2017年6月30日金曜日

平穏に潜む老いへの恐怖

平穏な日々が続く中、少しほろ酔い気分になりながら、ふと聴きたいと思うのはバッハなのであった。そして聴けば胸が締め付けられる。
私には、制御しがたい情動と言うものがあったはずなのだ。そんなものは大人になるためには、邪魔以外の何物でもなかった。しかし絶えず自分のそうした情動に振り回されながら、一体何が自分の本質で、目指すところは何であって、何を失ってはならず、何を変えていかねばならないのか、そうした方向性をまったくわからないまま、壁伝いに手を当てて、真っ暗闇をまさに手探りで伝い歩きながら、何度も激しいどん底を体験して、ようやく光が見えたのが2013年頃だった。それ以来、私は少し平穏や安定というものを体験できるようになったが、情動というものに振り回されることはすっかりなくなってしまった。それが寂しいという感覚もない。ただ、焼けるように音楽を求めた日々、へたくそでも何時間も音楽を奏でなければいてもたってもいられなかった日々、できもしないのに、自分の奏でる音に涙が止まらなかった日々というのは、一体どこへ消えてしまったのかと思うのである。それが寂しい。何も感じなくなった自分が寂しい。安定と言うのはこのように平坦な世界であったのかと知ると、決して昔に戻りたいとは思わないのだが、寂しくていてもたってもいられなくなる。
これもセンチメンタルに思考しているつもりになっている若い未熟さを失っただけの話であると、理性ではわかっているのだが、やはり年老いるということは、失いつつあるものを如実に目の当たりにするということであり、ある種のやりきれなさとは切っても切り離せないということを思い知らされる。
今、目標と言えるのは、未来の職業でもキャリアでもなく、子育ての理想でもなく、死ぬまでにまだどのぐらい自分を成熟させることができるだろうかと言う葛藤である。
しかし、哲学書や詩を読んでは涙に暮れていた感受性は理性にまみれて眠ってしまった。もう決してあの新鮮な感覚ではどんな書物にも巡り合うことはできない。そう思うとさらに絶望が目の前に広がるのである。
今まで生きていて、世界はましになったかと言えば、一方でましになれば、他方でまた新たな問題がせりあがるといった具合で、一項に収まる気配はない。こうした改善の難しさを見せつけられる世の中で単に100年に満たない命を全うする時、個人というレベルで如何ほどのことができるのだろうか。個人レベルにとどまって、せめて家族を幸せに、家族の繁栄と、家族の資産を増やせば責任を果たしたと言えるのだろうか。それが大人として生きることの課題なのであろうか。と、こんなバカな思考に問わられながら、自分はいったい大人になったのはいつで、いつまで青年時代を生きていたのかという境界線があいまいなまま、未熟な意識と共に50歳を迎えてしまった。
そんな時、私の感覚がいまだに衰えておらず、今でも鳥肌が立つような生への欲望があると実感させてくれるのはバッハなのであった。バッハの和声を聴くと、深い深い底辺に潜む本質が何であるのかを訴えかけてくるような揺さぶりを受ける。
個人の情動を制御し、子孫を育て、教育を与え、自分を成熟させ、伝統を引き継ぎ、愛情を育み、博愛を自ら実践するという人としての義務を全うするために、自らに課すべき試練と、自らに与えるべき精神的肥しが何であるかを思い知らされるのである。

歳を重ねるからこそ、哲学しなければならない。哲学は未熟な青年期と老年期にこそ、自らを追い込むように読み込まなければならない。そして消費を減らし、外部からの刺激に揺さぶらることのない、自分だけの価値観を築かなければならない。自分と自己をつなぐ糸を見失ってはならない。つまりいかなる時にも、直ぐに自己と対話できるような直結感を保ていなければならない。価値観を世間ではなく自らの中心に移していかなければならない。

社会とのつながりに果てしない感謝を注ぎながら、社会への義務を全うし、そして自己との糸をより一層に強めていかなければならない。死ぬことというのは、自己との対話に他ならない。自己を十分に納得させることが許しを得るということなのである。死が訪れるまでに、自分を十分に対話をする関係を築いていかなければならない。
それには失ってしまった感性を成熟への肥しとして利用するのではなく、自分自身に対する感性として再建しなければならないのである。
もはや成長はできないが、次第に視線を自己に戻して行き、何度でも振り返り、自分なりに過去に納得するまで何度でも噛み下さなければならない。その間、謝らなければならないことも、感謝を述べなければならないことも、さらには告白しなければならないことも出てくる。それを一つ一つぶれずにこなしてゆくことで、老いだけが達成できる深みと静けさへと到達することができるのではないだろうか。

そうした意味で、バッハには老若男女問わず、自己との対話を促進してくれる素晴らしい効果がある。感情や感性はメロディーであっても、和声への愛着には、さらに深い骨髄から揺さぶるような計り知れないKraftが眠っているのである。

私はフランス組曲やイギリス組曲を一つずつ少しずつ丁寧に奏でてゆくことで最も癒される。せめてどんなにへたくそでも奏でたいという欲求が失われたことはない。物心ついたころから、ミミズ腫れができるほど毎日太ももを叩かれて練習してきたことの恩恵である。それで自己を見失わずに救われている。

本質は、老いが怖い。その一言に尽きる。親を見ていると心苦しくなる。老いとは決して戦うべきものではないが、立ち向かうべきものではあるのだ。時間に負けてはならない。人間として時間に対決してゆかねばらないと思う。これを実践するのが、この世の中で最も難しいことであると実感するのであった。