2010年4月30日金曜日

身体的なもの

とにかく朝起きてから、今日はダメだ、今日こそはつぶれるのだと、それだけを実感していた。
とてつもない荒野に一人きりで置き去りにされたような孤独感と共に起き、いや起きることもできなかった。仕事だけが支えで、締め切りに追われたり、学校に教えに行くことが、もはや私の救いであり、社会との唯一のか細いつながりになってしまった。

August Rodin The Kissers


そうして自分の教室に入る。二人の生徒から断りがあり、建物の中庭に面した窓を開けた。今日は20度以上気温が上がり、すっかり春爛漫といった風情であった。

私も去年買った淡い黄色い革のバレリーナを素足に履いて、珍しくスカートをひらつかせて家を出たのだ。
窓の外には、小さな子供達が砂場に集まって遊んでいる。母親が何人か一緒に砂場に腰を下ろして、日向ぼっこをしていた。すっかり緑が色濃くなった。

10日ぐらい前だろうか、ARTEである番組を見た。
それは、Gerard Depardieuの息子、Guilleum Depardieuに関する小さなドキュメンタリ番組だった。彼のデビュー作は、16世紀のガンバ奏者であったSt. Colombeの映画であり、Marin Maraisの若い時期を演じていた。それ以来、彼のファンになった私は、ことあるごとに彼の映像を見てきた。
その彼が、バイクの事故を起こし膝を怪我した。手術の際にMRSAというバクテリアに感染し、それから苦悩の年月が始まった。
痛みと炎症の繰り返しに耐えかねた彼は、右足を切断し、映画界に復帰したが、おそらくMRSAによる肺炎で3日以内に死亡してしまった。
その彼の映像が、ドキュメンタリーとしてテレビに流れ、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。若く、健康で、男性的な人間が、三日以内で亡くなったことも悲しければ、彼のように自虐に近い形で、仕事に闘魂し、よき父であろうと努力しつつ、離別も経験し、MRSA被害者の会も設立して活動していたという、その溢れんばかりの生きる活力が消えたということが信じがたかった。

教室の中で、開け放った窓から聞こえてくる、屈託のない子供達の声を背後に、私は椅子にポツリと座ったまま、ピアノを弾くでもなければ、本を読むでもなく、ただそこにじっと張り付いてしまったように座っているだけだった。

一昨日、私は最終的な家の整理のために、夫宅へ向かった。一人で以前一緒に住んでいた家に行き、その残骸を見ながら、子供達の残りの玩具や私のキッチン用品など、細かいものの整理をする気力はなかった。その日のことを考えただけでも、胃痛が激しくなって、吐き気をもよおしたほどである。夫を見たくないのではない。夫を見るのが怖いのだった。何かを感じてしまうという心の動きが怖い。

情けない私は、学校の引けた真ん中の息子を手伝いに連れて作業に向かった。家の中は男の住処と化しており、私が一緒に住んでいた頃よりもすっかりくすんでしまった。地下倉庫の整理も終え、過去にじっくりと対面し、できる限りのものを捨てようと心がけて、箱をまとめた後、息子とま再び階上の部屋へ戻った。間もなくして夫も帰宅した。
3ヶ月ぐらい会っていなかったのだ。様々な事情が重なって、会うはずが会えなくなり、会うつもりが会いたくなくなって、半ば自然消滅にも似た中途半端な状態である。
血色の良い顔をした夫は、挨拶の抱擁をし、私の仕事ぶりを察するや、何か飲んだ方がよい、疲れているようじゃないかと、私の顔を覗き込んだ。

その目は、私の知っているあの目だった。あの優しい犬のように従順な目だったのだ。

その目を見たとき、私は大きなショックを受けた。それこそコミュニケーションだったのだ。言葉のない、しかし明らかに私の心を動かしたコミュニケーションだった。

夫は、驚くべき金銭感覚と、驚くべき楽天的な性格により、様々な問題を抱え込んでいる。私達が知り合った頃、すでにその問題は頭角を現していたが、そんなこと一々恋人達は話題にしなかった。
それらの生活上の問題が、私たちを遠ざけたのかどうか、今の段階では分からない。
しかし夫との関係は、以前のような魂だとか精神だとか、そういった太い縄にがんじがらめにされたような感覚は一切ないのだが、それでも何かが強く私達を惹きつけている。

椅子の上にずっしりと腰をかけたままの私の目には、自分の膝、足元、そして胸元が目に入った。春らしい陽気なので、いつものように子悪魔さながらに黒一色ではあったが、ジャージーのフレアスカートにぴったりとした胸がV字に開いたトップに小さなボレロを着ていた。何ヶ月ぶりの素足が憎らしかった。脚を伸ばした時に見える自分のふくらはぎも憎らしければ、Vカットから見える胸のふくらみすら憎らしかった。特に胸は、若い頃の新鮮さは失せ、脂がのって自慢げにすら見えた。
こういう自分の姿をすっかり持て余しながら、私は自分が女であることを実感し、今や13歳の息子にも追い越された私は、この身体で意地になって地面に足を付き、一人で肩をいからせながら生きているのかと思ったら、うんざりしてしまった。

あの俳優ギヨームのせいなのだ。なぜってギヨームは、夫が若かった頃に瓜二つなのである。
あれから、ギヨームのTVでの姿がことあるごとに私の目の前にちらついた。彼の熱い声、彼の無防備な態度、彼の自分勝手な暴走。そういったものが彼 の見かけと一体となって、私の目の前に何度もちらついたのだ。
私は、そして必ず連想する夫のことも思い出さずに入られなかった。

夫の目を見た瞬間、夫の腕の感触を実感し、夫の髪の毛の香りを実感した。そして、それは全て過去の遺産のように、私からは手の届かぬほど遠いところにあった。あの目は、まるで妹や他人を気遣うように優しかったが、それは、私達の間にすでに何も熱いものがなくなってしまったからであろう。


椅子の上に座ったまま、自分がまぎれもない女性なのだと実感した瞬間、私と夫は、身体的に結ばれあっていた、そしてそれだけが理由なのだと直感した。

どれだけ愛し合っていても、もうどうしても触れることはできないと言うことはある。私はそれも知っている。
しかし、愛し合っていなくとも、身体同士が触れ合いたいと、まるで細胞が声を出しているように聞こえることもある。見かけが素晴らしいのでもない、立ち居振る舞いが洒落ているのでもない。肌が合う、そういう言葉ともまったく違う。
性欲というような具体的な感覚でもなく、通り過ぎたり、向かい合ったりした瞬間に、極自然に身体同士が磁石のように引きあってしまう。そういう感覚であり、求め合っているというような熱さはどこにも見当たらないのである。

一緒にいる、隣同士にいる体温を感じあうことで、問題を解決し、あるいは問題に目をつぶり、今までやってきた。けれど空間を別にしてしまったら、そこには何も残らなかったのである。身体を切り離したら、何もなくなってしまったという、ぞっとするような話だったのだ。

どれだけ楽しい日々であったか、旅行に行った思い出や、議論に議論を重ねて闘争しあった思い出もある。しかしその密度は、すっかり影をなくして、実質何が残ったのか皆目分からない。身体性が保障される間、このような交流が意味をもっていたのである。

分かり合えるからセックスをする。だからお互いが満足するというのが図式である。

セックスをするから口語面での交流もできる、だから満足するという図式だったのだと、今分かった。

だからといって身体的な面から、よりを戻そうなどと考えたこともない。一度壊れてしまったものは、通常の図式でも、第一段階の分かり合うという言葉ですらブロックされているのだ。

今、私は夫に抱きしめられたとしても、おそらく私には、二度と血は通わないのだと思う。もう血は冷めてしまっているのだ。

しかし、彼を見るたびに感じる欠乏感は、分かり合える人がいないという次元ではない。そうではなくて、すれ違うたび、目を見るたびに吸い寄せられそうになる身体を制して動かさずにいる際に感じる、身体自体の欠乏感なのだ。そしてそれは必ずしも性欲などのように具体化しておらず、本当に私と言う身体が、硬い地面に棒立ちになって途方にくれているような、そういった寂しさなのである。

最初の夫の時とは比べ物にならないほど、浅い層で起きている感情の動きだ。
どこかを切り裂いてくるような痛みはない。
愛ではない、愛したこともないという冷たい言葉を吐いていた私は、夫に会わなかった3ヶ月、すっかり落ち着いてしまった自分の気持ちを、整理がついたものと認めていた。
ところが、会ってみてはっきりとわかった。整理などついていない、整理など付けられない何か言葉には言い表せない、自分でも理解のできない磁石が今でも働いているということを実感してしまった。
これが、身体的な愛だったのかもしれないと思った時、私はなんとも言えず悲しくなった。
どんなに魂の住む次元が違う男でも、どんなに生活感覚の違う男でも、私を何年間も暖めることはできたのだと。空洞のような心を抱えた私の過去8年は、確かに魂の枯れ切った時代であった。けれど、私の身体は常暖められていたのだ。私はずっと女性であったし、私はずっと抱きしめられていた。
私の感情の氷山の一角しか理解できない夫であっただけに、私は感情的には、完全に自立していた。感情的には、彼は常に、一番遠い地点に見えないような場所に立っていた。けれど、私達はそれを体温で呼び戻しあったのだ。

時々、私の身体が私に囁く。
自分を硬直させてはだめだと。

私はしなやかな女性であるべきだし、女性以外にはどう転んでもなれない。

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