2010年4月10日土曜日

孤独な老婆の目から湧き出てきたこと



今日久しぶりに、動物の目を見たような気がする。いや人間の目なのだけれど、動物の光を放っていた目。

先ほど買い物に出かけた。食べるものぐらいは美味しいものをと心がけているが、やはり高いスーパーで一週間分の買い物をするのはもったいない。
安いスーパーに行って、そこで、できるだけ新鮮なものと良い商品を見つけて買い込んでくると言う習慣。

末息子と共に入ったいつものスーパー。なかなか広々としており、普通二台の大型買い物ワゴンが通り過ぎる余裕は十分ある。そこに、一人の初老の夫人が通りがかり、どうもそのワゴンの角が、そこでパンを選んでいたもう一人の初老の女性に当たったらしい。

当てられた女性は、

「ちょいと!あなた人間の子供でしょう?見れば分かるもの、何でぶつかってくるのよ!」

と怒鳴る。他方の女性は、すでに通り過ぎた後、振り返りもせずに背中を向けていた。傷ついたといった風情でもない。

私は、家の裏庭の桜の木が 満開になったことに快くしており、美味しいものを子供たちにサービスしようと実に気分が良かったため、あまりにもその残酷な反応に、半ば腹が立って、その怒鳴った女性を見つめた。だれが、此れしきのことで、人々の気分を簡単に翻すのか見てやりたかった。

その女性は、くたびれた綿のジャンパーを着て、なんともしまりのない姿でそこにたたずんでいた、買い物ワゴンに身体を寄りかからせ、半分白髪で、ハリネズミのようにただ散切り頭に刈ってあるそのショートカットは、妙に貧乏くさく不潔に見え、付かれきった顔には、まるで今までの人生の苦労が全て刻み込まれているような萎れ方である。白い肌は、蒼白に見え、落ち窪んだ目の下には灰色の隈ができている。飲酒で身体を痛めたのではなく、苦労と不満と欲求の塊として、長年生きてきたために、顔に生気を失ってしまった。そういう様相であった。

しかし、その目には、恐ろしい光沢が光っていたのである。シチリアの知人宅に滞在していた時、夜外出したのだが、あの時丘の上の空き地に、10匹以上集まっていたであろう、あの恐ろしい野犬の目に良く似ていた。

自動車のライトは、その粗い体毛を照らし、灰色の混ざった硬い毛並みを光らせていた。黄色がかった目をぎらぎらと光らせて、野犬たちは一斉に自動車に乗った私達に向かって吠え立てる。
飼い犬の、媚びたような愛らしい目ではなく、人間に触れずに、人間に対向して生き延びてきた野生の光は、鋭く、まるで突き刺してくるような恐ろしさがある。

その初老の女性は、うつろな目蓋の下に、そのような鋭い光を放っていたのである。まるで、目だけを見れば野生化した人間のような、孤独な光であった。

ドイツに生きていると、ネガティブなエネルギーに時々、陰鬱な気分を移されることがある。それは、生きる階級とは関係なく、フランクフルトの空港で、図体のでかいビジネスマンに突き飛ばされても、横を歩け!と怒鳴り散らす人間も少なくない。前を見ろ!ならまだしも、横を歩け!とは、一体その言葉の背景に、どのような傲慢さが隠されているか、想像するに難くない。
官庁に行けば、目も見てもらえず、まるで一枚の書類のように扱われることもしばしばであるし、サービス業に至っては、注文させていただき、買い物をさせていただくと思わせる場面もしばしば。個人の敏感度にもよるが、人種差別の話題に至っては、何をかいわんやである。

この国には、陰鬱を誘う何かが隠されていることは事実だし、天候と同じように、暗い雲に包まれたように、社会が沈黙しているとも感じられる。議論も平等で正当性も謳われる国だが、それでも一番大切な何かは、すっかり国土の下に凍り付いて埋まったままになったかのように、ただただ重い圧迫感として感じること以上、探りようもないのである。

合理的な理論が、ここまで簡単に受容され、賛同を持って生活に組み込まれている国は、他に例を見ないのではないか。私には、体感的な事実としてしか、説明のしようがないのだが、合理的な考えが、最も正しく、最も理にかなっていると納得するほど、この人たちには、生活には「必要のない」想像力が備わっていない。 ファンタジーがないのである。

人の心や、気持ち、言葉の意味を考える時に、頭脳の明晰さとは別に、ファンタジーとも言える想像力が、とても大切な役割を果たすと思うのだが、この国の人々には、すっかり重要ではないものだとみなされて、削除されてしまう。まるで、キリスト教の五感の楽しみが、削除されてしまったように。まるで理解に及ばないラテン語のミサが、すっかりなくなってしまったように。もしかしたら、そこには響きという体感があり、響きを通した神の存在や、心の何かとの遭遇があるかもしれないのに、そういうことは証明できない。よって、必要なき物とされてしまうらしい。
私個人にとっては、生きにくい国である。 機能的だけれど、機能的なことばかりしていると、人間は、発狂しそうになる。

この野性の目を持った初老の女性は、このような背景で、貧しい環境に不幸を募らせて生きてきたようである。不幸の愚痴をこぼすにも、お金がない、失業した、浮気された、子供が犯罪を犯した、といったような、ある事実を述べ立てていくことしかできないのだろう。そこで、絶対に体の奥深く似蓄積しているはずの、辛苦の感情は、言葉の形をとって発散されることができないのである。教養の問題ではないと思う。そうではなくて、心を感じる能力が、彼女にはあまりなく、彼女の性質もあるが、それには間違えなく、この陰鬱な国土からじわじわと表出している、社会全体の沈黙の圧迫感に抑圧されたまま、存在せぬものとして葬られてきたのだ。

孤独とは、こういうことで、社会に属しているから、連帯感があるというものではない。一人ひとりが、自分の目に見えぬ心に、言葉を与えて、そして形にして表出させていくことから生まれる、コミュニケーションこそ、何かを生むのであって、それ以外の言葉など、実は機能させるための道具の言葉でしかない。

しかし、こうして本当の自己の言葉を失ってしまった人々に、一体なんと声をかけてゆけばいいのか。本当のコミュニケーションを忘れてしまった社会で、辛苦の極みを舐めてきた人間は、社会からすら葬り去られ、その目には、ぎらぎらとした野犬のような光を秘めているのである。それはぞっとするような孤独とアグレッシブさを突きつけてくる。

 機能と合理を追求していくと、忘れ葬り去られた無意識の次元は、すっかり太古的になり、野生化しているのかもしれない。
けれど、それがゲルマン人であり、その陰鬱から、時に、他の民族には例を見ない論理性と感受性、そして内観を伴った芸術が生まれると言う不思議がある。
孤独と対決しながら、常に己を知るために、言葉を捜し、言葉をつむぎ、言葉の錬金術と言えるほど、その抽出過程に人生全体を投入する作業を続けることで、きっとそういうゲルマンの文学や芸術が生まれてくるのである。

最近考えたDichtungという言葉は、アンドレ・ブルトンが以前シュールレアリズムに当てはめた、「言葉の錬金術」に他ならないと、買い物のあとふっと思いついたため、備忘として書き記した。

ツイッターのフォロワーの方から、マンがDichtungをデモーニッシュと例えたという教えを頂いたが、まさに錬金術のように、化学反応を起こさせ、同類から同類を生み出すような錬金術の過程は、デモーニッシュと言えるほど、複雑で時に自分の制御を超えてしまう反応が起こることがある。本当の自己の言葉とは、発するまでに実は、気の遠くなるような年月と経験が必要なのだと、改めて実感した。

陰鬱な地では実に明白なことだが、生きるに当たってその絶対的な孤独に打ち負けない方法は、ひたすら己との対話を探し出していくこと以外にはないと、そんなことを考えた。

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