2010年4月23日金曜日

長々しい失敗の告白


しつこくも、また私自身の過去の話である。牛の咀嚼なので、致し方ない。クリスマスの後に書いた文章が出てきた。さらけ出すことをテーマとしている私である。これも載せてしまう。


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離婚 しているのに、父親と仲が良いなんておかしい。それなら離婚しなければよかったという声を時々聞く。

そうかもしれない。

け れど、当時あれ以外の選択はなかったのだ。

クリスマスは、欧州では紛れもなく家族の行事であるので、どうしても家族とか過去に思いがさかのぼってしまう。

私の前夫は、私の兄と同じ大学で同門であったため、欧州学生オケや仕事で日本に来る際には、必ず私の家に泊まっていた。
私 は大学3年生で、将来は留学すると決めていたときであった。

そんな時分からの付き合いである。
兄と彼は、魂を分かち合うような時 を共にし、兄は彼の才能を天才と呼び、

命を削って芸術をしているような奴だ。音楽をしないと死んでしまうような奴だ。そういう人間を前 に、くだらない望みや期待をかけて結婚生活に不満を言うお前がわがままで完全に間違っている。

と、私が後に結婚したあと、何度もこう私を叱咤した。

その言葉に、悔しさと絶望と孤独を感じながら、それでも納得して夏休みが終わると、ドイツへ帰ってきたものである。

あ の日々のことはほとんど覚えていない。
10年以上一緒に暮らしたのだが、ほとんど具体的なことは覚えていない。
必死であった。

人 をしのぐようなエネルギー、夜がさめても気がつかずに音楽をし続け、レッスンをし続けるそのエネルギーに感動し、付いていくのが精一杯であった。

彼 のマスタークラスに行けば、そのカリスマ性に学生達がどんどん上達していく。その様を見るのは、まさに魔法と言っても良いほどであった。
どんな犠 牲を払っても、共に生きる価値のある、すばらしい芸術家である。

ところが、日常生活は、孤独を極めた。
家にいないこともそうであ るが、子供が出来てからは、演奏旅行に同行することも出来ず、演奏活動をやめてしまった私は、彼がその生き生きと踊るような音楽への奉仕の魂を他の音楽家 と日々分かち合い、理解しあい、彼の本質を共有していることが、ほとんど恐怖のような焦燥感となって、私を苦しめた。

帰宅すればスコア を持って自室にこもるか、熟睡し続けるか、レッスンに行くだけである。
食事にも、外の景色にも、友人関係にも、何の興味もない。批判ではなくて、 天才とはこれほどのものだといいたい。それほど一つのことに精魂ささげなければ、凡人と同じである。生き様で人を感動させることは、まさに命を削るように日常とは逸脱した平面で生活しているということなのである。

音楽を刻一刻と分かち合えなくなり、日常生活の中に閉じ込められた私と彼の間に、断絶はなかったが、孤独が募っていった。
彼は、一瞬一瞬に大きなドラマを必要としている人間である。それは事が大きいということより、常 に感受性のアンテナが張り巡らされ、キャッチした情報をかみ締めてそれが不安を掻き立てれば、私に攻撃的になったり、同調を求めてきたりする。その情報が 心躍るような喜ばしいものであれば、その感動を私と分けようと、夢中になって語り続けるのである。

24時間のうち、どのようなドラマが起 こるか、その次の瞬間のことも誰も予想ができない。
このような生活は、ものすごく内容が深い。しかし私の幸は、私もそのようなアンテナ だけは立派にもっており、彼が何かをキャッチした場合は、目を見なくとも、その気配だけですぐにそれを察知できた点である。
しかし私の不幸は、 同様に鋭敏なアンテナを持っていた故に、二人の生活に安定が訪れることは決してなかったということである。

互いが、その鋭いアンテナで互いの心の動向を察知し続け、無意識のうちに常に影響しあっていた。
それだけ関係は、奥深かったのは事実である。本人達がわかるより、無意識下でのつながりは、非常に強かった。
孤独に対する感受性の強さが同様だったということもある。
その孤独とは、生きているがゆえの孤独というよう な、普遍的なレベルのもので、本人達に理解できていたわけでは決してない。


12年ほどして、三人の子供達を授かって、家庭とい うものを立派に築いてきた私達であったが、その家庭の要求する安定した日常というものが重要になればなるほど、二人の関係には問題が生じた。

し かし関係の不一致というような、何か実用的理由で説明できる類の原因はないのである。そうではなくて、すべてが二人の無意識下で起こっていたように、エ ネルギーとエゴも含んだ才能が、私と言う人間よりも何十倍も大きい彼は、彼の知らぬ間に精神的にマニプレートしている部分があったのである。

これは私に対してとは限らない。仕事でも、彼は常に人を圧倒するような才能を示し、誰しも彼と舞台に上がることを夢に見たが、彼の意向以外の結果は絶対にないのである。それで多くの開催者と決裂したこともあった。
このようなエネルギーとエゴなので、私の生活も、本当に精神的に苦しいものであった。

終いには、雨が降ってもすみません。子供が泣いてもすみませんということになった。
私の魂は縮み上がって、すっかり萎縮していたのである。
この才能に歯止めをかけているのは私であり、家族である。
この人を解放しないといけない。
この人に、子供だの家庭だのを要求する私が間違っ ている。

心の底で、そんなことを確信していた私は、まるっきり彼を理解していなかったのである。

それで、いかに私が彼を支えないか、どこから私のコンプレックスが来て、どれだけそれで私は子供達をだめにし、どれだけ人生で失敗し、どれほど問題を複雑にしているか、と散々彼に説教された。それも繰り返し何年にもわたって、発作的に怒るのである。


一度は子供を放り出して、車で高速道路に出て、どこか遠くへ行ってしまおうと思った。ふっと死んでしまおうかなと本気で考えた。このまま私がいなくなれば、子供達は新しいもっと強く、もっと明るい母親を手にし、幸福な父親と新しくやり直せるのではと本気で信じたのだ。
2時間ほど走り回って、帰って来た私はぼろきれのようだった。

何年間かは強度のパニック障害に侵され、車で外出するのが怖くなった。彼の帰宅 する飛行場に迎えに行くたびに、体中に蕁麻疹が出た。彼の帰宅前に、突然パニック障害に襲われた。

そうした中、這うようにして精神科に行った。



ご主人が原因なのは明らかだけれど、病気になるのはあなただから、あなたが自分を守らないといけない。

その言葉を聞き、セラピーを断った。
人に世 話になってたまるか。自分で自分の心ぐらい守ってやる。

何かが変わった。
閉所が私の問題だった。窓のない風呂場、夜中の真っ暗な寝室、そして特に運転中のトンネル。そこでは必ずといってよいほど、パニックに侵された。

毎回トンネルの中でパニックがくるので、毎日朝早く、みなが寝静まっている間に、トンネルを走りに出かけた。パニック障害で死ぬことはないという医師の言葉を固く信じたら怖くなかった。
パニックが襲ってくるのがわかったら、時間を数えた。 絶対に30分以上からだの防御反応であるパニック症候群が続くことはない。どんなに長くても30分と言う言葉だけに支えられた。

私が、思ったことを行ったり、自分で自分を守るようになってから、私達を強くつなげていた無意識下のシステムが壊れはじめた。

もう雨が降っても すみませんとは思わなくなった。
彼のエゴを許せなくなった。


そうして絶え間ない喧嘩のあと、別居になったのだが、その 間どれほどの孤独感が二人にあったか、どれほどの努力が私の側にも彼の側にもあったか、どれほどの子供達への愛があふれ出たか、それは計り知れない。

12 月までと決めたり、死ぬまで、もう出来ないと悟るまで、私が精神病院に入るまでやると覚悟したり、それは精神的に壮絶と言って良いほどの日々であっ た。

なので別居したときは、ホッとしたのである。
毎日毎日、彼が尋ねてきて、泣きついてきて、懇願されて戻っても、そこには私達の間にあるマニュプレートされる人間とする人間の関係が戻ってくるだけである。
私達のように、深淵でつながっていた人間が、そういう病理的な関 係でしか存在できなかったというのは、非常に残念である。または、そういう病理的な関係だからこそ、依存関係となって切っても切れなかったのかもしれな い。

とにかく、あらゆることを尽くし、あらゆるドラマを見て、暴力の寸前まで行き、病気の寸前まで行ったから別れたのであり、修業が足りないなどと言われる筋合いはない。選択の余地などなかったのである。文字通り、暴力と言う修羅を潜り抜け、命からがら出てきた。

ところが、

今、ここ何年かして思うのである。

私の唯一の失敗は、あの結婚を放棄したことであると。
もうどんな恋人が出てこようと、どんなに支えになる人がでてこようと、私は永遠に、私だけの家族 を失ったのである。

家族全員でクリスマスを行うこともなければ、休暇にいくこともない。
子供達をどんなにかわいいと思っても、それを分かち合える片割れはいないのである。

どれほどの体験を彼にさせてもらったのか、それを思えば、自分の精神病も、自分の苦しかった日 々も、自殺願望も、すべて帳消しになる。
私は彼の音楽に震え、彼に初めて音楽を生み出す姿勢を見せ付けられた。コマーシャリズムに自分を汚さず、 成功を一切求めないで音楽への絶え間ない尊敬を抱き続けて、自分自身を奉仕の手段として犠牲にする、その姿勢は誰にもまねできないからこそ、凡人とは一 線を隔てていのである。

私は、自分の価値観を彼を見ながら、隣に体験しながら形成してきた。

今思えば、礼を尽くしても足りないほどなのである。

私は彼よりも早くパートナーを見つけ、再婚した。
彼もその後、自分の学生と再婚した。

けれど、私は完全に失敗である。
彼のような人間と人格形成上最も大切な時を共にしたら、もう誰とも一緒になど住めないのだ。

別れてから2,3年は酷かった。子供達を引き渡すので会う度に、お互に涙が止まらないのである。
目を見るだけで涙がほとばしり出るのである。それでも、翻るように自分を引き裂くように、言葉も交わさずに子供を渡して帰ってくる。
家の影で、道路の影で、号泣したものである。

4,5年しても同じだった。
彼のコンサートに行ったときは、帰宅してから、なんと言う失敗を犯したのかと鬱に落ち込み、夫の顔も見れないのである。彼の音楽に触れた瞬間、私の魂は、生き血を得たかのように、踊りだす。体中が振動して、血管が駆け巡るとでも言えばよいか。震え、涙がでるという震撼であった。恐ろしい体験である。

今年に入っても同じである。子供達を交えて食事をして、ワインで乾杯しただけで、涙がほとばしるのである。
彼も、酷くなるばかりだね、と真赤な目をしている。

でも、もうあれ以上できなかったことだけは、私達にはわかりすぎるほどわかっている。

彼の新しい奥さんは、日本人で私達のベビー シッターだった学生であった。
その彼女と一緒になったと聞いたとき、ショックを受けたが、彼女の屈託のない性格を知っていたので、安堵したところ もある。
それでもその晩は、号泣した。再婚しても、一向に幸せではなかったからである。なぜかと言えば、新しい夫のことなど、これほども愛していなかったからだ。どこまでも勝手な女である。

2年ぐらい前、彼らに子供が出来ると突然直感し、2週間ぐらい落ち込んで仕方なかったことがあ る。前夫は、毎回そんなことは僕は今は望めないと言って、私を毎日のように慰めてくれた。

しかし時は過ぎ去る。
今年の夏、彼女は 妊娠した。
私の覚悟は出来ていたので、まったく平然とことを受け止めている。それどころか、彼らの幸せを真に望んでいる。

彼女に、私の出来なかったことができる、などと考えたことはない。彼女と私は違う人間で、彼女とはそんな病的な関係ではないのであろう。
ありがたいことで ある。私は彼が何の心配もなく、音楽をしていられることが一番の望みである。

それでもクリスマス、こうして一人きりで過ごすことは気楽で嬉しいのだが、書き始めてみれば、こんな長文になり、やはり私はのどから手が出るほど、家族を取り戻したいのだと勝手ながら実感するのである。
でも、勝手は通用しない。
自分の人生には、きちんと付けを払わなくてはならない。
私には、その力も意志も立派に備わっているが、幸福になれるのか、と問われれば、もう無理だと思うと考えてしまう。

子供達の成長が嬉しく楽しみで、小さな幸福はいたるところに見出すのだが、 乾ききった魂の孤独は深く、普段は一切感じることはないのだが、いざ押し殺している自分の殻を取り除けば、本当は失敗したと認め、でも他にどういう方法もなかったという絶望に涙し、これから精神的には死ぬまで一人で歩むのだと言う覚悟を決めている自分に、多少疲れを感じるのである。

以上のような経緯であるが、前夫と仲が良いというのが、故にまったく不思議ではない。自分たちの意志とは別なところで、ある意味何かが一致しているのである。
精神医学的だとか、心理学的だとか、そんな難しいことはさっぱりわからないが、目を見れば、さらには挨拶の抱擁をしただけで、互いに涙が出てくるというのは、別居後8年たっても一向にかわらないのである。

それがもう決して起こらなければ良いと願って8年たったが、それだけは変 わることない。
兄弟のような、家族のような、そんな気持ちなのである。
私はそんな立場にいないが、彼の命に何かがあったときは、礼を言うために駆けつけたいと思う。
また私が死ぬときには、他の誰でもない、彼に来てもらって、最後に礼を述べさせてもらいたいと。それだけである。

今年の締めくくりとしては、いかにも情けなく、自分でも嫌気がさす。
しかし、これが現状であり、失敗ばかりの人生を見つめ、それでも歩き続けなくて はならない自分の人生に対面するのが、やっぱり宿題ではないかと思うのである。

来年は、後悔のないように、子供達に思い切り時間を割き、 たくさんの思い出を作って、家庭らしいことをたくさんしてみようと思う。それが間違いなく、私を少しでも幸せにしてくれると信じている。

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