2012年5月11日金曜日

あそこへ、本当にいたのだが…

夢だった。
夢らしくない夢だった。
生々しくて、それが現実と区別がつかず、重苦しい空気で目を覚ましたが、目元に手をあてても涙は出ていなかった。

私はどこにいたのだろう。その少し前まで、どこにいたのかわからない。
けれど、常にガラスを通してその向こうの世界で起こっていることを眺めているといった感覚である。
または、あの昔のガラスのまるっこい金魚ばちの中から、水とガラスを通してゆがんだ世界を見ているような感覚でもある。

いや、私は紛れもなく、私の育った家の前にいた。
どういうわけか、私は大谷石の石塀を超えて勝手口の前にしゃがんでいた。
子供の頃、いつも隠れて遊んでいた場所である。
勝手口の扉と石塀の間には水撒き用の蛇口があり、ままごとをするなどにも便利であった。
また階段を下りると車庫へつながっており、自転車で帰宅したり、一家で帰宅しても玄関口まで必ず通る一角であった。

その周辺の大谷石にも車庫側の壁にも、20年以上が経ったころ、コケが生えてきた。水撒きや気候のせいであろう。

私はそこにしゃがんでいた。そして寄りかかっていた車庫の階段の壁にあてた手に緑色のコケが触れたのである。反対側には、大谷石の前に植え込んである杉の木に触れることができる。
あまりの現実感に、私は壁をたたいた。いつもの冷たいコンクリートの感触で、コツコツとした硬い手応えがあった。
うそでしょう?
左の手で杉の木に触れると、ざらざらとした感触が手の中に残った。
全てが現実なのだった。

信じられずにしゃがみこんでいると、母が帰宅する気配がする。石塀の向こうを、母が外出先から鼻歌交じりに歩いているのだ。

しばらくすると、トントンと玄関口への階段を上がる音がする。間もなく門が開く。私は勝手口の前から塀伝いに玄関口の前にしゃがんでいた。
母が目の前を通る。
目の前の母の足が私には見えるのである。
私はしゃがんでいるから、彼女の全体像は見えない。けれど、彼女の良く知った足が見慣れた靴を履いて目の前を歩いていた。

なぜ私は彼女の目に入らないのだろうか?
私はここにいるのよ!

その時鍵を探し出していた母が、明るい声で独り言を言う。
「あ~ら、誰が帰ってきたのかしら?誰がそこにいるの?」
そう言うと、家族を待たせたのではないかと、彼女は急ぎ足で扉を開けて家の中に入ってしまった。
ドアが目の前でばたりと閉まる。

私はしゃがんだまま、また無人となった玄関口の前の空間を見つめていた。
母には、私のことは見えなかった。
けれど、誰か家族の気配は感じ取っていたのだ。
私は、 9000キロ離れた場所にいる。今も夢を見る前と変わらずにここにいる。
けれど、私は確かに「あそこ」にいたのである。
現に、壁や木に触っていたはずである。夢の中で疑い、何度も壁をたたいたはずである。

けれど、私の身体は、やはりここにあったのだ。その証拠に、私のことを誰も見ることはできなかった。
私だけが、身体を失くした目で、あそこを見てきただけなのである。
その孤独感は、口では言い表せない。
その疎外感は、寂しいなどという言葉も当てはまらなく、どう表現していいのかわからない。

私は彼らの実態のある生活には存在しておらず、彼らの心の中にしか存在していないのである。
そして、私にとっても彼らは心の中でしか交流できず、それで十分だけれど、私がそこにいたのに、見えないので通り過ぎられてしまうことは、何かを比喩しているようで、悲しいのだった。

そこにしゃがみこんだまま、私は泣き出した。
悲しみというのもあったけれど、そこに本当にいたのだという現実感に感動していたというのもある。私は本当に帰国していたのだ。その深い驚きと、心だけならば動けるのだという確信に、震えるようにして泣いた。

けれども、その後目を覚ました私は泣いていなかった。所詮夢だったのだ。


夢の中で見た母は、今よりもずっと若かった。
ストッキングを履いて、形の良いふくらはぎを懐かしく思った。ベージュのスカートの上には黒いニットを着ており、茶色い革の大きなショッピングバッグを持っていた。
きっと私と同じぐらいの年齢だったのだ。
きっと私は10歳ぐらいだったのだ。

玄関の戸口で、縄跳びやボール遊びをして、時々大谷石の塀から身を乗り出して母が駅の方から歩いてくるのを待っていた。そうでなければ、母の車のエンジンが聞こえるのを耳を澄まして待っていた。
その玄関口では、チョークでよく落書きもした。母のハイヒールを履いて、トコトコと歩き回ったりもした。
これでも内気だった私は、友達と約束していなければ、外の通りで遊ぶことができず、家の敷地内の色々な場所でままごとをしていた。
家の前は遊び場道路といって、5時までは居住者以外車が通れなかったのにである。

ドイツのDCTPというテレビ制作会社の番組で多和田葉子のインタビューを聞いた時、彼女が自分の魂をシベリアのどこかで失ったきり、見つかっていない。というようなことを述べていたのをはっきりと覚えている。
身体的にはここにいるけれど、私の魂は、気体のように浮遊しているはず、というのである。

その言葉を聞いたとき、私自身の中に長年抱いていた気持ちとぴったりと一致し、やはりそうか、という思いを持ったのを覚えている。

身体と「魂」は独自の動きをとることがある。
それで、私が身体を失った目で、どこかに飛んでいかれるというのは現実であるとしか言いようがない。私は今まで少なくとも3回は、このような現実感を体験しているのである。

しかしどうしてもできないことは、「今」という時間の中で「そこ」へ行くことである。
それだけは、どうしてもできないけれど、彼らやあの場所に「出会う」ことは、身体がなくてもできる。それは望んで望んでかなうことではないけれど、ある日突然私はそこへ行き、彼らに出会い、その場所に触れ、大きく心を動かされて、またここに戻ってくるのであった。

不思議であるが、そのたびに心は満たされる。




2012年5月6日日曜日

その日はまだ見えない

呟きサイトを利用するようになったのは、2009年初頭であった。
交流するのがアホらしくなって、アカウントを何度か変えて、一人で密かに思いを吐き出していた。
同じような人ばかり集めて、その人々の思いを読んでいたが、最近は鼻について仕方が無い。

もっと差し迫った事情が私には幾つもあるのだと見えて来て以来、彼らの苦しそうな言葉の裏で、本当にのたうち回っている姿をあからさまに語る人は殆どいないということに気がついた。
紡ぎ出される言葉がいくら自分を責めるものであっても、そのどこかに自分の存在を強く肯定する部分が見えるような瞬間、私はその人の健康さに目眩を覚えるのである。
それ以来、あまり書かなくなった。

私は本気で垂れ流していたけれど、本気を曝け出すことほど頭の悪いことは無い。
皆はちゃんと自分の心臓は手に包んで守っているのに、私はそのまま転がしてしまっているような馬鹿さである。

私が吐いていることは、他人には重要でもなければ、役に立つわけでもない。けれど、その内容は余りにも私的なもので、それを公に投げ飛ばすのは、倫理的に苦しくなったということもある。
私は問題を抱えつつ、自分の生き方を良いとは思わなくとも、必死であるからこそ、私の家族を交えた私の生活を話題にすることに罪の意識を覚えたのだ。
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一度訪れた初夏はどこへやらといった天候である。

どんよりとした雲に包まれつつ、昨日は大掃除をして気分が少し回復した。
掃除婦を頼んだのだが、未だに断り続けている。もしや週末の掃除が、日常を愛するための行為かもしれないと思ってみる。掃除婦がいつも私の整理されていない家に侵入し、片付けてくれるとしたら、私の気分は良くなるのだろうか。
タワシを使って風呂場を磨き、モップで床を拭う運動が、私を日常に貼付けているという気もする。
つまり、家の掃除ぐらいまともにできなくなったら、精神的におしまいという指針かもしれない。

死が訪れる日が大体いつ頃なのか、そんなことは誰も知りたくないだろう。
しかし5年とか10年とか、現実的に限られた時間が見えるとしたら、どう生きるのだろうか。実際は、明日死ぬことがあってもおかしくない。それほど死に至る危険というのは世の中に潜んでいる。
もちろん人は昔のように死人を間近に見ることもなくなり、死を意識して生きることは少ない。けれど生きる以上、死は常に背後にいるのだろう。

あと五年生きられれば、あと十年生きられればという望みがかなったとしても、本当にその日を平然と迎えること等できるのだろうか。
作家の吉村昭は、娘に逝くよと言い残して、自分で管を抜いてしまった。
弟の死に苦しみ、自らも重い病を乗り越えて生きて来た彼は、死を常に意識してきた過去から、死が普通の人よりもずっと近いものとして潜在的に心の中にあったのかもしれない。

けれど、普通はやはり死は別れ以外のなにものでもなく、一人だけでこの世に残る人々や、この世の愛おしく小さな自然に別れを告げるのは難しいのだろうと思う。

美しい夕日も見れず、はかなく舞ってその姿を消してしまう桜も見れなくなる。小鳥のさえずりも聞こえなくなり、もちろん家族にも別れを告げねばならず、自分はどこに行くのか分からないまま、その日を意識し出したときから、目にする全てのもの、耳にする全ての音、家族との全ての時間を愛おしく失いがたいものとして心に刻んで行くのだろうか。

最近家族の病気が続いている。
ぽつんと一人遠くにいながら、この災難が私を襲う日も遠くはないのかもしれないと思う。しかしそんなことは普段考えて生きて行かれない。神経質に検査にばかり通うことも実際はできない。
けれど、確実に自分にも死は訪れ、それは年単位で数えられる近い将来なのではないかと、必ずそう想像したに違いない家族が、また一人増えた。

命の限りがいつであるか、そればかりはどんなことをしても制御できない。
けれど、その家族の者が今まで歩み、築いて来た道を振り返ると、病気の状況や今後の見通しなどといった諸々の状況など全て忘れ去り、ただひたすら、死なせてはいけない、死なせるわけにはいかないと、その言葉が脳裏にこだまするのである。
何もできることもなく、何も手を貸すこともできない。私にあるのは、ただの思いと願いだけである。

最後のひと呼吸まで、どんなことがあっても命の「ために」闘わなくてはいけない。それは家族も本人も同じである。



2012年5月4日金曜日

揺れるカーテンの向こう

今週、新しいソフトウェアを使った翻訳案件が入り、翻訳者を探すのにひときわ苦労した。おまけにゴールデンウィークとやらで、日本は殆ど機能せず、日本在住の訳者の方々とは、ほぼ連絡を取れなかった。

大きなプロジェクトは2つあったのだが、 その1つ目の訳者が見つかった時は、本当に礼を述べたいほどだった。

彼女のことは、翻訳者の特別ポータルで見つけたのだが、プロフィール写真がなかなか良いのだ。
きっと私よりも若干年上なのかもしれないけれど、翻訳者や通訳者に多いキリキリカリカリしたイメージはゼロで、優しく信頼のおけそうな顔写真である。
背景はもちろん殆ど見えないのだが、それでもその写真がおそらく彼女の書斎で撮られたものであることには間違えない。

白い半透明のカーテンを通して、美しいペルシャ絨毯の敷かれた部屋にほんのりと光が差し込んでいる。壁に備え付けられた重厚な本棚にはたくさんの辞書などが収められ、その向こうには葉の大きな観葉植物が置かれていた。それはいかにも市民的な、いや小市民的とさえ言えるものだった。

この小さな写真を見たのは一瞬である。仕事中なので、別にじっくり見るわけもない。
しかし今朝、もう一度彼女の情報を確かめにプロフィールを閲覧し、もう一度写真を目にした。
一瞬なのであるが、私の心の中に、安定した家庭、安定した環境、安定した心情という言葉が、その写真の背景に思い浮かび、彼女はおそらく驚くほど規則的に生活し、忙しさを理由にもせず、毎日夫(彼女の苗字は日本名ではない)や家族のために、色とりどりの食事を用意しているだろうと想像をめぐらせた。小市民的という批判に満ちた私の言葉の中には、まるで自分の奥深くに隠しがたい小市民の幸せという過去を持っているかのように、このような憧れがあったのである。

その途端に、私の一生工事現場のような人生に疲労を感じ、自分のいかにも掃除の行き届いていない部屋を見て失望し、自分の書斎のカオス状態に恥じ入ってしまった。

いつまで経っても、仮の住まいに、仮の人生のようである。
彼女のようなどっしりとした安定感は、私の写真にはあろうはずもない。



彼女の経歴も輝かしく、東京で1、2を争う一流の女子大の英文科を出て、アメリカの大学に留学し、専門的翻訳学科でマスターを取得し、立派な職歴の後に、どこかで知り合ったご主人の故郷に移り住んで、今まで翻訳家として活躍したことがうかがえる。

私のように、そこらへんに転がっていた仕事をやりながら、本当に学んだことや本当に取得した卒業証書とは、どれも似つかぬ仕事についていると言う支離滅裂振りではない。

激しく心細さを覚え、夏前には辞めようかなと、いよいよ本格的に思い直している仕事に、今日も重い心持で出かけていくのである。

柔らかな風にふわりとゆれる美しい白いカーテンのある部屋で、整然とした仕事場を前に、仕事をしつつ、状況はまったく安定して揺るぎのない達成感がある、というシナリオに目を細めて憧れを抱くが、今ある私の現実こそ、私の求めていたものなのである。ないものねだりは、逃避でしかない。
今日も、明日も、自分の尻をたたきながら、何とかやっていきます。