2004年6月21日月曜日

La Fida Ninfa

昨日は、一日中腐っていたけど、午後はシャワーを浴びてすっきりしてから、娘と二人で、もと夫のオペラへ行ってきた。
今ポツダムは大きな音楽祭をサンスーシで開いているんだけど、そのお城の劇場で彼はオペラを四日やる。その三回目だったんです。

ヴィヴァルディのまだ昨今では演奏されたことのないオペラ、La Fida Ninfaでした。永遠の忠誠を誓い合うように生まれてきた二人が、海賊によって引き裂かれて、十七年経った後に再会するのだけど、二人は自分たちが十七年間思い続けてきた相手だとは気が付かない。それぞれ色々な誘惑にあうのだけれど、愛の神は、この二人だけは他のバカな男女のようにではなく、永遠の忠誠の誓いをまっとうできるはずだと、怒りを感じながらも信じているわけです。そして、二人は、無事に自分たちの心に描いてきた愛を裏切ることなく、最後には結ばれるというおめでたい話だけど、この古風なテーマが、現代には妙に新鮮に感じられた。
結局は、そこじゃないですか、簡単なようでなかなかできないことって。

それにしても、元夫はオケには全員バロックの弓とガット弦を付けさせる徹底の仕方。しかしバロックオケではない。ティンパニーも、当時の小さい革張りのもの。風や波の音も、原始的な小道具でティンパニ奏者がやる。トランペットもホルンも、ナチュラルです。劇場は、こじんまりした、本物のバロック劇場で、非常に乾いた響きで、エコーは殆どなし。そういうところでは、まあどんな音の変化も、雑音もすべて聞こえるんです。元旦那が、始まる前に友人に、「まあ、何でも聴こえちゃうというところが、アマチュア的な響きを出して、まるで、当時のような音になるんだよね。」と説明していた。これは、当時の演奏家の技術がアマ的と思われるととんだ誤解なんですけど、そうじゃなくて当時はそうかしこまって物ではなかった。誰が間違えたとか、音程が完璧じゃないとかそういう価値観ではなかったんです。
昨日もものすごく舞台に観客席が近かったんだけども、観客と演奏家は、もう本当に親密な関係だった。生きている音楽をまさに目の前で聴くことが出来たんです。そして、楽器は、今のものより、はるかに操るのが難しい古楽器だった。音程とか、テクニックというのを完璧に操るのは、楽器の性能自体の問題で、殆ど不可能だったわけす。その代わり、今の演奏家より、即興の能力とか即反応の能力とかが、はるかに上だったわけで、そういうところでまさに生きた音楽を聞かせてくれたわけです。今日も昨日も同じように完璧という、ベルリンフィルのようなものはなかった。今日も昨日も、違う意味でよいわけす。それを旦那はあえて、ディレッタンティスム、アマチュア的と呼んで好んでいるんです。

それにしても、これは、彼が自分も、当時のオリジナル楽器を使うんだといって、せっせと練習し始めたころ、かなり今の楽器の感覚のつもりで、音程を完璧に目指そうとして、すったもんだしていた時に、私が、もうそういうことじゃないんだから、音程の不安定さが、妙な嗜好の良さをかもし出しているわけで、その方がずっと当時の現実味があるから、ある程度のディレッタントさというのは、むしろ必要なんじゃないの?といったら、何日か悩んでいたんだけど、そうだ、そうだよなあと、ものすごく納得したようにしばらくしてから、完璧さにこだわるのを止めた。それが思い出されて、何だか自分たちの歴史まで噛みしめてしまった。
しかしこれは、あくまでも古楽器のことですから。現代の楽器を扱っている方は、まず完璧さがあっての音楽性ですから。今の楽器の性能では、完璧もまんざら無理ではありません。市場のテクニックも、どんどん上がる一方です。それが言いか悪いかは別として、最初から、完璧じゃなくて良いんだと思うのは間違いですので。

そこはまた難しいところで、古楽器は、今だからこそいろいろと機会がありますが、昔は古楽器が出来るというだけで仕事が来るような感じもあった。で、古楽器界は非常にアマチュアな世界と思われているんです。これは、本当に優れた古楽器演奏家のアマチュア的嗜好とアマチュア古楽器演奏家とは区別されるべきものです。それをどう聞き分けるかといえば、一応本物を聴いている人には、すぐに分かるでしょう。だからCDを聴く時も売れ筋や、有名度で買うのではなく、本物を聴くと言うのは大事です。じゃあ、どうやって本物と分かるのかといったら、これはひたすら、聴いて聴いて勉強するしかない。どれが小説という領域を超えて、文学といえるのだなんて言ったって、古典から新しいものまで相当読み込んで、自分の嗜好というのが漠然と分かってきて、有名といわれるものも、売れ筋のものも一応読んできたと言う前提があれば、おのずと読み分けられるんじゃないでしょうか。

で、オペラは、大成功でした。非常にコミカルなキャラクターを非常にイタリア風にイタリア人(元夫)が演出していて、ドイツ人にはこういうわけには行かないだろうと。まあ、やっぱり彼の音楽は、何だかものすごいカリスマがあります。オペラだから、元夫は舞台では、一場面の間奏部以外では見えないわけだけど、客が釘付けになる。隙のない音楽というか。一小節ごとに忙しく何かが起こる。まあ、これがせわしなくってなんとも好きではないという方にはだめかもしれませんが、Vivaldiにはとにかくぴったり。相変わらずの勉強ぶり、相変わらずの骨の削りぶりにはもう尊敬して頭が上がりません。もう心身削って捧げている。一生音楽のドラッグ中毒状態と言って良いと思う。そんな奴は馬鹿だから軽蔑しろって言うご意見もありますが、じゃあこれだけ何かのために精根尽くして果たし、それを社会のために貢献してみろって言われれば、なかなか出来ません。別に金儲けのためになんか全然やっていない。金なんか全部出て行ってしまいます、そういう人は。楽譜や本、または各国の図書館への旅行代、古楽器開発の資金と、色々あるわけです。ですから社会貢献といっているんです。人が知らなかったことを発見して後世に残しているという意味で。だから良いじゃないですか、ちょっとおかしくって、いつも中毒しているみたいで、多少あまりの日常生活不能ぶりに、周りが迷惑したって許してやらないといけないなあと実感しています。そう言いながら、支えきれなくて出てきた私ですが。

心の中ぐしゃぐしゃ。本当に何年かぶりに元夫の指揮するコンサートへ行って、すぐに自分のうちのように馴染んでしまった。知っている人が多いだけじゃなくて、舞台裏、エージェントの人、コンサート、打ち上げ、そういうところに毎日のように十年以上生きてきたわけです。自分一人でいた間の音楽人生分も含めると、もう生まれついてからといってもいい。私の魂のふるさとなのに、それを別居以来、あまりに辛くて切り捨ててきた私。いけないところへ戻ってしまったような、取り返しのつかないものを見てしまったような、殆どコントロール不可能な悲しさがこみ上げてきた。

元夫には、その音楽の素晴らしさを伝えて、礼を言って帰ってきました。毎日毎日のようにソリストとしてコンサートをして、普通の人間には考えられないような緊張感の中に生き続けているあの人は、やっぱり心臓に毛がはえている。それでも、演奏しないと生きていけないというのだから、そこが真似できない。病的だけど、血を流して泡吹いても、あの人は楽器と楽譜を放さないだろう。そこに惹かれた自分というのは、やっぱり病的だ。

もう永遠に終りそうにないし、どんどん心がぐちゃぐちゃになるから止める。

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