気持ちの良い家庭を与えてやることも出来ずに、必死にはした金を稼ぎに走り、毎日栄養のあるものを食べさせようと苦心し、泣き言一つ言わずに、不言実行を唱えて生きていても、一体誰がそれを良し、あるいは悪しとするのであろうか。
これだけ子供達から「我が家」を奪ったことを申し訳なく思いながら、なるべく「普通」に育てようと必死になっているのに、その「必死」は、子供達にとって「当然」であるどころか、それでもまだ何かが欠けていることは否めないのである。

私がどうしても一人では乗り切れないのではないかと言う境地にあっても、父親は不在であるし、一人きりで背中を震わせて泣きながら、子供を守るために、社会に対抗してきたつもりである。子供が情けない問題を起こした時も、何度でも頭を下げて、夜誰にその悔しさを打ち明けることも出来ずに、一人で気晴らしをし、一人きりで泣いてきたのは、この私である。
そして、この私こそ、子供達は今、中途半端、余裕がない、十分に時間を与えてくれない、という刻印を押して、罰しようとしているかのような有様なのである。

この場に及んで、私の存在価値とは、食事と金と掃除ではないかと疑ってしまうのも、無理もないのではないか。
もちろん、子供たちとて、そこまで馬鹿でもないだろうから、後で分かるとか、本心は違うとか、そういうことは想像できるのだが、私だって日々生き抜いていくに渡って、何処かから、おまえはそれでよいのだ、十分頑張っているのだと、許しをもらいたい。

二度目の結婚は、恋愛に過ぎず、子供に何をしてくれたわけでもなく、経済的に世話になったわけでもないので、彼自身は、私の恋人として存在していただけで、子育てに関して、直接支えてもらったことはない。話しても、実用的な側面までで、当然と言えば当然だが、他人の子供のことは、あまり関わりたくいないのである。それは父親と解決してくれという姿勢だった。

つまり、私のこの一人で背負ってきたと言う感覚は、別離以来、一度も中断されたことはない。

私は、私のやり方が正しいと言う話も聞きたくなければ、私自身の人格を肯定してもらう必要も感じない。

ただ、誰かが私を許してくれれば良いと、それだけが私の望みなのだ。
そんなに責めるな、何をしなくても、仕事もなく、食事もできず、寝たきりだとしても、お前が生きているだけで、周囲の人間には十分であり、課せられた任務を実行し続けなければ、価値がないとは思うなと、そういう許しを受けたいのである。

君は、それでよい。


それだけを言って欲しいと思う。
そして、それだけは、誰も言ってくれない。子供達はおそらく、将来礼こそいうことがあるかも知れずとも、許しと言うのは、子供にもらうものではないのだ。
自分を許さなくてはならないのは、実はこの私自身で、それをする自信が微塵もないため、ずっと自分は愛されていないと言う不安があるのである。
私が、立派な家庭を築いて、裕福な生活を与えない限り、子供達は私から去るだろう、つまり私の価値と言うのは、存在しているだけで十分ではない、そう生きているのが現在の私なのである。

どうやって、自分とこれ以上対決し、どうやって自分から自分に許しを与えてよいのか、本当に分からない。
そして、この鬱の渦巻きから、永遠に抜け出すことが出来ずに、他の人間より、おそらくほんの少し多く、人生の過酷さを実感しているのである。

2010年5月15日土曜日

荒れ狂う散文

この頃の欝は酷くて、突然泣き出しては、自分でも何を考えているのかわからなくなることがある。
何が欠けていてそれをどうやって手に入れたらいいのかも全く見通せない。

Massimoに会って以来、不思議なことがおきているのだ。
Massimoからは、二通形態のメールをもらった。
一つは再会がすばらしかったと。もう一つは週末の小旅行が終わったら連絡すると。

それ以来、私は一日中はなしたイタリア語が口をついて出てしまい、家でもイタリア語のラジオばかり聞き、夜中にはイタリア語の音楽を聴きながら、涙が流れてしょうがないと言った有様なのである。

今も、ワインの入った頭で、思うに任せて書いている次第である。

恥をさらそうが、無教養なことを書こうが、そんなことはどうだってよいじゃないか。
何が、私をこう熱くし、何が私の心をこう締め付けるのか、それをなかなか受け入れたくないのである。

Massiomoというのは、私にとって男性でもなく、友人でもなく、イタリアへの扉である。
もちろん、彼は私に良くしてくれるし、今後も友人だと思って、交流がしばらく途絶えることはないと思う。
けれど、私は彼など全く眼中にないのではない。

私が、ここ何年も、毎年のようにイタリアに休暇に行き、思い出の地ばかり訪れ、写真に収め、新しい色に塗り替えようとし、涙を流して、永遠に続くと思われる丘陵に落ちる夕日を脳裏に焼き付けて帰ってくるのは、他でもない、一心に、彼を忘れようとしている行為なのである。

しかし、あの魔物は、夜になれば襲ってきて、私を悲しみの世界に陥れ、再び、私はこの思いから開放されることはないのだと実感する。

Massimoでもなければ、イタリアでもない。
彼が日本人であれば、日本であるし、彼がドイツ人であったなら、それはドイツなのだ。

ええ、はっきり言わせてもらえば、私は孤独だし、それでも背筋を伸ばして凛と生きているつもりだけれど、自分の有り余る感情に振り回されて、まるで愛することのできない自分が、気が狂ってしまったように暴れだしてしまいそう、と言った状態なのだ。

何の儀式をすれば解放されて、何のまじないをすれば、私があの愛から逃げ出すことができるのかはわからない。

とりあえず、愛することも知らない人間に、愛していると言うふりをされ、束縛されると言う苦痛からは足を洗えた。
再び、あの問題に向き合った私は、一生その影を背負い続けると思うと、本当につぶれそうになるのだ。

自分の人生を思い描くだとか、自分の人生を物語るとか、そんな冗談を言っている場合じゃない。
私は、自分の物語の方が私を支配していることを実感している。
渡してしまった魂を取り戻すために、私は何をすればよいのか。

思いっきり、自分を痛めつけ、汚してしまえばよいのか。
いや、救われるべきは、許されるべきは、実は私なのだから、残されるは、殆ど祈りしかないと言うことなのだろう。
本当に、本当の意味で、コミットしてしまうことは、ここまで一人の人生を支配し、ある一つの牢獄に閉じ込めてしまうものなのか。

早く、鬱が過ぎ去るのを待つしかない。

2010年5月10日月曜日

書くということ

ドストエフスキー「地下室の手記」より引用

… たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心した今となっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実の全てを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。ついでに言っておくが、ハイネは、正確な自叙伝などまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。
[中略]
ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分一人だけのために書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、僕がまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽだけの形式であって、僕に読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
僕はこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序も系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
[中略]
だが紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると説得力が増すようだし、自分に対しても批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくると言うものだ。そのほかに手記を書くことで気持ちが軽くなるということがある。


ぼた雪にちなんで

迷いの闇の深いそこから
火と燃える信念の言葉で
おちぶれた魂を引き上げたとき
おまえは 深い苦悩に満たされ
両の手をもみしだいて
おまえをとらえた悪を呪った。
物忘れがちな良心を
思い出のかずかずで責めながら
私の知るまでのすべてを
おまえはものがたってくれた。
そして ふいに両の手で顔をおおい
羞恥と恐怖におののきながら
おまえとは 心ゆく涙にくれた、
怒りと 心のたかぶりを
どう抑えようもなくて…云々

N・A ネクラーソフの詩より

2010年5月5日水曜日

Con chi condivido le proprie passioni?




今日は春らしかった。
最近は気温が上がらず、コート無しで素足で外に出るわけには行かないが、それでも太陽の光はまぶしいほどであった。

昼前、私はマッシモに会いに行った。
マッシモに知り合ったのは最近なのだ。とあるパーティーで顔を合わせた。
彼はイタリア語しかできない。英語もそこそこで、まともに自己表現できるのは母語であるイタリア語のみなのだ。東洋人の顔をした私が、突然それならばとイタリア語を話しだしたのが珍しかったのか、その後もコンサートなどに誘ってもらった。
彼はコンセルヴァトリオでチェロを学んだのだが、ディプロムを取ることなく、彼にはアカデミックに見えた高等教育を嫌悪してドロップアウトした。
その後、散髪屋の父親の下で、修業をし少し散髪などもできるらしい。

訪れたコンサートで、彼の自然な才能に驚いて、その後何回か呑みに行ったという仲でしかない。

彼の母親は半分ドイツ人で、20歳の時イタリアに移住したと言う。
自分のルーツを知るために、変化を保つために、自分の可能性を知るために、根なし草生活を続けているという。
彼は、週末Boxhagener通りの大きなフリーマーケットで店を出し、若干お金を稼いだり、知り合いのイタリア人の店を手伝うなどして食いつないでいる。

頭の切れる男性だが、アカデミックなものやインテレクチュアルなものに対するアレルギーが強いらしい。尤も、学校が大嫌いで、ドロップアウトした当時も何の職業も習得せずにいたというから、なかなか私などには理解できないライフスタイルだ。

家の要らなくなったもの、子供たちのおもちゃやそういった古いものを彼に処分、つまり彼のフリーマーケットで売りさばいてもらうために久しぶりに連絡を取ったというだけの話である。

地下の荷物を車に運び込んだだけで、階上のアパートに他の荷物を見に行ったまま、私達は4時間も話しこんでしまった。何を話したか。そんなことはあまり覚えていない。少なくとも、政治の話でも本の話でも、共通の知り合いが入るわけでもないので、誰かの話をしたわけでもない。互いの人生を延々と説明したわけでもない。

しかし、何か大切なことを話したような気がする。

ベルリンの生活がどうだとか、今現在、私が夫と別れたあとどんな気持ちなのかなど、そんなことを話したのだと思う。
友達というには、あまりにも知らない人なので、知人と言う感覚だ。私はそういう人は、殆どカードの内を見せない。極実用的に会話をしていただけである。

ところが、何気なく話していると、何度か涙が湧き出てきそうになった。
もちろん相手にはそんなことおくびにも出さなかったつもりだ。私は親しくない人には、弱みを見せない人間なのだ。

目頭が熱くなるたび、自分の中の感情は、まだ新鮮なのだと実感した。まだ湯気が出ているほど、「現在」に属する感情で、それに触れただけで、一瞬でも理性が負けそうになるのである。

べらべら話していたら、彼は突然声を大きくして遮った。

そんな風に身体の前で腕を組むのをやめろよ。それは自分を閉じている証拠だよ。

そう言うと私の腕を解き、手をとって、とても暖かく、私を楽にするために抱擁してくれた。それは、私が悲しい顔をして夫との話をしていたからではない。
彼の目には、私がこぶしを握ってドイツの大地に脚を付き、戦闘的に生きているその姿が、私の話しっぷりから見えたのだと思う。
それを哀れに思ってくれた彼は、おそらく人間として私を楽にしたい、いやそんな言葉ではなくて、単に抱きしめてやりたい、そう感じたのだと思う。

触れあいは、距離をずっと縮める。その感触が暖かければ、正直な信頼感が生まれてくる。

その後もしばらく話し込んだ。そして、私は何ヶ月もこのように、自分のおなかの中にずっとしまっておいた私自身の話をしたことがなかったことに気がついた。

私は殆ど誰にも私の魂を見せないし渡さない。その辺は石橋を叩くように思慮深い。傷つくのが嫌なのだ。ならば孤独を耐える方が数倍楽なのである。
魂を見せるということは、私が裸となって自分をゆだねることと同様なのだ。

今日、彼は私に歩み寄って、私に触れて、私の魂をちょっとだけ動かした。

君はね、大事なものを持っているよ。君には、たくさんのことが隠れている。自分を解放してやりな。君はリラックスしているし、ナーバスでもなければ、内気だとも思えない。けれど、君の家族や君の家族が背負ってきたものが、君を形成しているじゃないか。それを本当の意味で切り離すのは簡単じゃない。経済的、物理的独立は、本当の意味の切断とは違うよね。
君の中には、たくさんの整頓された引き出しがあって、それが融合していないんだよ。
Lasciati andare.....   (自分を自由にしろよ)
君は、見る限り、とても強い女性だね。とても芯が強い。

その強さが私の過去の産物。

もう男の人など要らないとは思うなよ。
人間は社会的な動物なんだから、一人なんかで生きられるはずがない。心をオープンにして。

彼の言葉を今振り返ると、如何にも私は肩肘張って生きているのか分かる。

男の人なんか要らないのかって、自分でも思うよ。

そうそう、そういう風に見える程だよ。


今のこの現状では、私は幸福だと思うのだ。
しかしどうであろうか。クリスマスに壊れた家族を思って悲しくなり、子供の誕生日に、父親と祝ってやれずに悲しくなる。

過去を取り戻す気はないが、私の中には一種の不治の悲しみが宿ってしまっており、それ以来感情というものを半ば凍らせるようにして生きてきたのかもしれない。
それで、冷静に先週の話や、仕事の話をしているだけで、目頭が熱くなるのである。

心の開ける人の前では、私は絶対的な信頼感を彼に与えざるを得ないらしい。嘘の会話などできないのだ。白々しい会話をしていると、涙が滲むのだ。

太陽の光が美しい季節である。
あまり美しすぎるので、時々ふっと横に微笑みかけてしまう。
しかし、私の横には、誰もいない空間が広がるばかりである。

喜びを分かち合えない孤独ほど、それが如実に孤独であると強調されることはない。

悲しみも苦しみも分かち合って、慰めあいたいなどと、考えたことはないのだ。人間は、一人で苦しむものだし、また他人は、傍らに存在すること以上できないのである。
しかし、全く意識的には気がついていないのだが、毎日が重く、苦しく、闘いであるからこそ、私が生活に喜びを見つけたときは、飛び上がるほど幸福なのである。子供の笑顔や、美味しい食事、雨上がりの太陽、窓辺に小鳥が来て水を飲む時。そういう時、私はこれを皆に見せてやりたいと言う衝動を抑えることができない。生活の隅々にある。小さな発見。それは、言葉にできぬ重く辛いものをそれぞれが背負い、それぞれがそれぞれに与えられた孤独を生き抜かなくてアならないからこそ、この小さな美しい発見を分かち合うことに意味があるのではないだろうか。
この取るに足らない小さな喜びを分かち合える間は、つながっているのである。

私の不幸は、この喜びを分かち合えるパートナーがいないということだけであろう。

その他の問題など、実は取るに足らないことなのである。