2011年3月6日日曜日

保守の難しさ

さすがの当地も、そろそろ春の気配となってきた。

朝起きると明るい。
キッチンのカーテンを思わず開けたくなる。これは春の到来である。
暗闇の中、子供たちを登校させる不安がない。

そして、午前中掃除をする。そんな気になるのも、春のおかげである。
起きたって9時まで夜が明けないのに、誰が掃除なんかしたいものか。

10時半ごろ、まるで職人さんの休憩のようにお茶を入れる。
起き抜けには、いつもコーヒーなのだが、さすがに午前中の休憩はお茶。
気に入ったお茶をいくつか買ってあるのだけど、それを気に入ったポットに淹れて気に入ったティーカップを出して飲む。新聞を開いたりして、ちょっと贅沢。
こんな余裕も春ならでは。

Tee.jpg


午後になると、今度はリビングのほうから、斜めに陽が差してくる。
つまり、一階というあまり好ましくない立地条件でも、それなりにアパート全体が明るくなるのである。
これは嬉しい。
実 はもう22年も欧州にいながらにして、いまだに実感していなかったことであるが、Frühlingsputzというのは、春の掃除という意味で、日本のよ うに大晦日に掃除をするのは、実用的視点から見るとまったく意味がなく、やはり春になってやっと掃除をするエネルギーをもらえるということなのだった。
まるで、冬眠から覚めたようだ。

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実は、先日Guttenberg氏が、国防相を辞任して以来、なんだか寂しくて仕方ない。
思ったことを、ほろ酔い気分のまま(現在夜中)、ちょっと殴り書きしてみる。
正確な情報を確認しないまま、うろ覚えで書くので、間違っていたらすみません。


私は、彼は余儀なく失脚すると予想していたし、あの博士論文を見たからには、嘘つきと思わずにはいられなかった。
あんなものを提出したのは、冒涜とも取れるし、悪質であるといやな気分になったのも事実である。

しかし、なにかが心に引っかかった。
あの辞任の表明が、あまりにも潔く、kurz und knapp、つまり何かのせりふを聞いているかのような、ある種の美しささえ感じただけに、またそこから皮肉なことに「嘘」の匂いさえ嗅ぎ取ってしまったのだ。

貴族の出である。
フランケン地方の古いGuttenberg家出身で、男爵の称号を持つ。
父親は指揮者であり、母親は彼が5、6歳のころに離婚して家を出ている。
弟と共に、腹違いの兄弟4人と共に育った。ローゼンハイムのギムナジウムを卒業した後、法科では有名なバイロイト大学で法律を学び、博士号を取得したわけである。

この一家は、古くから自分の家系の財産管理会社を運営するほか、病院の株を持っており、実質的に彼も監査役であった。そのほか、プファルツ地方にワイナリーも所有し、いわゆる屈指の貴族なのである。

そういう慈善行為、ワイナリー経営、病院監査役などの役割をこなしていくことで生活していく貴族のボンボンに納まりきれなかったのが、このKTと略される、Karl Theodor zu Guttenbergなのであろう。
そういう意味では、あまりぱっとしない指揮者である父親にも、そうした野心があったと考えてもよいのかもしれない。

政治、あるいは学術の世界で「も」認められたい。
この「も」は重要で、彼はカヴァリエ祭で賞を授かるなど、貴族の息子としてスポーツの世界でも、紳士的な価値を認められている。つまり、コンプレックスを持つ理由などどこにもないはずなのである。

しかし、今朝読んだTAZでは、最近の保守派の在り方を問う書き方をしており、なかなか興味深かった。
つまり、現在の保守は、保守であるだけでなく、その伝統を重んじる生き方に、さらにモダンな価値観をも実現しなくてはならない側面があるということである。
つまり、リベラル保守という位置であろうか。

Guttenberg自身、剽窃問題が明らかになった当時、若い家族の父親としての役目、政治家としての役目を果たしつつ、100パーセントの実力を出し切れないまま書き終えたもの、ということを強調していた。

そういえば、彼の周囲は完璧なのである。
Otto von Bismarckのひひ孫にあたる、シュテファニという、これまた見せるために存在するかのような金髪の美女を妻に迎えている。もちろんそこには愛情あっ ての結婚生活に違いないが、若いころから、描いてきた一つの人生地図を汚すような人物を妻にはしまい、ということはしっかり念頭にあったに違いない。

知れば知るほど、意地悪な言い方をすれば、人生を隅々完璧に演出してきたのである。
そして「暴走する野心」で手にした博士号であったが、やはり付け焼刃で手にできるような代物ではないはずで、こうしてぼろが出てしまった。野心は、それに見合った用意周到な計画と実践がなければ、形となって実現されることはなかなか難しい。

ある新聞は、これをリベラル保守のひびなどと見ている。
Ursula von der Leyenは、突然斬新な髪型にしイメージを一新した。が、家庭には7人の子供たちが待っており、幸せな一家の母親でもある。
若手のKristina Schröderも、今まで一度もぼろを出したことがない上、古い形のウーマンリブをせせら笑い、本当の女性解放主義を実践すべく、国会議員として妊娠していることをカミングアウトした。

こうなると、もう子供を持つこと、幸せで機能する家庭を持つことが、キャリアの妨げになるという言い訳すらできない。家庭もキャリアも、というのが当然教養ある女性の生き方の指針となってしまうのである。

また、外務大臣Guido Westerwelleの完璧主義は、若干形を変えて、外見の完璧さとしても現れているという。
つまり、ドレスコードがカジュアルといえば、彼の場合隙のないほど完璧なカジュアルないでたちとなってしまい、そこにはかつてのSchröderやFischerといったロックなラフな感じはない。

そんなことを考えていると、なるほど、このCDU/CSUまたはFDPといったリベラル保守の人たちの、すさまじい野心と完ぺき主義には、驚いてしまう。

実際、保守でいることは現代では難しいのではないかと、そんなことを考えた。
そして、そのシンボリックな出来事が氏の辞任であり、だからこそ、なにか後を引きずるような悲しさが残るのだろうかと、少し新しい視点をもらった。

メルケル女史の博士号も、物理学のナントカであるが、現代ではまったく役にも立たず、なんの革新も含まれない実に退屈なものであるらしい。
しかし論文の中に、すくなくとも、この元大臣のような、初期的間違えは見られないだろう。

し かし、なぜ政治家は博士号を欲しがるのだろうか。緑の党の党員は、何が何でも博士号を欲しがるだろうか。Die Linkeはどうであろうか。SPDにいたっては、元首相のSchrödernなど、Realschules出身で、後で非常に苦労して弁護士になった人 である。博士号の比率は少なそうだ。

そう考えてみると保守派というのは、リベラルでも堅苦しい。
何に追われているのだろうか。
そして、この暴走する野心の裏にある、本当の上昇志向原動力は、いったい何なのであろうか。

ほろ酔いで書いたので、書いたことを忘れた。意味をなしているかどうか。

おやすみなさい。

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