2011年1月8日土曜日

ヘルダーリン ヒュペーリオン 第一部 引用

私の鼻のかおりだけをかぐ人は、その花を知る人ではない。それを摘んで、ただ学ぼうとする人もまた、それを知る人ではない。

いいかい、ベラルミン。ときおり僕がこんな言葉をもらし、怒りのあまり涙まで浮かべていると、きまって、きみたちドイツ人のあいだに出没する賢い御仁がやってきたのだ。悩めるこころこそ、格言を吹き込むのにうってつけだと信じて疑わない哀れな連中が。かれはぼくに言うべき言葉を思いついてうれしそうだった。「嘆いてはいけない、行動せよ」と。
ああ、行動などすべきではなかったのだ。どんなに多くの希望が残され、どんなにゆたかでいられたことだろう。――

その風のやわらかな波がこの胸にたわむれると、ぼくの全存在はもだし、耳をすます。はるかな空の青さにこころを奪われ、しばしば、アイテールを仰ぎ、聖なる海を見おろす。すると、親しい霊が僕に向かって両手を広げ、孤独の苦痛も神々しい生に溶けていくような気がする。
いっさいとひとつであること、これこそは神の生、これこそは人間の天だ。
生きとし生けるものとひとつであること、至福の忘我のうちに自然のいっさいのなかへはいってゆくこと、これこそは思想と喜びの頂点、聖なる山頂、永遠の安らぎの場なのだ。そこでは真昼は不快な暑さを、雷は声を失い、沸き立つ海は麦畑の穂波にひとしくなる。

ぼくはきみたちのもとでじつに理性的になった。自分と自分を取り巻くものを区別することを徹底的に学んだ。その挙句に、こうしてうつくしい世界の中で孤立し、ぼくを育て、花開かせてくれた自然の園から投げ出され、真昼の太陽のもとで干からびている。
おお、人間は夢見るとき神であり、思いをめぐらせるとき物乞いである。感激がうせれば、父親から追い出された出来そこないの息子同然に立ち尽くし、憐れみが餞別として投げ与えられたわずかな小銭を見つめている。

子供はまったくあるがままにある。だから、あんなにも美しい。
掟と運命の強制は、子供に手を触れない。子供には自由だけがある。
子供には平和がある。子供はまだ自分自身との不和を知らない。富は子供の中にある。子供は自分のこころを知っている。生の乏しさは知らない。子供は不死である。死についてなにも知らないからだ。

自然の一番奥深くにあるもの、それは父ではないだろうか。だが、ぼくはそれを捉えているのだろうか。ほんとうにそれを知っているのだろうか。
それが見えるように思われることもある。だが、そう思うそばから、見たものは自分の姿だったではないかと愕然とせずにはいられない。友人の暖かい手のように、じかに世界の霊にふれたような気がすることものある。だが、目が覚めると、握っていたのは、自分の指かと思うのだ。

まったき感激の全能に比べれば、人間の勤勉はどれほど自発的であってもなんと無力なことだろう。
感激は、表面にとどまっていない。そこかしこでわれわれを捉えるものでもない。時間も手段も必要とせず、命令も強制も説得も必要としない。感激は、あらゆる側面、あらゆる深み、あらゆる高みにおいて瞬時にしてわれわれをつかみ、われわれの眼前に姿を現すよりも早く、われわれがわが身に何が起こったか問うよりも早く、われわれを変化させ、あますところなくその美と至福にひたらせる。

そのようにして内面が素材にふれて強化され、自他を区別し、いっそう固く結びつき、われわれの精神が徐々に武器を操れるようになると、めったに味わえない快感が生じる。

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