2010年5月10日月曜日

書くということ

ドストエフスキー「地下室の手記」より引用

… たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心した今となっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実の全てを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。ついでに言っておくが、ハイネは、正確な自叙伝などまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。
[中略]
ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分一人だけのために書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、僕がまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽだけの形式であって、僕に読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
僕はこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序も系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
[中略]
だが紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると説得力が増すようだし、自分に対しても批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくると言うものだ。そのほかに手記を書くことで気持ちが軽くなるということがある。


ぼた雪にちなんで

迷いの闇の深いそこから
火と燃える信念の言葉で
おちぶれた魂を引き上げたとき
おまえは 深い苦悩に満たされ
両の手をもみしだいて
おまえをとらえた悪を呪った。
物忘れがちな良心を
思い出のかずかずで責めながら
私の知るまでのすべてを
おまえはものがたってくれた。
そして ふいに両の手で顔をおおい
羞恥と恐怖におののきながら
おまえとは 心ゆく涙にくれた、
怒りと 心のたかぶりを
どう抑えようもなくて…云々

N・A ネクラーソフの詩より

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