2011年6月6日月曜日

連休明け症候群

4日間の連休を終えて、再び仕事を始める。空気は先週とは打って変わってしまった。
真夏のような気温と、午後に突然やってくる激しい夕立。そして夕立が去った後の、さわやかな夜の始まり。明るい戸外に飛び出して、ビールや白ワインをあおる人々。夜には見えなかった子供達の姿も、あちこちに見られるようになった。そして当然、子供達があれば、そのに見える家族の面々。

先週は、春であったが、今週はもう夏なのだ。そう言えばもう6月なのだ。

窓を全開にして車を走らせる。ハンドル捌きを楽しみながら、すべりの良さを実感して、車内に巻き込む風を感じる。そうすると、心がだんだん浮いてくるから不思議だ。

小さな幸せ、日常の彩を感じて、満足感を得ても、そこには決して姿を消すことのない孤独が常に寄り添っている。

窓から顔を出して、一気に駐車したときに、感じの良い父親と男と子が、「お~ぅ」と声を上げて、私の躁病的ハンドル捌きを眺めていた。
仕事帰りの開放感もあり、にっこりと微笑む。そして微笑みあう。
彼らの夜を思い、彼らの家庭を思う。
勢い良く開けた家の扉の中は、しかし静まり返っている。子供達が留守をしている私の今晩の生活や家庭は、ひっそりと姿を消してしまった。

キッチンに入り、ビールを一杯飲む。
ラジオをつける。いつもの番組をいつものDJが巧みなトークで放送している。
安心感が少し舞い戻るのだが、自分ひとりで食べる夕食のなんと味気ないことだろう。

文句ばかり言うけど、子供達に食事を作ることが、面倒だという意識の裏で、どれだけの支えになっているのか気が付く。

欠けているものはない。
何かを欲してもいない。
何かを期待する人すらいない気楽を知っているし、
淋しいという言葉はとうに辞書から消し去った。

けれど、風に吹かれて車を飛ばす私からも、仕事帰りに同僚を見つけて、笑顔で挨拶する私からも、末っ子を迎えに行って、連れ帰るときにスキップをする私からも、花粉が飛び散るようなエネルギーが湧き出ているのだろう。
そういう季節がやってきたのだ。

そしてこぼれる花粉が、ただただ私の周囲に落ちては吹き飛ばされるばかりで、何の実にもなっていない、そういう思いがあって、それが孤独感なのかもしれないと気が付き、少し疲労を感じている。

誰と分かち合うことが出来なくても、誰かの実になることが出来なくても、人間はこうしていつも季節によって、花粉や電磁波を放っているのだろう。その姿を心に描いてみたら、突然涙が沸いてくる。
なんとも、気の毒な姿だろうか。

それでも私は何も欲せずに、何も期待せずに、何も欠けていないと断言して前進するしか、選択肢がない。好きで強いのではないのだ。そう生きるしか他に道がないのだ。

そして分かち合えなかった、または実になることのできなかった有り余ったエネルギーは、夜の不安や、突然の涙や、思いがけない怒りとなって、消化されていく。

それこそ、本当に惨めに映るものだと実感している。

しかし、誰も気が付いていない。
ありがたいことに。

1 件のコメント:

  1. こんにちは。お久しぶりです。いつも拝読していますが、どう書いていいのか悩んでいるうちに、いつの間にか次の日記が更新されていて。(まあ、私の薄っぺらいコメントなどどうでもいいことなのですが)
     私個人のことになりますが、子供達と自分の生活というのは、そこだけは1つの塊みたいに思っていたのに、いつの間にかすれ違ってしまって、孤独な日常になっています。私自身がもう子供と口をききません。意地というより落胆の気持ちが強いのです。私の能力とか努力の足りなさのせいなのでしょうか?惨めな生活とは多少の貧乏などではなく、どのように生きたらいいのかわからない迷いと不安と寂しさにあるように感じています。何の能力もない無能な中年の私などは仕事も見つからず面接も落ちてばかりですが打ち込めるものがないというのも辛く惨めな気持ちです。心のそこから話し合える相手もいないというのも寂しいですね。人を信用していないくせに誰かに頼りたいというのも矛盾していますけれど。誰かとわかり合いたいのでしょうね、私は。自分のことばかりでごめんなさい。
     

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