2012年5月4日金曜日

揺れるカーテンの向こう

今週、新しいソフトウェアを使った翻訳案件が入り、翻訳者を探すのにひときわ苦労した。おまけにゴールデンウィークとやらで、日本は殆ど機能せず、日本在住の訳者の方々とは、ほぼ連絡を取れなかった。

大きなプロジェクトは2つあったのだが、 その1つ目の訳者が見つかった時は、本当に礼を述べたいほどだった。

彼女のことは、翻訳者の特別ポータルで見つけたのだが、プロフィール写真がなかなか良いのだ。
きっと私よりも若干年上なのかもしれないけれど、翻訳者や通訳者に多いキリキリカリカリしたイメージはゼロで、優しく信頼のおけそうな顔写真である。
背景はもちろん殆ど見えないのだが、それでもその写真がおそらく彼女の書斎で撮られたものであることには間違えない。

白い半透明のカーテンを通して、美しいペルシャ絨毯の敷かれた部屋にほんのりと光が差し込んでいる。壁に備え付けられた重厚な本棚にはたくさんの辞書などが収められ、その向こうには葉の大きな観葉植物が置かれていた。それはいかにも市民的な、いや小市民的とさえ言えるものだった。

この小さな写真を見たのは一瞬である。仕事中なので、別にじっくり見るわけもない。
しかし今朝、もう一度彼女の情報を確かめにプロフィールを閲覧し、もう一度写真を目にした。
一瞬なのであるが、私の心の中に、安定した家庭、安定した環境、安定した心情という言葉が、その写真の背景に思い浮かび、彼女はおそらく驚くほど規則的に生活し、忙しさを理由にもせず、毎日夫(彼女の苗字は日本名ではない)や家族のために、色とりどりの食事を用意しているだろうと想像をめぐらせた。小市民的という批判に満ちた私の言葉の中には、まるで自分の奥深くに隠しがたい小市民の幸せという過去を持っているかのように、このような憧れがあったのである。

その途端に、私の一生工事現場のような人生に疲労を感じ、自分のいかにも掃除の行き届いていない部屋を見て失望し、自分の書斎のカオス状態に恥じ入ってしまった。

いつまで経っても、仮の住まいに、仮の人生のようである。
彼女のようなどっしりとした安定感は、私の写真にはあろうはずもない。



彼女の経歴も輝かしく、東京で1、2を争う一流の女子大の英文科を出て、アメリカの大学に留学し、専門的翻訳学科でマスターを取得し、立派な職歴の後に、どこかで知り合ったご主人の故郷に移り住んで、今まで翻訳家として活躍したことがうかがえる。

私のように、そこらへんに転がっていた仕事をやりながら、本当に学んだことや本当に取得した卒業証書とは、どれも似つかぬ仕事についていると言う支離滅裂振りではない。

激しく心細さを覚え、夏前には辞めようかなと、いよいよ本格的に思い直している仕事に、今日も重い心持で出かけていくのである。

柔らかな風にふわりとゆれる美しい白いカーテンのある部屋で、整然とした仕事場を前に、仕事をしつつ、状況はまったく安定して揺るぎのない達成感がある、というシナリオに目を細めて憧れを抱くが、今ある私の現実こそ、私の求めていたものなのである。ないものねだりは、逃避でしかない。
今日も、明日も、自分の尻をたたきながら、何とかやっていきます。


0 件のコメント:

コメントを投稿