2011年9月11日日曜日

故郷

やっと書きたい、何かを書かねば—何の具体的な内容がある訳でもないが、漠然とそういう気持ちが込み上げて来た。

麻痺していたと思われた感覚は、まだ生きている。

日本へ帰った。
楽しかった。
そして悲しかった。
ドイツへ帰って来た。
ホッとした。
そして何かを忘れて来たかのように、
未だに日本を引きずっている。

それは、多分今回の帰国がとても普通の帰国とは言えない、そういう感覚が自分の中にあったからなのだろうと思う。

あの日、私は前日まで仕事を抱えており、夜は息子の学校のオケの演奏会があって、忙しさに疲労を感じるまでもなく、トランクに多くの不要なものを詰め込み、多くの必要な物を自宅に置いたまま飛行機上に急いだ。

嬉しいのかと自分に聞けば、嬉しいとはっきり答えられるような気分ではなかった。
帰国したくない、そういう気持ちさえ強く感じていた。
それは、いつかは帰国すると、去年心に強く誓った日本と、滞在後にもう一度別れるのが辛かったからである。
しかし、何でも回避するわけにはいかない。
生きている間、傷つくと知っていても、やはりそれより重要なことというのがあるのだ。

飛行機に乗って、食事前にトマトジュースを頼んだ。
食事が来ても、ワインを頼む気もしない。
心は成田に飛んでおり、家族のもとにすでに到着しているのに、気分は一向に楽しくない。ある種の不安がつきまとっている。
私は食事を丸ごと残し、映画も見ずに、本を読んでは休み、また読んではウトウトとしていた。

日本のパスポートが切れて何年間も経ってしまった子供達は、外国人として入国する。
成田の入国審査で、外人の方に並んでいたら、中年のおじさんがやって来て、「お母さん、何事も経験だから、子供達に入国審査のカードを書かせて、お母さんは日本人として入国してください」と言われる。
その、少し馴れ馴れしい感じ、私より小さい背丈、そして熱心に子供達に日本語でカードを書かせている姿、そういったものに、私は大きく心を動かされて「故郷」というものを熱く実感した。
私は日本人として入国、そして子供達は外国人でありながら、日本語でおじさんから親切な案内を受けている。

成田に着いた途端に、私はリラックスしているのを実感した。もう肩肘張らなくても良いのだ。


のどを乾かした子供達に、いつも通りフレッシュジュースを買い与えて、私もキウイのジュースをすすりながらリムジンバスのチケットを買い、自動ドアの外に出る。

乳白色の空の下に、見慣れた成田の風景と、肌が知っているあの湿った生暖かい空気を感じた。バスの時間まであと一時間もある。
そうして私たちは、誰も座っていないベンチに腰掛けた。

いつもなら、この辺で少しずつ、帰国の時間が涌き、心が踊ってくるものだが、今回はそうではなかった。
ジュースをすすりながら、バスの案内をする若い従業員達を観察し、次々とドアから吹き出してくる、旅行帰りの到着客の姿を見ていたら、足下が震えるほど悲しくなって来た。

この国土で4ヶ月前、あの信じがたい震災が起き、大地が揺れ、ここから地続きのあの三陸で、多くの人々が一瞬にして、多くの想像を絶する「もの」を失い、何百キロにわたって一斉に悲しみに包まれ、何トンにも及ぶ涙が流された。そう思っただけで、ジュースを飲みながら、その目が滲んで来たのだった。

私は、実に遠くからあの光景を見ているだけだったが、その時まで、自分の日常に食い込むほど傷ついていたは知らなかったのである。
実感のしようがなかった。

あの朝、私はいつものごとく、6時半頃眠い目をこすりながら、手元のiPhoneを取って、グーグルニュースを見た。その時は何の変化もなかったのだ。
子供達が学校へ出て行ったのが8時前で、その後PCのスイッチを入れ、本格的に新聞閲覧を開始した。すると、東北地方で大地震という記事が目に入り、それからすぐにUStreamに移行して、NHKで一部始終を目にしたのである。あの緊急地震速報の音と、あのアナウンサーのうわずった声とともに。

仕事に行った後も、心ここにあらずで何も手につかない。
それから毎日毎日、恐るべき量の映像と情報を吸収し、自分の子供達との日常を維持するのが精一杯だった。
誰とも話す気も、どこにも何かを書く気も、外に出る気もなくなった。

しばらくして、息子が音楽コンクールに出る準備で忙しくなり、会場まで泊まりがけで遠出したり、仕事が重なったり、夏休み前の生徒評価や発表会に、分刻みの予定をこなす生活を強いられた。
気がついたら、左半身が固くなり、鍋を持つこともできない、タイプすることも、ピアノを弾くこともできなくなり、挙げ句の果てに座っていることもままならなくなり、医者に駆け込んだ。

あの痛みは尋常ではなかった。
生徒の親と話していても、同僚と話していても、あまりの痛みで言葉を止め、うめき、結局人の話もまったく集中できくなってしまった。
誰とも口をきかない、誰にも私のことを語らない、話しかけさせない、それにはうってつけの症状だったのである。

診断は、頸肩腕症候群、頸椎ヘルニアの疑いということで帰国の運びとなり、詳しいことは分からずじまいだった。撮ったレントゲンも私には解読できない。

今思えば、あれは仕事のストレス、子供達の予定のストレスだけだったのではないと思う。
あの震災の後、確実に私の心の中で何かが壊れ、何かが泣いたままになっていたのだ。それはドイツでの心ない、傲慢で、批判精神に長け、ヒステリーを起こした、ものによっては無礼とも言える報道を強制的に目にしてしまったことにも、一因があるのかもしれない。
そして離婚届を出した収入のない元夫が、ここぞとばかりに、こともあろうに私の愛読新聞に次々と、20年以上日本に住んだことのない私から聞き集めた恥ずかしくなるような稚拙な知識まで盛り込んで、即席日本評論家になりすまし、幾つもの記事を投稿したことにも関係があるのかもしれない。そして、その記事はすべて、血も涙もない西洋至上主義に基づいた、日本人とその危機に面した政治批判に始終していたのだ。




日本に帰国して間もなく、高額の針治療をベルリンで受けたにもかかわらず、なかなか引かなかった痛みが減った。それは私の心配していた、私の心の中の唯一の関心ごとだった故郷の土を自分で踏み、人々に触れ、自分のこの目で確かめたことが救ったのではないだろうか。つまり心はまるで気体のように、何千マイルも離れた生まれ故郷に飛んだまま、ここには魂を失った身体しかいなかったのである。だから身体はすぐに異常を来した。

書きたいことは色々ある。
日本の心の問題、感情の問題、そして当地の議論に耐える秩序と論理そして裏返しの非情と傲慢。

しかし、今日はここで一区切りつけたい。
なぜなら、震災から6ヶ月経った今、私自身のあの謎の身体的痛みが、どこに発して、何故日本で消滅したのか、それを思いもよらぬ震災に関係づけ、それほど、遠方にいても私の心が傷ついていたのだと、それが分かっただけで、良いのだと思う。
身体がどこにあっても、故郷は否定できない。
猿真似で西洋人になり、その文化を肌の下まで吸収しても、心というのはその所属を変えられないらしい。
それは私だけの存在と生ではなく、私以前の何かと今でもずっと続き、それが私の子供達にも伝わっている何かなのだと感じざるを得ない。

震災の話や写真を見ると、今でも呼吸が速くなり、急ぎ足で、帰らねば、といういても立ってもいられない気持ちになる。しかし、私はそのとき、言いようのない暖かい気持ちに包まれるのだ。
私には、属する場所と、帰ってゆけば、誰にも何も言われずにお帰りなさいと言ってもらえる場所がある。
お帰りなさい、今その言葉を聞いた途端に泣き出してしまいそうだが、遠くに住んでいるからこそ、私はこれだけの思いを故郷というものにかけられるのだろうと思う。
田舎が欲しい、小学生の頃から常にそう思っていた私の、田舎への憧れは終わることがなかった。帰省できる家も土地もなかった私には、故郷ということばの響きはまさに憧れであった。
そして、横浜生まれ、東京育ちの私にも、こうして今いずれ帰ると心に決めている故郷がある。
それを糧に毎日を生きている。



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