2010年4月14日水曜日

絹糸の一すじ

人生は、まったく止まることを知らずに流れていくものだと思う。その日を生きる生活に追われつつ、さまざまな感情に襲われては、また通りすぎと、すべてが限りある時間という流れの中で、時に私の心を揺さぶりながら、時に私の心を硬直させて、また形の無いものとなって流れ去っていく。

私の人生もめまぐるしい動きの中で、様々な物を失ってきたけれど、それでもある中心だけは、まだ失わずになんとか持ちこたえている。


「存在しようと!」と心に決めた以上、
欠乏がこの世にあるなどという迷いにおちいるな。
絹糸よ、おまえは織物の一すじなのだ。

たとえおまえが心の中でどのような模様に織り込まれていようと
(それがたとえ痛苦の生の一こまであろうと)
讃めたたうべき壁掛けの全体こそ、おまえの志であったことを忘れるな。
R.M. Rilke "Die Sonette an Orpheus"


日々、単調に生活を続けていく中で、まるでこの国土にすっかり魂を吸い取られてしまったかのように、あの予想していた孤独感にふっと襲われる。それは、決して具体的に言葉にできる感情ではなくて、もっと動物の本能のように、胸の中から嗚咽するように、吐き気にも似た形で、思いもよらぬ瞬間に、私の喉元にやってくるのだ。
もはや誰かに思いを告げて、慰められるような類のものではなく、日常に口をついて出てくる言葉を失ってしまったかのような、恐ろしい孤独感である。
死を意識しているのではない。むしろ、死が美しい安らぎのように思えるほど、この孤独感は、黒く深く、不気味なのである。止むを得ず、私はそれに立ち向かい、まるでそれこそ絹糸の一すじとして、模様全体を相手に、糸を切られない様に、波に全身をゆだねるしか手立てがない。

不思議なことに、そうしていつ私を襲うかわからぬ孤独感にしっかり向き合い、瞬間に目を背けずにしっかりと見つめ耐え忍んでいると、まるで浮き彫りになるように自分の中心というものが形どられて来るのを感じる。
生は私を見捨てたどころではなく、しっかり私という存在を手中に収めて、一すじの絹糸となるために、何がしかの意味を与えてくれようとしている。何処か特定できぬ中心から、これで良いという肯定の感情がふつふつとわいてきて、生が私を見捨てるわけは無いはずだという深い信頼感が生まれてくるから不思議なものである。

今までの失敗も、今までのおろかな行為も、今までの軽はずみも、今までの気分の行動も、一つ一つに判断や評価を与える必要は無く、私は、次々と私の目の前に現れる出来事と正面から見つめあうこと。そしてその際、意味があるのは唯一私自身の心の中に見るべきものを見る訓練をつんでいくことだけである。

それまで多くの悲しみも痛みも、絶え間なく襲ってくるに違いないであろうが、必ずや私は生き延びるであろうし、それでこそ、やっと織物の模様の一すじとなって形跡を残すことができるかもしれない。その程度のものである。

数えることも計算することもせずに、何が自分にとって幸福であるとか、何が不安であるとか考えることなく、ひたすら生に信頼感を持って生に自らをゆだねきってしまうことにより、生きるという本質が、実は野生のように荒涼としており、苦痛というのは、「肉体に対する鈍い誤解」にしか過ぎないということを発見するのかもしれない。

それは夢のなかでのこと ―― 僕の心は 悲しかった。
君は蒼白めて 不安そう。 と 君の魂は 鳴り出すのだった。

かすかに かすかに 僕の魂も鳴った。
二つの魂は 歌いあった ―― 「わたしはつらい」と。
すると僕の心の奥ふかく  安らぎが生まれ、
夢と昼とにはさまれた  銀の空に  僕はいるのだった。
  R.M. Rilke "Briefe I"

この詩を読むと、私は何をしていても、まるで身体反応のように涙が出てきてしまう。ドイツ語もわからない頃、Rilkeの詩を音読することが楽しみだった。意味を解していないのに、音読を重ねていると、必ずどこかで突然の嗚咽に襲われる。日本語訳を見ると、そこには必ずや、深い悲しみや失望や、それでも純粋に終わることの無い生と神へのしっかりとした信頼感が書かれているのだった。

まるで、ドイツ語など理解せずとも、言葉には独立した力と生命力が宿っているかのように、私の心に襲い掛かってきたのであった。
その時、初めて言葉の持つ威力に気がつき、詩作というもののひたすらに重いその質量を感じ取ったものだ。
何故なんだろうか、この詩にあるよう「悲しい」という言葉には、すべての言語にまるでこの悲しみの感情が刷り込まれているかのよう効力がある。einsam, traurig, sad, sorrow, triste, lacrimosoなど、どんな言葉にもそれに応じた魂が宿っているのではないか。そんなことを考えるほど、Rilkeの詩から発せられる生命力は大きかったのを覚えている。

つらい時、何度も何度もこの詩を音読し、何度も何度も涙を流し、読んでいるうちに、次第に心の中に、絶対に大丈夫だという力がわいてくるのを待った。

詩は、言葉の錬金術という表現に最近こだわるのは、それをこれまで以上に実感するからである。紡ぎだされる言葉には、作者の全人生が投入されており、そこに、彼の流血を見、彼の不安を感じ、それが一つの言葉の中に、さまざまにいりこんだ深い感情となって、刷り込まれている。一語の生まれるまでの彼の生きてきた過去とその悲痛な孤独を何故こうして瞬時に感じることができるのだろうか。

それは天才といってしまえばお終いであるが、私個人の肯定感情が、作品の中で生まれ、そこに私はとてもではないけれど、自らは表現することの不可能な、広大な広がりを見て、自分を埋没させ、作者の助けを借りて、私自身をそこに見つけるのである。

私自身を見つけるために結局生きているのであるが、それは死を目の前にしても、以前見つかることの無い答えでもある。
自分の生が何であったのか、それを判断するのも考えることも人生の役割ではない。
そうではなくて、その過程で、孤独を味わいつくし、深淵まで恐れることなく下って行き、自分と何年にも渡って対話することが役割なのかもしれない。
そうして、やっとこの魂を伴った言葉をたった一語生み出すことができるのかもしれない。




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