2010年5月5日水曜日

Con chi condivido le proprie passioni?




今日は春らしかった。
最近は気温が上がらず、コート無しで素足で外に出るわけには行かないが、それでも太陽の光はまぶしいほどであった。

昼前、私はマッシモに会いに行った。
マッシモに知り合ったのは最近なのだ。とあるパーティーで顔を合わせた。
彼はイタリア語しかできない。英語もそこそこで、まともに自己表現できるのは母語であるイタリア語のみなのだ。東洋人の顔をした私が、突然それならばとイタリア語を話しだしたのが珍しかったのか、その後もコンサートなどに誘ってもらった。
彼はコンセルヴァトリオでチェロを学んだのだが、ディプロムを取ることなく、彼にはアカデミックに見えた高等教育を嫌悪してドロップアウトした。
その後、散髪屋の父親の下で、修業をし少し散髪などもできるらしい。

訪れたコンサートで、彼の自然な才能に驚いて、その後何回か呑みに行ったという仲でしかない。

彼の母親は半分ドイツ人で、20歳の時イタリアに移住したと言う。
自分のルーツを知るために、変化を保つために、自分の可能性を知るために、根なし草生活を続けているという。
彼は、週末Boxhagener通りの大きなフリーマーケットで店を出し、若干お金を稼いだり、知り合いのイタリア人の店を手伝うなどして食いつないでいる。

頭の切れる男性だが、アカデミックなものやインテレクチュアルなものに対するアレルギーが強いらしい。尤も、学校が大嫌いで、ドロップアウトした当時も何の職業も習得せずにいたというから、なかなか私などには理解できないライフスタイルだ。

家の要らなくなったもの、子供たちのおもちゃやそういった古いものを彼に処分、つまり彼のフリーマーケットで売りさばいてもらうために久しぶりに連絡を取ったというだけの話である。

地下の荷物を車に運び込んだだけで、階上のアパートに他の荷物を見に行ったまま、私達は4時間も話しこんでしまった。何を話したか。そんなことはあまり覚えていない。少なくとも、政治の話でも本の話でも、共通の知り合いが入るわけでもないので、誰かの話をしたわけでもない。互いの人生を延々と説明したわけでもない。

しかし、何か大切なことを話したような気がする。

ベルリンの生活がどうだとか、今現在、私が夫と別れたあとどんな気持ちなのかなど、そんなことを話したのだと思う。
友達というには、あまりにも知らない人なので、知人と言う感覚だ。私はそういう人は、殆どカードの内を見せない。極実用的に会話をしていただけである。

ところが、何気なく話していると、何度か涙が湧き出てきそうになった。
もちろん相手にはそんなことおくびにも出さなかったつもりだ。私は親しくない人には、弱みを見せない人間なのだ。

目頭が熱くなるたび、自分の中の感情は、まだ新鮮なのだと実感した。まだ湯気が出ているほど、「現在」に属する感情で、それに触れただけで、一瞬でも理性が負けそうになるのである。

べらべら話していたら、彼は突然声を大きくして遮った。

そんな風に身体の前で腕を組むのをやめろよ。それは自分を閉じている証拠だよ。

そう言うと私の腕を解き、手をとって、とても暖かく、私を楽にするために抱擁してくれた。それは、私が悲しい顔をして夫との話をしていたからではない。
彼の目には、私がこぶしを握ってドイツの大地に脚を付き、戦闘的に生きているその姿が、私の話しっぷりから見えたのだと思う。
それを哀れに思ってくれた彼は、おそらく人間として私を楽にしたい、いやそんな言葉ではなくて、単に抱きしめてやりたい、そう感じたのだと思う。

触れあいは、距離をずっと縮める。その感触が暖かければ、正直な信頼感が生まれてくる。

その後もしばらく話し込んだ。そして、私は何ヶ月もこのように、自分のおなかの中にずっとしまっておいた私自身の話をしたことがなかったことに気がついた。

私は殆ど誰にも私の魂を見せないし渡さない。その辺は石橋を叩くように思慮深い。傷つくのが嫌なのだ。ならば孤独を耐える方が数倍楽なのである。
魂を見せるということは、私が裸となって自分をゆだねることと同様なのだ。

今日、彼は私に歩み寄って、私に触れて、私の魂をちょっとだけ動かした。

君はね、大事なものを持っているよ。君には、たくさんのことが隠れている。自分を解放してやりな。君はリラックスしているし、ナーバスでもなければ、内気だとも思えない。けれど、君の家族や君の家族が背負ってきたものが、君を形成しているじゃないか。それを本当の意味で切り離すのは簡単じゃない。経済的、物理的独立は、本当の意味の切断とは違うよね。
君の中には、たくさんの整頓された引き出しがあって、それが融合していないんだよ。
Lasciati andare.....   (自分を自由にしろよ)
君は、見る限り、とても強い女性だね。とても芯が強い。

その強さが私の過去の産物。

もう男の人など要らないとは思うなよ。
人間は社会的な動物なんだから、一人なんかで生きられるはずがない。心をオープンにして。

彼の言葉を今振り返ると、如何にも私は肩肘張って生きているのか分かる。

男の人なんか要らないのかって、自分でも思うよ。

そうそう、そういう風に見える程だよ。


今のこの現状では、私は幸福だと思うのだ。
しかしどうであろうか。クリスマスに壊れた家族を思って悲しくなり、子供の誕生日に、父親と祝ってやれずに悲しくなる。

過去を取り戻す気はないが、私の中には一種の不治の悲しみが宿ってしまっており、それ以来感情というものを半ば凍らせるようにして生きてきたのかもしれない。
それで、冷静に先週の話や、仕事の話をしているだけで、目頭が熱くなるのである。

心の開ける人の前では、私は絶対的な信頼感を彼に与えざるを得ないらしい。嘘の会話などできないのだ。白々しい会話をしていると、涙が滲むのだ。

太陽の光が美しい季節である。
あまり美しすぎるので、時々ふっと横に微笑みかけてしまう。
しかし、私の横には、誰もいない空間が広がるばかりである。

喜びを分かち合えない孤独ほど、それが如実に孤独であると強調されることはない。

悲しみも苦しみも分かち合って、慰めあいたいなどと、考えたことはないのだ。人間は、一人で苦しむものだし、また他人は、傍らに存在すること以上できないのである。
しかし、全く意識的には気がついていないのだが、毎日が重く、苦しく、闘いであるからこそ、私が生活に喜びを見つけたときは、飛び上がるほど幸福なのである。子供の笑顔や、美味しい食事、雨上がりの太陽、窓辺に小鳥が来て水を飲む時。そういう時、私はこれを皆に見せてやりたいと言う衝動を抑えることができない。生活の隅々にある。小さな発見。それは、言葉にできぬ重く辛いものをそれぞれが背負い、それぞれがそれぞれに与えられた孤独を生き抜かなくてアならないからこそ、この小さな美しい発見を分かち合うことに意味があるのではないだろうか。
この取るに足らない小さな喜びを分かち合える間は、つながっているのである。

私の不幸は、この喜びを分かち合えるパートナーがいないということだけであろう。

その他の問題など、実は取るに足らないことなのである。

5 件のコメント:

  1. こんにちは。ブログ見ましたよの足跡でございます。
    内容は・・・。ではでは。

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  2. 君がこの彼に出会えた事を、私は心の底から嬉しく思います。魂の次元で触れ合える物を持っている人と時間を共有することは、それが短時間でも長時間でも、君にプラスの何かをもたらしてくれると思うので。
    それって言葉では表現出来ない何かなんではないかしら。
    Lasciati andareって、本当に自然体ないい言葉。ま、私はほとんどのことにおいてlascio andareなんですけど。
    では良い1週間を。

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  3. えいねんさん、ご無沙汰です。早速見つけてくださりどうもありがとう。色々と多忙に加えて管理問題の面倒くささで逃げ回っていました。ここはまとまった時以外に書かないので、ひっそりとしています。ちょうど良いです。内容は、まさに…なので、どんどん飛ばしてください。またそちらにも伺いたいです。

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  4. おお、ターキー君か。早速イタリア語修正ありがとう。やはりこの場合は先にtiだな。書きながら分からんかったがそのままにした。こいつは、あまりにも私と生活背景が違って、近づくのは怖いのだが、ある意味スノッブぶっている自分をぶっちぎるには、型破りでとても良い人だと思います。どうなるかなあ、今後。まあみてみましょ。

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  5. おはよ。別にイタリア語を修正したつもりはなかったんだが。この言葉の前にdeviとかvoglioが付けばlasciarti andareになるけど、命令形という形で使うとlasciati andareになるそうです。夫に確認しました。最近文法を勉強しているので、いかに今までテキトーなイタリア語の使い方をしてきたかに気がついて愕然としているところ。語学力はないって事が分かったよ。コミュニケーション力はあるかもしんないけどね。
    日々、色々なことが起きるけど、頑張るところとlasciati andareのバランスを上手に取ってゆきませう。

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