2004年6月5日土曜日

Morzart 手紙

昨日、1781年3月から、8月までのモーツァルト手紙を読んだ。ちょうどザルツブルグの大司祭と決裂してウィーンへ行くまでの間の話。

もう何度も手紙を読んではいるけど、今回はドイツ語で読んだのもあって、新鮮に楽しませてもらった。全くもって自由奔放な人間で、そういう面だけ見ている周囲の者には、本当に軽薄な人間に映っていたんだろうなと思う。でも、手紙をきちんと読み込むと、彼のかなり芯の強いエネルギーが感じられた。

結局大司祭と決裂したのも、自分自身の価値を本当には認められずに、虫けらみたいな扱いをされたからだと言うことだけど、実のところ、彼の才能を本当に分かっていた人間なんて、一握りだったんじゃないだろうか。大司祭には何も分かっていなかったろう。そもそもあの頃のザルツブルグは司祭が仕切ってい手、それに雇われている音楽家の身と言うのは、まさに惨めなものだったと思う。そもそも、その後何年もしないうちに、ブルジョワの力が勝って、宮廷文化が壊れてフランス革命という運命がやってくるわけだけど、そういう時代の狭間に生まれたモーツァルトは、ある意味で、自分でもわけの分からぬ時代の運命の波にのまれていたところもあったのではないか。事実彼の周りにも、たくさんの上流階級や小市民たちが集まって経済的に支援する動きも一時的にはあったわけだし、宮廷から離れようとする彼の決意は、50年前ではちょっとできないことだったに違いない。作品も注文だし、嗜好も宮廷文化に沿うもののみが良しとされたわけだし。

天才というのは、どこか爆発的なエネルギーをもっているから、そういうつまらぬ、真価とは全く違う規準で判断されるシステムの中で、小さなことを大司祭かなんかのためにこつこつやるなんてことは出来るものではないんだよね。司祭のために作曲しているのではなく、あくまでも音楽に対する尊敬であり、そこには驚くほどの完璧性を求めているわけだから、作品に関して、嗜好にあわせるとか言う妥協は、侮辱だったんだよね。

彼も、自尊心だけは非常に高くて、自分の価値を分からないもののために演奏したり、仕えたくないと言っていた。いくらお金が少なかろうとも、音楽を理解してくれる宮廷に仕えたいと思っていたわけだし。事実、ウィーンでは、フリーランスとして自立を試みるわけだけど、いつまで経っても、モーツァルトはどこかの宮廷で仕えたいと願っていた。やはり、そういう面は、父親の影響もあるけど、世代的な価値観念から抜け出しきってはいなかった。彼の作品は、全くもって宮廷風であり、それだからこそ、今でも愛されているわけなんだが。まあ、彼としては、何があってもウィーンで成功したかった。カイザーがいるところであったし、自分の才能としては、そんな田舎で小さく活動する者ではないと、本能的に感じ取っていた。ところが、ウィーンのような文化的大都会では、次々に新しいものが求められる。これはアルコ伯爵も言っていたことだけど、ウィーンというのは信用ならないところだった。優れたものには惜しみなくお金を出すけど、消費が激しいから、次々と流行が移り変わる。音楽かも使い捨て的な側面もあった。それをモーツァルトは、聴く耳も持たず始終楽天的に構えていたのは、子供と言えば子供だけど、世間のこともお金のことにも長けている天才なんていないだろうが。ある意味で、作曲だけしていればよいというような環境に恵まれなかったことが悲劇。しかし、音楽家は、もうずっとずっと昔から、経済的にはInstitutionにいつでも依存していたのだから、このジレンマはついてまわるものであろう。

それにしても、社会的背景にもあれだけの父親ががっちり自分の古い価値観でモーツァルトの絶対的成功を願っていたわけだし、尊敬する父親には逆らえなかった彼の、板ばさみ的状態というのは苦しかったと思う。しかし、本当のところ、いくら猫なで声を出してお父様と言おうが、彼は一切自分の信念を曲げることは基本的に無かったわけで、そこに底力を感じたわけだ。天才の、ほかの者を押しのけるような自信。
自分のアイデンティティーを確立できる地を探して迷いまくっていたと言うのが私の印象です。ザルツブルグでは、父親と司祭の力でそれは不可能だった。真価を認めてくれるものがアイデンティティーを可能にするのであって、経済的な安定ではないので、一時のウィーンでの生活すら本当の満足は得られない。それどころか、寝返ってしまう聴衆と支援者に絶望するわけで。なかなかアイデンティティーというのは難しい。
自分の描く形と、他人が自分に期待する形が一致するのは、まれです。

悲劇と言えば、彼の時代背景と、彼の行きすぎたユーモアじゃないだろうか。むっつりとしていれば、それなりだが、あれだけのおどけやユーモアの隙間に、ひどい不安、怒り、自信、自尊心、失望が隠れているのを読むと、心が痛む。それを一体誰がまともに理解し、耳を傾けただろうか。

そういう意味では、ウェーバー家の影響も決して良いものではなかった。コンスタンツェは、当時まだ彼の恋人でもなかったが、彼女は後にも本当に彼の才能も、人格も音楽も分かってはいなかった。かわいらしい面はあったのだろうが、いささか子供で、とても天才を相手に出来るような深みも強さも無い。妻からの真の愛情も、聴衆からの愛情にも恵まれず、いよいよ悲劇の道をたどるわけだが、いろいろな側面から見ても、いろいろなことが重なって、非常に苦しい立場にあった。SalzburgからWienへと向かわせた本当の原動は、実は、先にも書いた、アイデンティティーへの渇望じゃなかったのかと、察しているが、これは、これから手紙を分析しないと分からない。

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昨日は、皆でタパスを食べに行った。それからヴィデオショップで「Habla con Ella」(「彼女と話せ」という日本訳ではないと思うんだけど)を借りてきてみた。スペイン映画というのは、なかなか遠慮がちな表現で、難しいことを多く言わせずに、深みを表現できるものだと感心した。 
イタリア映画は、とかくオペラ調な大げさドラマになってしまうし、かのフランス映画では、心理描写が過ぎて、見るものは殆どパラノイア化してしまうし、ドイツ映画だと、何でもかんでも理屈づけた会話をはめ込んで、せっかくの情緒も頭の製品にすり替わってしまう。また非常に鋭い視点を持ったイギリス映画だと、何だか知らない間にコンテクストに社会的背景が強調されて、社会映画になりがちだし、アメリカ映画だと、すぐに特定の感情を安い音楽や雰囲気描写で強制され、おばかなエンディングが待っていて、商業意識が丸見えで、いささか嫌になる。いや、スペインというのは、なかなか静かに流れつつものがあって良かった。

実は、George Bernanos原作の、「悪魔の太陽」という映画をもう十年以上前に見て、非常に興味を持ったことを思い出したので、それを借りたかったんだけど。中世後期に、カトリックの僧が悪魔と対決するんですが、確か悪魔が結局は勝つんだけど・・・。それをドパルデューとサンドリーヌ・ボネールという女優が見事に演じていた。確か、あのモーリス・ピアラ監督だった。まあ、ばりばりのカトリック作家が、十九世紀はじめごろに書いた作品で、フランスで育った人なら、スタンダードに知っているはずなんだけど、あとはヨーロッパでも、そうそう知られた作家ではない。まあ、テーマが殆ど神学の領域だから仕方ないんだけど。
しかし残念ながら、ドイツ語ではヴィデオになっておりません。英語かフランス語しかなかった。アマゾンでは。まあ、そのショップは非常にカルト的で、一応何でも揃っているんですが、ばかばかしいハリウッド映画以外は。たとえば日本の座頭市シリーズなんてものまで、何でも揃っているんだけど、さすがにそのベルナノスはなかった。ピアラのものは、ゴッホしかなかった。まあ、あの監督のを見ていると、眠くなるか、神経質になるかって、普通の人は思うのだろうと想像できるけど。私は、けっこう文学作品の映画化というのが好きで、しかも、ピアラのドキュメンタリー風リアリスティックな、直撃表現法も好きなんだよね。俳優もフランス国内で、本当に優秀とされる人たちが彼とやりたがるし。
悪魔がそのまま存在していた中世の宗教観というのを日常に描いた作品だと言うのを思い出して、どうしても見たかったんだけど、まあ仕方ない。

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