昼に日記をアップし、鬱な心を恥ずかしげもなく吐露したところであった。
なんのことはない。
また母の体調で心配事があるだけなのだ。
もう老人の域に入っているのだから、命にしがみつくような望みや希望など持っているわけでもない。
ただ、そこにひたすら寄り添えないこと、彼女自身が決して口には出さない不安を分け合えないことが、非常に苦しいだけなのだ。
私の敬愛するディートリッヒ・ボーンへッファーというプロテスタント神学者は、第二次世界大戦で、反ナチ運動に参加していたことがわかり、囚われの身となって、ヒットラー自身が自決するほんの3ヶ月前あたりに処刑された。
彼は、苦しみや不安や痛みこそを分かち合うべきだと、熱心に説いていた。
私は、苦しいときも辛いときも、だからこそ一人で克服せねばならないと、自分にも他人にも厳しい時期があったが、この言葉に出会ったころ、それはもうずいぶん前なのだが、思いを改めるようになった。
私は、愛する人間の痛みを少しでも一緒に体験できることで、相手の途方もない不安感が薄らぐなら、徹夜をしても付き添ってあげたいと思う。
本当の辛さを目の前にすると、人は言葉を失うものだ。
それは、痛みに対する敬意であり、他人であるのに、やすやすと気持ちがわかると言ってはいけないという気持ちがある。
何も言うことはない。けれど、私はそこにいて、お茶を入れて、たわいもない話をして、ただただ時を共にすることはできる。
そして、それこそ、本当に辛いときの恵みなのではないかと、分かち合いなのではないかと、最近気がついた。
他人を助けることの難しさは、昔からわかっていた。
それは、私が辛いときに、多くの人がいろいろな手を差し伸べてくださったのだが、私はやはり私一人で乗り越えるしかないということを知っていたからだろう。
しかし、そこには、お茶を入れてくれる人、電話をしてくれて声を聞かせてくれる人、はがきをくれる人、ひょっこり尋ねてくれる人、ご飯を作ってくれた人、話を黙って聞いて、助言らしきことは何も言わないのに、ずっとそこにいてくれた人たちがいた。
私は、その人たちなしに、今幸せに生きていることができるとは思えない。
助けることは可能だが、いつでも人を助けられると思うことも驕りではないか。
人が死ぬときには、誰も助けられない。
仕方なく、一人で息を引き取るしかないのである。
そして、私はキュープラーロスの言葉を思い出す。
人を一人で死なせてはいけない。
手を握り、声をかけ、皆で囲んで逝かせてあげること。
孤独の中に死を迎えることと、温かみの中で死を迎えることには、運営の差がある。
戦争でたくさんの死を、そして臨床でも死を乗り越えてきたキュープラーロスの言葉には、本当に真実味があった。
結局、寄り添うことが愛情なのである。
どんなことがあっても、親は子供を見捨てない。
パートナーも、どんなことがあっても、続く限り一緒に寄り添うのが愛情なのである。
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仕事に行って、帰り際に音楽学校のボスに出くわす。
彼はとてもよい人なのだけど、今まで対で話す機会があまりなかった。
軽快な挨拶ばかりで、お互いに知ったようで知らない関係である。
ところが、今日は話しかけてきた。
階段ホールで、思わず長話になる。
お母さんどうしてる?と、何を察したのか、突然聞いてきたのだ。
そういえば、去年、突然の帰国ということもあり得ると話をしておいたのを忘れた。
しかし、なぜ、今日、私がこうしてさびしくて、不安で、居た堪れない気持ちのときに、話しかけてきてくれるのだろう。
ひとしきり話して、心が暖炉の火を浴びたように暖かくなった。
結局看病や助けなど、実践的なことは帰国しなければできないけれど、親のために帰国したら、それも重荷かもしれない。
私自身が、子供たちや、私が一人で必死に築いてきたさまざまなここでの可能性に、大きな異変を与えても、帰国するべきである、そうせねばならないし、そうしないと、一生後悔するという問題があった。
結局は自分の問題なのである。
親がその一生を終えたあとに、私が精一杯尽くしたと言い切りたい、というある種のエゴでもあるのだ。
しかし、彼と話しているうちに、私が帰国するたびに、はじけるような笑顔で生き生きとした私と子供たちの姿を見せ、できる限りの思いでを作り、娘がこんなに幸せに暮らし、孫たちもスクスク育っていることを、信じて歌がわない時間を与えることが、私の役目ではなかろうかと、だんだん気がついてきたのだ。
職場のボスと話をしながら、こんな風に気持ちの方向性が出てくるとは思ってもみなかった。
でも、彼の目は優しく、話しかけてくれた彼の言葉は、十分に真剣だった。
こういうことは、いつしかタブーになって話せないじゃない?
だから、僕から話しかけないととは思っていたんだよ。
そう暖かい立ち姿で私を見守ってくれている彼を前に、
親のことは大切で、本当に与えてもらうばかりで、感謝をしているけれど、
というとそれをさえぎって、
でも、それが親というものじゃない?
と彼が言う。
そうなのね。親に借りを返す必要なんかどこにもない。そして、親も借りを返してもらおうと思ったことすらないよね。
そうだ。私の母は柔和な人で、私とはまったく違って、明るくやわらかく、自分の時間や労力を割いて、人に与える人であった。
その彼女が、私に何か見返りを期待しているはずがない。
どんなことがあっても帰国するなといってくれている。
私は大丈夫よ、みんないるからと。
いまや彼女の精神を支えているのが私であるということは、何よりも明らかである。
しかし、かつて私の苦しみを一手に飲み込んで、何も言わずに「そこにいて寄り添って」くれたのは、母であった。
そうか、気持ちは精神的にお返しできるものなのだ。
実践的な「助け」をすることにこだわる必要はないかもしれない。
できれば、触れたいとか、見たいとか、そういった即物的な望みは尽きないのだけど、私たちが常に精神的に共にあるということも事実である。
その彼と話している間に、私のここに残らねばならない、帰ることができない、という事実の中にあった大きな良心の呵責が次第に小さくなっていった。
未だに、どうすればいいのかわからないし、実際問題として、止むことのない癌という病の恐ろしさを前に、なにだできることなのだろうか、というのはわかっていない。
けれど、自分を枯れ果てたと呼び、誰も要らない、人間関係がストレスだと語り、一人で涙を流して、不安を抱える自分はかわいそうではない、と言い切ったことに「間違ったなにか」を感じた。
誰かは常に自分のことをちゃんと見てくれていて、気にかけてくれている。
そして、その人たちが話しかけてくれるとき、その言葉は本当に真実味を帯びているのだ。
その人がそこに寄り添ってくれているのが本当に体温として感じられる。
それを、自己完結して、たった一人で乗り越えようとする私の態度は、頑張り屋としては納得できるけれど、周りに取り巻いている好意や温かみを踏みにじる、無視する行為にもなりかねない。
そして一人でなんでもやり、何でも乗り越えてきた自負のある私の強さは、それは立派だとしても、自己満足でしかない。
そうして、実際に助けを必要としている人を目の前にした私の第一の感覚は、もちろんもっているものを与えつくしたいという気持ちであるけれど、そこには後悔したくないという自分本位の恐れがあるのだった。
人生はそうじゃない。
与えるものやもらうものは、物差しでかかれない、時間でも重さでも測れない。
それは、気持ちという感覚なのである。
それなら、私も遠くからでも十分に与えることができる。
そして、あの母ならば、その気持ちをどこまでも深く理解してくれるに違いない。
男女関係は、心が重い。
けれど、今日ドイツにいて、記録に残るほど、久しぶりに、誰かが私のことを気にかけていてくれた事実を知り、心がホカホカに温まり、感謝したい気持ちでいっぱいである。
そして、それは知人というか友人であった。
意味や、利害、義務のある関係ばかりに囲まれている。
けれど、友人は大切にしないといけない。
彼らは、普段いないようで、ふと驚くべきタイミングで手を差し伸べてくれる、寄り添ってくれる。
そう実感した。
帰宅すると、翻訳のほうの同僚からメールが入っていた。
うちに来ない?また僕が料理人になって、腕を振るうけど、どう?
あの素敵な奥さんのいる知性ある彼である。
文字を見ながら涙が出た。
本当にみんなありがとう。
私は、一人だなんて、そんなことを言ってはいけない。
一人でがんばってきた、乗り越えてきたと、そんなことを繰り返し書いた。
けれど、とんでもない、彼ら、友人たちが常に私の周りにはいたのだった。
一人なんかではなかったのだ。
それは、日本の友人たちもまったく同じ。
遠方にいるのに、私にはすぐ近くに感じることがたくさんあった。
反省しています。
一人でがんばってきたなんて、そんな人は誰もいない。
そんな人がいたとしたら、その人には誰か気にかけてくれた人がいたはずなのに、それを見えずに、いや無意識に見たくないから、その気持ちをないことにして、一人で閉じこもってしまったに違いない。
なぜ見たくないかって、それは一人でがんばっているという実感にひたって、自分を許したいからである。
救済は、人の助けを受け入れないと訪れない。
それも、最近私は教会の説教を通じて学んだのである。
私はまだまだ。まだまだ、大人でも一人前でもない。
がんばろう。
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