2004年12月18日土曜日

Wilhelm Furtwängler

今晩、偶然フルトヴェングラー(1886-1954)と言う大指揮者とナチの関係についての、短いドキュメンタリーを見た。唸ってしまった・・・。

フルトヴェングラーと言えば、私が大学に入って間もなくの頃、ブラームスの交響曲を吹かなくてはならなくて、初めて自分の小遣いで買った四枚入りのCD(当時の学生にはとても高価だった。)が、この偉大なる指揮者のものだった。それ以前、家には家中にレコードがあって、全く買う必要が無かったのだが、いよいよ大学に入り、私も自分の好み、スタイルと言うものを伸ばしてゆきたくなったので、自分で選んだのだ。録音が古くて、CDばかり聴き慣れた耳には、どうも馴染まなかったが、それがどうだろう、聴くほどに引き込まれていって、とうとう全交響曲を通して聴いてしまった。もちろんヘッドフォンで。一つ一つの音の変化も聞き逃すまいと。そしてポロポロ泣いた。あれで、意識が全然変わってしまった。ブラームスの交響曲を誰に教わったかってそれはフルトヴェングラーだった。子供の頃から聴き慣れていたが、複雑で、どでかくて取り付きにくかった交響曲と言うものの醍醐味は、このCDで目覚めたと言っても過言じゃない。それからベートーベンやワーグナーなど色々聞いた。ブラームスに関しては、彼に勝る指揮者は今でもないと思っている。あの人の持っている、苦悩と孤独、不安が、この作曲家の作品と、深い平面で重なり合っていたような気がするのだが。

自分では、アメリカで指揮をしていたこともあったのに、ドイツにやはり戻ってきて、三十年代には、この先のドイツ文化が心配だと、やはりドイツに残り続けた。その後、この偉大なる指揮者にヒトラーが目をつけて、ベルリンフィルの指揮者となり、あの第三帝国(ヒットラーの国家)の、音楽総督となるわけだ。しかし、有名な話であるように、彼は意図してそうなったわけではなく、最初は自分が、「ドイツの音楽、ドイツ人の魂の音楽」という言葉を特にベートーベン、ワーグナーに対して使うのが、政治家にはどのように捉えられるかと言うことを全然意識できなかったと見られる。

これらの作曲家には、ものすごい荘厳さがある。大きな流れ、大きなメロディー、大きな構成、そう言ったたくさんの要素が組み重なって、まさにしびれるような、取り付かれてしまうような荘厳さが、聴く者を虜にする。ヒットラーにとっては、ある意味、芸術的美学と言うものは二の次で、帝国に相応しい荘厳、高貴、崇高な何かを自分と、更に自分の国家に結びつけることが第一の目的だったわけだ。ゲッペルスと、ヒットラーは、意識的に計画して、これらの音楽を選び、この指揮者を選んだ。何故フルトヴェングラーなのかと言えば、この指揮者の目的は、これらの壮大なる音楽をその極限を超えるほどに表現しようと言うものだったからだ。この芸術家は、ドイツで演奏するだけでなく、機会さえあれば、アメリカでも指揮をしたわけで、本当に彼の頭の中には音楽を実現すること以外には無かった。しかしヒトラーに取っては、まさにうってつけなのであった。

第三帝国は、独裁主義国家であるから、人々が教会に行くのを基本的に好まない。宗教と言うのは、独裁政治をむしろ阻止するものだった。そこで、宗教となったのが、音楽だったと言うことらしい。第九を聴けば、ヒトラーの演説を思い出し、第三帝国の壮大さにしびれ、このような音楽を生み出した国、ドイツ帝国国民として、その魂が自分にも、宿っていることに大変な誇りを感じるのだった。ベートーヴェンの音楽が宗教とは、すごい。ベートーヴェンのエロイカも、フルトヴェングラーが指揮をすると、まるで国歌のように聞こえてしまうから恐ろしい。

天才という定義の範囲では、どこかに政治的指導者がいて、最も高いところには神がいると言えよう。その間に存在しているのが、芸術的な天才だと、番組中のある著者が言ったのが非常に印象的であった。神の存在をメディアとして、人々に伝えるのが、芸術的天才なのだということか。確かに政治家には、芸術ができるほどの、効果を与えることはできないかもしれない。ヒットラーの演説の背後には、常に、ワーグナーがあり、第九があったから、人々は、よりしびれたのではないか。すべてはお膳立てで、それを天才的にやってのけたのがヒットラーだったとも言える。

1942年、ヒットラーの誕生日の前夜である四月十九日、誕生日コンサートとしてベートーベンの第九が、フルトヴェングラーの指揮で演奏された。ヨアヒム・カイザーと言う、すこぶる有名な音楽評論家がいるんだが、彼が、身体を乗り出し熱い声で、当時のフルトヴェングラーの演奏に関して語り出した。

「一楽章は、色々と苦しい場面を経て、最後にRepriseが来る。これはDurで、フォルティッシモであり、合唱が入り、つまり本来は勝利な訳です。ところが、これをあの指揮者は、めちゃくちゃに振る訳だ。めちゃくちゃだから勝利だか、一国の崩壊だかなんだかわからない。カオスとはこれにあった表現だね。」

別のBrinkmannと言う音楽学者は、「あのRepriseは、まさに勝利の象徴なんだが、勝利を表現しようとして振ったものから、全く別のものが生まれ出すと言うことが起こった。この大合唱の裏には不安があり、恐れがあり、崩壊の影が聞こえる。聴衆の心か、彼の、または演奏家の心か、そう言ったものが一つになって会場から生まれ出たものは、勝利ではなかった。」

私は鳥肌が立ちました。1942年、8月からだったと思うんですけど、ドイツ軍はスターリングラードに行くんです。彼らは年内に決着が付けられず、ロシア軍に抱懐されて包囲され、皆雪の極寒の中で、凍死してしまった。これが、ヒットラーの第三帝国の大きなターニングポイントだった訳です。ここから、本当に崩壊が始まった。それをまるで予想していたかの様な、解釈と言うこともできた、このフルトヴェングラーの第九だった訳です。

私が思うに、彼の指揮だったから、そこまでの表現となったのではないか。他の人間ではそういうことは起こらなかったのではないか。彼の指揮は、観客を引き込み、オケのメンバーを引きずりこんで、そこに共存しているすべての人間を、音楽と言う大波と共に、何かを越えた異次元へ導いて行くようなすごさがある。なんか、言っていることがうそ臭いけど、本当なんです。音楽って、何かすべての周波数がぴったり合ったときに、こういうことが起こりうる。フルトヴェングラーには、何か彼自身を超えてしまうような、演奏があった。これが、神のいる高みの本当に近くにいる、天才芸術家なのではないでしょうか。当時のオケのメンバーも、何人か証言していたが、彼のプローべや、仕事振りの話になると、その真似をしながら、涙ぐむんです。それは、彼が良い人だとか、偉大だとかそういうことじゃない。人が偉大なぐらいじゃあ泣かない。じゃあ何故泣くのか。

それは彼が「MUSICUS」以外の何者でもないからなんです。何と言えばいいか・・・。彼が、彼自身が、「音楽」以外の何者でもない。私欲も虚栄もなく、ひたすら音楽をやりたい、自分が一番愛した音楽をやらせてくれるのなら、何でもやろうではないか、そういうことだろう。それが私達の心を打つ。素晴らしく有名な音楽家の、ヴィルテュオーゾ丸出しの演奏を聴いて泣くこともあるかもしれない。素晴らしい演奏家の、完璧な演奏に、涙を流すこともあるだろう。でも、そうじゃないのだ、本当は。それと、これとは別の次元なんです。感嘆で泣くのではなくて、凡人には絶対に真似のできない、本物の天才たちの純潔さが、私たちを泣かせる。彼らは、変な言い方をすれば救いようがないほど純粋なのだ。フルトヴェングラーも、政治的にはナイーヴもいいところだった。ヒットラーにすれば、こういう人間を取り込むのはいとも簡単だったのだ。本当の天才は自分を必ず傷つけてしまう。望んでいなくても、必ず、自分の命を削るような生き方をする。何故かと言えば、彼らが、その芸術を前にして、全く盲目であるほど純潔だからなのだ。そういうものを目の前にしたとき、それに対する感受性のある人は皆感動を覚えて涙を流す。自分に恥じ入るからであろう。凡人には、そんな純粋な魂は持つことは不可能。天才が、神に近いと言われる所以は、ここにあるのではないか。

フルトヴェングラーは、その後、ナチに属していたとして裁判にもかけられます。釈放されるのですが、そこらあたりから、彼はもう死んだも同然だったのではないか、そう、元ベルリンフィルにいた音楽家は語っていました。
死の直前に、彼のところにフルトヴェングラーから電話が入った。「もう、あの音が、何にも聞こえなくなってしまったんだよ。もうあの音が聞こえない。どうしたら良いものか・・。」音楽家は、「アメリカに行けば、良い治療があるから」と慰めたけど、アメリカになんか行きたくないと答えたそうです。その後、ミュンヘンかどこかから、バーデンバーデンに行く汽車の中で、窓を全開にして、ワイシャツを脱ぎ、胸を汽車の喚起口に当てたと言うんですね。それで、肺炎になってハイデルベルグの(バーデンバーデンと言う説もありますが)病院で亡くなった。かれは、「あれは意識的に仕組まれた死と言ってもいいものなんです。」と信じていた。

MUSICUSであったために、歴史の犠牲になり、しかし同時に音楽的最高の経験もすることができた。音楽が政治とは切り離して考えることができると信じきっていた、世にも非政治的な音楽家だったんです。その間違いに気が付いた戦後、彼はまるで抜け殻の様になってしまった。非常に悲しい話です。天才の話はいつも悲しい。

私は、ここで趣向教育をするつもりも権利もないからあんまり言えないんですけど、この頃の音楽産業は、こういう本物と言うものが出にくい世界になっています。スターソリストや指揮者はたくさんいますけど、うそ臭いのもうようよいるから、耳が育たないと言うこともあるんじゃないか。私は、お前見たいのがクラシックの聴衆だから、クラシックは閉鎖的でだめだと言われるのがおちなんですけど、言いたいから言わせてください。世の中には、本当にたくさんのすっごい音楽家がいる。皆それぞれに魅力的ですね。でも、その魂の純潔さに平伏して、自らを恥入って泣くというのは何人ぐらいいるか。そういう言う人はあんまり有名じゃなかったりするから、目に付きにくいんです。私は、古楽の世界に何人かそういう人を知っています。スタンダードなクラシックの世界にも何人かいますが、そういう人たちは、スタイルとか、好みとか言うことを全部超えてしまうんです。すごいテクニックじゃなくても、異様に感激してしまうことがある。まさに心を打たれる。

ああ、音楽っていい。そして、寂しい。この痛いほどの寂しさが、止められない。

そういいながら、夫は隣でもう三時間ほど、なんだかわけの分からん経済学の本のゴーストライターになっただかで、執筆している。

私は、この頃の平行線生活を思い出しながら、非常に寂しさを感じる。かまってもらいたいんじゃない。そうではなくて、私がここまで心を動かされているのに、そういう感覚が、全く彼には解せないのである。私は、そういう物質的なマテリアルと、何時間も、若しくは人生ずっと関わっていられる、その情熱が不可解である。やっぱり音楽家じゃなきゃだめなのか。それじゃあ、障害者だろうと、他の面で色々と共通しているので一緒になったが、私の一番一番大事なものが、絶対に分かってもらえない寂しさ。この頃は、そこだけは分かりたくないという感じもしてくる。人が自分では感動できないものを見て感動しているのを見ると、一般的にはしらけるでしょう。寂しいですね。

仕方ないから、寝ます。

2004年6月21日月曜日

La Fida Ninfa

昨日は、一日中腐っていたけど、午後はシャワーを浴びてすっきりしてから、娘と二人で、もと夫のオペラへ行ってきた。
今ポツダムは大きな音楽祭をサンスーシで開いているんだけど、そのお城の劇場で彼はオペラを四日やる。その三回目だったんです。

ヴィヴァルディのまだ昨今では演奏されたことのないオペラ、La Fida Ninfaでした。永遠の忠誠を誓い合うように生まれてきた二人が、海賊によって引き裂かれて、十七年経った後に再会するのだけど、二人は自分たちが十七年間思い続けてきた相手だとは気が付かない。それぞれ色々な誘惑にあうのだけれど、愛の神は、この二人だけは他のバカな男女のようにではなく、永遠の忠誠の誓いをまっとうできるはずだと、怒りを感じながらも信じているわけです。そして、二人は、無事に自分たちの心に描いてきた愛を裏切ることなく、最後には結ばれるというおめでたい話だけど、この古風なテーマが、現代には妙に新鮮に感じられた。
結局は、そこじゃないですか、簡単なようでなかなかできないことって。

それにしても、元夫はオケには全員バロックの弓とガット弦を付けさせる徹底の仕方。しかしバロックオケではない。ティンパニーも、当時の小さい革張りのもの。風や波の音も、原始的な小道具でティンパニ奏者がやる。トランペットもホルンも、ナチュラルです。劇場は、こじんまりした、本物のバロック劇場で、非常に乾いた響きで、エコーは殆どなし。そういうところでは、まあどんな音の変化も、雑音もすべて聞こえるんです。元旦那が、始まる前に友人に、「まあ、何でも聴こえちゃうというところが、アマチュア的な響きを出して、まるで、当時のような音になるんだよね。」と説明していた。これは、当時の演奏家の技術がアマ的と思われるととんだ誤解なんですけど、そうじゃなくて当時はそうかしこまって物ではなかった。誰が間違えたとか、音程が完璧じゃないとかそういう価値観ではなかったんです。
昨日もものすごく舞台に観客席が近かったんだけども、観客と演奏家は、もう本当に親密な関係だった。生きている音楽をまさに目の前で聴くことが出来たんです。そして、楽器は、今のものより、はるかに操るのが難しい古楽器だった。音程とか、テクニックというのを完璧に操るのは、楽器の性能自体の問題で、殆ど不可能だったわけす。その代わり、今の演奏家より、即興の能力とか即反応の能力とかが、はるかに上だったわけで、そういうところでまさに生きた音楽を聞かせてくれたわけです。今日も昨日も同じように完璧という、ベルリンフィルのようなものはなかった。今日も昨日も、違う意味でよいわけす。それを旦那はあえて、ディレッタンティスム、アマチュア的と呼んで好んでいるんです。

それにしても、これは、彼が自分も、当時のオリジナル楽器を使うんだといって、せっせと練習し始めたころ、かなり今の楽器の感覚のつもりで、音程を完璧に目指そうとして、すったもんだしていた時に、私が、もうそういうことじゃないんだから、音程の不安定さが、妙な嗜好の良さをかもし出しているわけで、その方がずっと当時の現実味があるから、ある程度のディレッタントさというのは、むしろ必要なんじゃないの?といったら、何日か悩んでいたんだけど、そうだ、そうだよなあと、ものすごく納得したようにしばらくしてから、完璧さにこだわるのを止めた。それが思い出されて、何だか自分たちの歴史まで噛みしめてしまった。
しかしこれは、あくまでも古楽器のことですから。現代の楽器を扱っている方は、まず完璧さがあっての音楽性ですから。今の楽器の性能では、完璧もまんざら無理ではありません。市場のテクニックも、どんどん上がる一方です。それが言いか悪いかは別として、最初から、完璧じゃなくて良いんだと思うのは間違いですので。

そこはまた難しいところで、古楽器は、今だからこそいろいろと機会がありますが、昔は古楽器が出来るというだけで仕事が来るような感じもあった。で、古楽器界は非常にアマチュアな世界と思われているんです。これは、本当に優れた古楽器演奏家のアマチュア的嗜好とアマチュア古楽器演奏家とは区別されるべきものです。それをどう聞き分けるかといえば、一応本物を聴いている人には、すぐに分かるでしょう。だからCDを聴く時も売れ筋や、有名度で買うのではなく、本物を聴くと言うのは大事です。じゃあ、どうやって本物と分かるのかといったら、これはひたすら、聴いて聴いて勉強するしかない。どれが小説という領域を超えて、文学といえるのだなんて言ったって、古典から新しいものまで相当読み込んで、自分の嗜好というのが漠然と分かってきて、有名といわれるものも、売れ筋のものも一応読んできたと言う前提があれば、おのずと読み分けられるんじゃないでしょうか。

で、オペラは、大成功でした。非常にコミカルなキャラクターを非常にイタリア風にイタリア人(元夫)が演出していて、ドイツ人にはこういうわけには行かないだろうと。まあ、やっぱり彼の音楽は、何だかものすごいカリスマがあります。オペラだから、元夫は舞台では、一場面の間奏部以外では見えないわけだけど、客が釘付けになる。隙のない音楽というか。一小節ごとに忙しく何かが起こる。まあ、これがせわしなくってなんとも好きではないという方にはだめかもしれませんが、Vivaldiにはとにかくぴったり。相変わらずの勉強ぶり、相変わらずの骨の削りぶりにはもう尊敬して頭が上がりません。もう心身削って捧げている。一生音楽のドラッグ中毒状態と言って良いと思う。そんな奴は馬鹿だから軽蔑しろって言うご意見もありますが、じゃあこれだけ何かのために精根尽くして果たし、それを社会のために貢献してみろって言われれば、なかなか出来ません。別に金儲けのためになんか全然やっていない。金なんか全部出て行ってしまいます、そういう人は。楽譜や本、または各国の図書館への旅行代、古楽器開発の資金と、色々あるわけです。ですから社会貢献といっているんです。人が知らなかったことを発見して後世に残しているという意味で。だから良いじゃないですか、ちょっとおかしくって、いつも中毒しているみたいで、多少あまりの日常生活不能ぶりに、周りが迷惑したって許してやらないといけないなあと実感しています。そう言いながら、支えきれなくて出てきた私ですが。

心の中ぐしゃぐしゃ。本当に何年かぶりに元夫の指揮するコンサートへ行って、すぐに自分のうちのように馴染んでしまった。知っている人が多いだけじゃなくて、舞台裏、エージェントの人、コンサート、打ち上げ、そういうところに毎日のように十年以上生きてきたわけです。自分一人でいた間の音楽人生分も含めると、もう生まれついてからといってもいい。私の魂のふるさとなのに、それを別居以来、あまりに辛くて切り捨ててきた私。いけないところへ戻ってしまったような、取り返しのつかないものを見てしまったような、殆どコントロール不可能な悲しさがこみ上げてきた。

元夫には、その音楽の素晴らしさを伝えて、礼を言って帰ってきました。毎日毎日のようにソリストとしてコンサートをして、普通の人間には考えられないような緊張感の中に生き続けているあの人は、やっぱり心臓に毛がはえている。それでも、演奏しないと生きていけないというのだから、そこが真似できない。病的だけど、血を流して泡吹いても、あの人は楽器と楽譜を放さないだろう。そこに惹かれた自分というのは、やっぱり病的だ。

もう永遠に終りそうにないし、どんどん心がぐちゃぐちゃになるから止める。

2004年6月17日木曜日

Mozart 手紙2

またMorzartの日。
必死になって、手紙を分析コード付け。まだこんなことしてる。七月までこれなんだから。
それにしても昔は、手紙読んでも、大天才様様だから、普通の人間であるはずがないと思って読んでいたけど、今回は、その普通ではないところが嫌に目立ってしまう。いくら天才でも、やっぱり社会に適合しないといけません。
彼は、権利の主張はしっかりするけど、義務の方は一体どうなっているのかなあという感じがするんです。もちろん作曲やコンサートは、天才の常で義務以上のことを成すわけですが、やはり使われている身だということがある。嫌でも階級や、それに応じた態度の形がある。それは一切省みることはなかった。だから、コロレドが、もうMozartがそこにいるだけで、話も聞きたくないというのにもわけがある。別に、どちらが正しいというわけじゃなくて。時代には時代の習慣があるということ。
あれだけ宮廷が支配していた時代に、あれだけ好き勝手をしたって言うところが、しかし大物だ。

そういう意味で、時代の狭間にいた彼の辛さはわかりますが、彼の人物判断力にも、大きな問題がある。見方の人は良い人、自分を批判する人、全員悪人なんです。そういう短絡さも、読んでいて、ウヘー、こいつこんなことじゃ生きていけるわけないじゃないかあ、とあきれてしまう。父親にも、心配するナとか、金を送るとか、僕の幸せはあなたの幸せとか、もうあのことに関してはお話したくありませんとか、つまり、一切口を挟んでもらいたくないのに、非常にどこかで不安を抱えているというジレンマがあるんです。難しい問題です。しかし、父親だって、コロレドに仕えていたのに、それを気にしながらも、彼は結局好きなことを通しますから、別に同じなんですね、人に気を使おうが使うまいが。困った者なんです、天才って。周りが振り回される。

昨日はスコア演奏で、MozartのRequiemだった。すっごく難しかった。バセットホルンはドと書いてあってファだし、つまりin Fということです。トランペットはin D、ティパニ-はin D に四度上をつける。もちろんファゴットはト音記号とテノール記号がころころ変わるし、合唱のバリトンも、記号がころころ変わる。弦も音がめちゃくちゃ多い上に、ヴィオラはアルト記号だし、これに四声の合唱も入れて、全部弾こうとすると、とんでもない集中力が・・・。
しかしだ。すごい発見があるものなのだ。カノン風に、まあ殆どフーガの形で、テーマが繰り返される。合唱のテーマは木管楽器が平行して演奏する。まさにレクイエムとしてのおどろおどろしさが、にじみ出てくる構造で作曲されている。ものすごい短いフレーズの中で、オケ、合唱の中に様々なことがおきている。スコアを見るとそれが分かるんです。そして、色々なアイデアを尊敬していたヘンデルからいただいている。リズムとか、伴奏のフレーズを見ると分かる。まいった。天才だと実感する。

講師がMozartが書いたとおりのスコアも見せてくれたんですが、もちろん未完でしたから、何しろ木管が欠けている。コーラスは、しっかりと書いたみたいです。しかし、その白紙の部分をこの目で見ると、全く胸が痛みました。彼の存在を何だか頭の上に感じてしまった。こんなきちがいじみた経験は初めてだった。で、鳥肌が立ち、もうMozartの魔力に、胸を打たれた。恐ろしかった。たかがその辺の学生が、へろへろピアノでスコアを弾いているのを聴いて、ちょっとそのオリジナルスコアを見ただけでこうなのだ。

何だか。非常に個人的な話になってしまった。
しかしそういう意味で、今日は新たな発見をした。

2004年6月5日土曜日

Morzart 手紙

昨日、1781年3月から、8月までのモーツァルト手紙を読んだ。ちょうどザルツブルグの大司祭と決裂してウィーンへ行くまでの間の話。

もう何度も手紙を読んではいるけど、今回はドイツ語で読んだのもあって、新鮮に楽しませてもらった。全くもって自由奔放な人間で、そういう面だけ見ている周囲の者には、本当に軽薄な人間に映っていたんだろうなと思う。でも、手紙をきちんと読み込むと、彼のかなり芯の強いエネルギーが感じられた。

結局大司祭と決裂したのも、自分自身の価値を本当には認められずに、虫けらみたいな扱いをされたからだと言うことだけど、実のところ、彼の才能を本当に分かっていた人間なんて、一握りだったんじゃないだろうか。大司祭には何も分かっていなかったろう。そもそもあの頃のザルツブルグは司祭が仕切ってい手、それに雇われている音楽家の身と言うのは、まさに惨めなものだったと思う。そもそも、その後何年もしないうちに、ブルジョワの力が勝って、宮廷文化が壊れてフランス革命という運命がやってくるわけだけど、そういう時代の狭間に生まれたモーツァルトは、ある意味で、自分でもわけの分からぬ時代の運命の波にのまれていたところもあったのではないか。事実彼の周りにも、たくさんの上流階級や小市民たちが集まって経済的に支援する動きも一時的にはあったわけだし、宮廷から離れようとする彼の決意は、50年前ではちょっとできないことだったに違いない。作品も注文だし、嗜好も宮廷文化に沿うもののみが良しとされたわけだし。

天才というのは、どこか爆発的なエネルギーをもっているから、そういうつまらぬ、真価とは全く違う規準で判断されるシステムの中で、小さなことを大司祭かなんかのためにこつこつやるなんてことは出来るものではないんだよね。司祭のために作曲しているのではなく、あくまでも音楽に対する尊敬であり、そこには驚くほどの完璧性を求めているわけだから、作品に関して、嗜好にあわせるとか言う妥協は、侮辱だったんだよね。

彼も、自尊心だけは非常に高くて、自分の価値を分からないもののために演奏したり、仕えたくないと言っていた。いくらお金が少なかろうとも、音楽を理解してくれる宮廷に仕えたいと思っていたわけだし。事実、ウィーンでは、フリーランスとして自立を試みるわけだけど、いつまで経っても、モーツァルトはどこかの宮廷で仕えたいと願っていた。やはり、そういう面は、父親の影響もあるけど、世代的な価値観念から抜け出しきってはいなかった。彼の作品は、全くもって宮廷風であり、それだからこそ、今でも愛されているわけなんだが。まあ、彼としては、何があってもウィーンで成功したかった。カイザーがいるところであったし、自分の才能としては、そんな田舎で小さく活動する者ではないと、本能的に感じ取っていた。ところが、ウィーンのような文化的大都会では、次々に新しいものが求められる。これはアルコ伯爵も言っていたことだけど、ウィーンというのは信用ならないところだった。優れたものには惜しみなくお金を出すけど、消費が激しいから、次々と流行が移り変わる。音楽かも使い捨て的な側面もあった。それをモーツァルトは、聴く耳も持たず始終楽天的に構えていたのは、子供と言えば子供だけど、世間のこともお金のことにも長けている天才なんていないだろうが。ある意味で、作曲だけしていればよいというような環境に恵まれなかったことが悲劇。しかし、音楽家は、もうずっとずっと昔から、経済的にはInstitutionにいつでも依存していたのだから、このジレンマはついてまわるものであろう。

それにしても、社会的背景にもあれだけの父親ががっちり自分の古い価値観でモーツァルトの絶対的成功を願っていたわけだし、尊敬する父親には逆らえなかった彼の、板ばさみ的状態というのは苦しかったと思う。しかし、本当のところ、いくら猫なで声を出してお父様と言おうが、彼は一切自分の信念を曲げることは基本的に無かったわけで、そこに底力を感じたわけだ。天才の、ほかの者を押しのけるような自信。
自分のアイデンティティーを確立できる地を探して迷いまくっていたと言うのが私の印象です。ザルツブルグでは、父親と司祭の力でそれは不可能だった。真価を認めてくれるものがアイデンティティーを可能にするのであって、経済的な安定ではないので、一時のウィーンでの生活すら本当の満足は得られない。それどころか、寝返ってしまう聴衆と支援者に絶望するわけで。なかなかアイデンティティーというのは難しい。
自分の描く形と、他人が自分に期待する形が一致するのは、まれです。

悲劇と言えば、彼の時代背景と、彼の行きすぎたユーモアじゃないだろうか。むっつりとしていれば、それなりだが、あれだけのおどけやユーモアの隙間に、ひどい不安、怒り、自信、自尊心、失望が隠れているのを読むと、心が痛む。それを一体誰がまともに理解し、耳を傾けただろうか。

そういう意味では、ウェーバー家の影響も決して良いものではなかった。コンスタンツェは、当時まだ彼の恋人でもなかったが、彼女は後にも本当に彼の才能も、人格も音楽も分かってはいなかった。かわいらしい面はあったのだろうが、いささか子供で、とても天才を相手に出来るような深みも強さも無い。妻からの真の愛情も、聴衆からの愛情にも恵まれず、いよいよ悲劇の道をたどるわけだが、いろいろな側面から見ても、いろいろなことが重なって、非常に苦しい立場にあった。SalzburgからWienへと向かわせた本当の原動は、実は、先にも書いた、アイデンティティーへの渇望じゃなかったのかと、察しているが、これは、これから手紙を分析しないと分からない。

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昨日は、皆でタパスを食べに行った。それからヴィデオショップで「Habla con Ella」(「彼女と話せ」という日本訳ではないと思うんだけど)を借りてきてみた。スペイン映画というのは、なかなか遠慮がちな表現で、難しいことを多く言わせずに、深みを表現できるものだと感心した。 
イタリア映画は、とかくオペラ調な大げさドラマになってしまうし、かのフランス映画では、心理描写が過ぎて、見るものは殆どパラノイア化してしまうし、ドイツ映画だと、何でもかんでも理屈づけた会話をはめ込んで、せっかくの情緒も頭の製品にすり替わってしまう。また非常に鋭い視点を持ったイギリス映画だと、何だか知らない間にコンテクストに社会的背景が強調されて、社会映画になりがちだし、アメリカ映画だと、すぐに特定の感情を安い音楽や雰囲気描写で強制され、おばかなエンディングが待っていて、商業意識が丸見えで、いささか嫌になる。いや、スペインというのは、なかなか静かに流れつつものがあって良かった。

実は、George Bernanos原作の、「悪魔の太陽」という映画をもう十年以上前に見て、非常に興味を持ったことを思い出したので、それを借りたかったんだけど。中世後期に、カトリックの僧が悪魔と対決するんですが、確か悪魔が結局は勝つんだけど・・・。それをドパルデューとサンドリーヌ・ボネールという女優が見事に演じていた。確か、あのモーリス・ピアラ監督だった。まあ、ばりばりのカトリック作家が、十九世紀はじめごろに書いた作品で、フランスで育った人なら、スタンダードに知っているはずなんだけど、あとはヨーロッパでも、そうそう知られた作家ではない。まあ、テーマが殆ど神学の領域だから仕方ないんだけど。
しかし残念ながら、ドイツ語ではヴィデオになっておりません。英語かフランス語しかなかった。アマゾンでは。まあ、そのショップは非常にカルト的で、一応何でも揃っているんですが、ばかばかしいハリウッド映画以外は。たとえば日本の座頭市シリーズなんてものまで、何でも揃っているんだけど、さすがにそのベルナノスはなかった。ピアラのものは、ゴッホしかなかった。まあ、あの監督のを見ていると、眠くなるか、神経質になるかって、普通の人は思うのだろうと想像できるけど。私は、けっこう文学作品の映画化というのが好きで、しかも、ピアラのドキュメンタリー風リアリスティックな、直撃表現法も好きなんだよね。俳優もフランス国内で、本当に優秀とされる人たちが彼とやりたがるし。
悪魔がそのまま存在していた中世の宗教観というのを日常に描いた作品だと言うのを思い出して、どうしても見たかったんだけど、まあ仕方ない。

2004年5月21日金曜日

フランス司法の大恥とアメリカの逆さまな連帯感

今朝、新聞を読んでいたら、何かおぞましい記事を目にした。
フランスのオートローという小さな村で、2000年に、ある八歳の子供が、他の兄弟と共に、親戚のおじさんと隣家の子供の両親から性的に虐待され、暴力も振るわれたと語った。警察は隣の国、ベルギーの例もあって早速逮捕に踏み切った。そのうちに大人の数は、どんどんと膨らみ、合計十九人にもなる。中には、パン屋の売り子、聖職者、タクシー運転手、執達吏などの職業に就く者が含まれていた。フランスは、自国に、大きな児童虐待のリングがあるとし、彼らを最長三年間も留置している。
子供を持つ親であるものからは、当然自分の子供を青少年保護法により、もぎ取られた。多くの者は職を失いキャリアを失った。多くの家族は崩壊し、取り返しのつかない散乱状態になった。

ところがである。今まで大型の証人とされて、重要な証言をしてきた女性二人が一昨日こう公に語った。
「私は病気です。私は、大嘘つきです。」
もう一人も証言の嘘を認めた。
その瞬間、自分の三人の子供を三年前にもぎ取られた母親は、大きな叫び声を挙げて崩れたという・・・。

多くの人間が、ただその人間を見かけたというだけで、罪をきせる証言をし、中には見たことも無い知らない人間について証言した者もいた。
このスキャンダルの後もしかし、一人以外は、未だに留置されたままになっている。

フランスメディアは、「司法のディザースター」、「地獄の地、司法当局」と批判し、自国の裁判能力に大きな疑問を抱くようになった。裁判官、検察官、専門家共に、一切無実を証明する証拠に対しては、始終目くらであり続けた。精神科医はそろって、子供の証言も他の証人の証言も信憑性が極めて高いと断言した。

その嘘つき女性は、最初に証言した八歳の子供の親である。
「私は、自分の子供たちが嘘つきになって欲しくなかったので、今まで彼らの言うとおりに証言してきた。」
こう締めくくった。

おぞましい話ではないか。こんなことが人生に降りかかったら、すべておじゃんである。ベルギーのデュトロー裁判が強烈に頭に焼き付いていたとは言え、これは司法当局の大恥だ。裁判というもの自体が、ここまでメディアによる他の事件などの情報に左右されて、その先入観に振り回され、証言の信憑性すら真実とは程遠いところに位置し、無実の証拠も当局の眼には入らないのか。だとしたら、恐ろしい。そして裁判官たる者の重みを改めて考え直させる出来事ではないだろうか。人が人に判決を下すのである。十分すぎる証拠があろうと、無実の証拠がある限りは、そちらを証明しうる可能性も、有罪の可能性と同様に追求されなくてはならない。

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他のページを見たら、アメリカ兵の虐待写真の一部が公開されていた。変態野郎達のいやな写真である。捕虜を裸にしただけでも、非常に非人道的な行為であるのに、写真を取らせ、殺した死人の前で笑顔で勝利のポーズをとり、更には、性的行為をも強制した事に関しては、人間としての価値を疑わせていただくしかない。これは軍事システムの問題というほど、簡単なことでは無いのじゃないか。そうではなくて、むしろ一人一人の人間の行為判断能力である。一体なぜ、誰一人の頭にも、ジュネーブ条約に違反する行為ではないかと疑問に思わなかったのか。そんなものは知らんのか。システムや、規律を改善することでは解決しきれない問題である。一人一人がここまで、人間として程度が低ければ、そんなこととは関係なく、これからも起こってくる行為であろう。戦争は常に異常事態である。しかしその異常な状態の中で、自分たちには全く無抵抗な人間の集団を目にした時にも、最低限、尊厳を保つ扱いの出来ないものは、兵士になる資格すらない。しかし人間の真意を前もって知ることのできる基準というのはないのではないか。本人の価値が本当のところではどうか、ということが分かるには、異常事態に置くしかないのか。れっきとした人間である彼らの尊厳をここまで傷つけ、もてあそぶことが出来る神経というものを持った者は、程度が低い、そうとしか言いようが無い。
命令されて、呼び出され、写真を取らされたというどちらかというと気の毒な兵士が、昨日、位を下げられ、除隊させられた上に、実刑一年をもらった。重い罪であるが、これは始まりでしかない。ことの中心にいた人物にいかなる罪が下るのか、見ものである。どんなことをしてもイラク人を満足させる事は無いだろうが。

ところで、この兵士の故郷では、皆、彼の味方であるのは言うまでも無い。可愛そうに、命令に従っただけというならまだしも、そう言った見解では無いようだ。
彼の故郷の町の神父は、こう語った。
「私は、彼のような青年がそんな行為を犯したとは、信じられない。私達は、彼がそんな事はしていないと硬く信じております。」
本人は、写真をとったと認めているのに、である。
全くここにアメリカの恐ろしさが隠されていて、こういう社会の逆さまモラルと逆さまな連帯感が、ああいった変態を生み出すのかなと考えてしまった。恐ろしい国である。

2004年5月20日木曜日

楢山節考

今朝は、朝九時に元旦那宅まで小猿たちをお迎えに行った。彼は、今ポツダムでオペラを指揮しているので毎日大忙し。夕べ八時に小猿と食事に行って、今朝またポツダムへ戻る。私としては、せっかくの休日だから、八時半なんかに起きたくなかったんだけど、しょうがないか。おかげで、午前中は家事をしまくった。お昼もちゃんと作ったし、まあ、良い気分だろうか。

昨日、今村監督の映画、楢山節考を見た。二回目だったんだけど、もうずいぶん前だったので、新鮮。
当時のモラルというのは、今の社会ではまったく想像の出来ない基準によるものであって、そこで取り決められている、様々な冷酷、粗暴なしきたりも、突き詰めれば、自己防衛なのかと納得した。そんな難しい言い方じゃなくても、東北の山深い貧しい農村では、目的はただ、冬を越えて生き残ることのみだった。つまり子孫繁栄という基本的な条件が確保されること。それを危うくするような事柄は、人殺しという手段をとろうが、ことごとく抹消されたということだろうか。作物を盗むということは、人殺しよりも重い罪とされる理由かと思う。男の嬰児を育てて冬を超えられないような場合は、それを殺すのも致し方ないというような状況であった。それほど生活が苦しいから、姥捨てというしきたりもあったのだろう。

映画は、最後の十五分が決め所という感じと私はとった。まあいろいろと目を背けたくなるような、冷酷な場面があるのだけれど、私にはそれをどのようにとって良いのか分からなかったのだが、最後の場面を見ながら急に謎が解けたような思いがした。
生き残りのためには、感情的なことなど構っていられない。自らの父母を背負って山に捨てに入らなくてはならない。今まで誰もそれを疑問に思ってきたものはいない。元気がよかろうが、七十になれば山へ入った。自分の食べる量を他の家族のためにまわした。ところが、主人公の息子は、母親を骸骨の敷き詰められた谷へ置いて去る時、最後に泣き崩れる。そういう繊細さが、こういうしきたりへのひそかな反発を一瞬呼び起こす。が、それは本人の意識までは上らず、やり過ごすしか出来ない。
暴力と冷酷さと死、そして厳しい自然のおきてが、日常というレベルで深く入り交ざった生活では、死や殺人すらしらけた目で見過ごされるという、恐ろしさではなく、むしろ深い悲しみが深く根付いていると感じた。厳しい日常は、感情などというものをことごとく無視し、麻痺させる。そして人は春になると、動物のように狂ったように交尾する。何か非常にストイックな生活からの爆発のような反応に見え、それが何か無性にもの悲しくさせる。
重いテーマではあったが、今村の淡々としたリアリズムにも似たスタイルが、見る側の感情を必要以上にあおったり、支配したりすることが無く、それでいて、最後まで見る側の感覚を奈落の底までも落としてしまうような重みと深みにあふれていた。83年にカンヌで賞を取ったのもまったく頷ける。非常に考えさせる作品だった。

しかしこういった記録は、書かれているものは皆無で、口で言い伝えられてきたものに違いなく、大変なリサーチだったのではないだろうか。非常に忠実に語られていて、その点でも素晴らしい業績ではないだろうか。

しかしモラルとは、なんとも押し付けがましいものだろうか。人間の中心にあるような本能的な良心、(そういうものがあればだが)そういうものとは少しも関係ない。モラルとは社会が作り上げるもので、まったく恐ろしい威力を持っている。いろんな意味で唸ってしまった。

小猿たちが、中庭で叫びまくっているから、さっさと呼び寄せないとだめだろう。そろそろ切れたらしい。