2010年4月6日火曜日

フアナの狂気



今日考えたことは、正常と異常の境目は当然つながっていて、その線は曖昧だということ。フアナの本を読んでいても、彼女が病理学的に異常、つまり二大精神病である、総合失調症や躁うつ病だというには資料も少ないが、言い切れないわけで、症状もボーダーライン上にあるという気がしてならない。

そもそもボーダーラインと呼ばれる性格、性質があるように、人間は誰しも正常な部分と異常な部分を持ち合わせている。

私は医者でもなければ、いかなる専門家でもないので、これについて語ることはできない。そういうのは専門書を読めばいい。

ただフアナの本を読みつつ思ったのは、嫉妬する女は怖いとか、嫉妬は愛情の形とか、嫉妬深いとか嫉妬心というのが、大問題になっているけれど、嫉妬心は性格特性だけによるものじゃないと思う。
状況によって、嫉妬心が強くでてくることもあるのは、誰でも知っていることだと思うけれど、私の個人的体験では、様々な要因が重なって嫉妬心が煽られることがあると実感する。

まず、本人自身のコンプレックスの度合い。コンプレックスを持たない人間はいないが、そのコンプレックスが強いと、自信のよりどころが不安定である。なので、ちょっとした変化や出来事は、割りと簡単にその閾値を越えて、ストレス状態を生み出してしまうことがある。こうなると嫉妬はストレスによって左右されるとも言えるのではないか。

そしてその変化や出来事は、おそらく第三者や環境によってもたらされる。
何を仮定したいかと言えば、世の中には、もちろん故意にではなくとも、相手をヤキモキさせて常にストレス状態の閾値あたりに縛り付けておくような行動があるのではということ。

これも個人的体験によるものであるが、当人はあっけらかんとしてるが、果てしない灰色状況を保ち、信頼関係を築こうと努力はしてくれるものの、そのコミュニケーションに本人の魂が宿っているのかどうか、どうひっくり返しても分からないという場合。
何度慰められて、何度信じてくれと言われても、魂の宿らない言葉は、神経のむき出しのセンサーのようになったストレス下の嫉妬心には、あまり効き目がない。

もっと酷いのは、相手自身の行動が神経症じみていて、さまざまな人格を操るかのように複数の仮面で接してくる場合。
ある日は愛情深く、本人も愛していると信じて疑わないので、こちらも100パーセント心を開いてしまう。開かざるを得ないような正直さで、真摯に愛されるのである。つまり、こちらは傷つきやすい面を相手に委ねていることになる。
ところが、予想できないきっかけにより、相手はいつ豹変するか分からないことから、ストレス状態への閾値にいるという緊張感は、一向に変わらない。
そして、文字通り、昨日あれだけ愛されていたはずが、今日は罵倒され傷つけられ責められるといったことが起きる。こちらは、言い返すも元々通りが通っていない相手の行動である。道理で勝負すること自体が無意味と言うストレス。

つまり、このような態度をとられると、売り言葉を買えば大喧嘩になり傷つけあい、売り言葉を買わずに相手の言葉に迎合すれば、お前は本当は聞き流していると罵倒され、無視すればどの部屋までもどんなところまでも追いかけてきて放してくれないという事態になるのである。
よって、相手がこうなると、うずくまって耳をふさいでいようとも、嵐は必ずやってくるのであって、売り言葉を買おうが買うまいが、そのストレスの度合いはどれをとっても同じと言う結果。

こういう相手の行動を私は、精神的テロ行為だと位置づけているが、こういう男性と例えば何年も生きていると、一体どちらの言い分が正論を述べており、健全であるか分からなくなってくることがある。

正常と異常の境目は、完全に煙にまかれてしまうのだ。

フアナは、アンテナのように繊細な心を持ち、不安感を抱え、政治的にも社会的にも若くして過剰な役割を担ったと言うストレスがかかっていた。そして言葉の分からないブリュッセルに嫁ぎ、夫フィリップだけが頼りであったが、このいわゆる浮気者で有名な王子は、おそらくフアナの情熱的で不安定な性格に疲労したのもそうであろうが、当人自体の行動も、大いに灰色ゾーンに包まれた上、彼女に対して熱くそして冷たく当たり、約束をし、それを破りと言う行為を続けたに違いない。さらに政治的な権謀数述が関わってきて、信頼関係の土台は崩れ去ったにもかかわらず、彼らは殆ど最後まで、男女としての交わりは止めなかったのである。

狂女として彼女を知り、狂女として何世紀も有名になってしまった彼女についてより多く知ったとき、私は非常に悲しくなった。何日も何週間も、悲しみに明け暮れて、彼女の生きた世界から抜け出すことができなかったことを覚えている。
当時、私は近世の死者のミサやMemoriaについて勉強していたので、死者が現存するものとしてごく当然に扱われていた当時の世界観に浸りきっていたともいえる。その中で、夫の遺志を遂げるべく、棺桶を引きずりながらスペインの乾いた国土を厳冬の中グラナダを目指し、さまよい続けていたフアナの姿を思い浮かべると、これが原因で狂女と言われたけれど、やはり納得がいかない気持ちで一杯になった。

彼女は、常に想像を絶するストレスに曝され、ストレス症状(現代ではパニック症候群やノイローゼといった神経症)を発し、それが唯一甘えの対象、頼りの対象であったフィリップへの嫉妬心として向けられた。しかし、実はこのフィリップ自身が、彼女の嫉妬心を静めるべく術を知らず、精一杯の愛を持ってなだめても、彼女の深く繊細な心の奥までは到達できず、彼女にとっては灰色の答えでしかなかったり、また彼自身の行動の支離滅裂さが、一層嫉妬心を強めてしまったと言う結果になったとも言えるのではないか。

何故今、またフアナに舞い戻って 考えているのか、私自身の中にある原因はわからない。

けれど、正常も異常も、私はそんなことどうだって良いと今日考えた。
病理としての精神病が発見されたなら、薬を飲んで治療する必要があるが、そんな症例は少ないだろう。

今日、ツイッターである方が、「そういう精神病患者は一目見ればわかる、フアナの場合は、精神病ではなかった。環境がそうした。私の感がそう言う。」と返事を下さった。
おそらく医師であろうと思うが、ずっしりと信頼できる言葉であった。

フアナをみても、現代の医師は、おそらく神経症と診断するのではないか。
そして、神経症なら、私達皆、多かれ少なかれ神経症であるということは、間違えない。

今日の思考は、こんなところであった。

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