2010年10月24日日曜日

雨の日曜日

朝起きると、窓から灰色の空に黄金色をした銀杏木がそびえて見えた。時折木々の枝が揺れては、たくさんの葉が舞うようにして落ちてゆく。


土曜日に買い物へ行きそびれたので、徒歩2分のスタンドまで歩いた。
雨が横から降ってきて、風が強い。

歩きながら小さな静寂を感じた。これから厳しい冬が来るが、むしろ楽しみでもある。外へ繰り出さねばと言う恐怖感もないし、凍えそうになりながら、暖かい家の中へ駆け込んだときのなんともいえない幸福。

知人が日本のお祭りの写真を送ってくれた。美味しそうな匂いが漂ってきそうな縁日の食べ物が湯気をたてている。
何気ない文章の最後に、添付されたその写真を見て、私は涙ぐむほど心が温まった。日本のお祭りと言う、またしても私の五感を刺激する写真であったからというだけではない。その人が、写真を添付してくれた、その取るに足らないような親切心が、思いやりのように感じられ、心が温まったのだと思う。

その人は、メールの中で「だんだん一人でいるのがきつくなってきました」と漏らしていた。
私自身は、一人になって長いわけではないので今のところ解放こそされても苦になったことはない。きついなと思ったこともない。ひとりになる前から、二人でもずっと一人でやってきたからかもしれない。
実は、本当に二人と言うのを知らないのだ。
誰かの人生を追いかけてきたことや、誰かに追いかけられたことはあっても、二人で共に歩んだと実感できる時間はわずかかもしれない。

同じ線路を歩みながら、同じ駅に止まるのだが、乗車しながら二人は常に別々のことをし、別々の方向を見て、好きなものを探し、捉え、また違う方向を向く。けれど、喜びや悲しみを感じたときには、必ず隣の相手を振り返り、話かけ、喜びを分かち合い、悲しみを隠さずに露にする。そんな歩み方なら素敵だと思ってみたりする。

同じ事を行い、同じ関心を持って、友人を共有し、日常を共有しながら、でも二人三脚でどんどん線路を変えていくのは、サーカスの曲芸に近い。線路を変えるときに、必ず揉め事や意見の違いが起こる。線路を変えることは、時に生活を覆すような恐怖に満ちることもある。

私なら、私鉄の静かな沿線を選んで、その私鉄の線路自体に、ある程度の生き方の好みが表れているため、その沿線を愛する人と共に、退屈な景色を何往復でもしながら、同じ線路を歩み続けたい。けれど、なんでも共有するのは絶対に不可能だと思うので、いつもとなりにいるのに、いつも違う方向を見ているぐらいが良いのではないか。


そうでないと、誰の線路に乗るのか、という問題まで出てきてしまう。
誰の線路に乗るか、私の線路、あなたの線路、そういう意識は刺激的だが、もういくらなんでも私はそこまでのエネルギーも自分に対する信頼も残っていない。
だから、偶然行きあたりばったり、魚を買いに行ったら知り合って、一緒にそばを食べたら、リラックスできて、すきなのか、嫌いなのか全然分からないのだが、このひとは確実に同じ線路に乗っているだろうと言う、気づかぬほど小さな信頼さえあれば、今度は一度そういう人と歩みだしてみても良いかなと思っている。

熱いもの、というのは過去としての観念になった時、意義を与えられて心にずっと残ることがある。
さめてしまうものも多い中で、私自身は、人生で一度だけ、岸壁に立って、私の核心に大きく形跡を残すことになった危険だが深く美しいものを見たような気がする。
私は、どんなに年取っても、心の中のこの部分だけは手放さない、絶対にこれは死後も、私と共にもって行くのだと思えるものを蚕の中に包んで持っている。
これは、ある意味、本当に幸せなことだと思っている。だから、私はそれ以来人生を捨てたようなところもあり、行き当たりばったりに任せていたところもあり、魂自体を眠ったまま、凍結させてしまったというところもあったのだが、今は、熱いものにあこがれることも、それにめぐり合ってしまうことへの恐怖もない。
蚕があるからこそ、私はいつでも慰めを知っている。そして、相手にもそのような蚕があればよいと思う。過去を知る気もないし、その人の恋愛感をどこまでも追求するつもりもさらさらない。
ただ、その人も自分を形成してくれたなにか脅威にも近く美しいものを仕事や人生の中で体験していてくれたら、その思いだけを心の中に大切に秘めていてくれたら良いと思う。そして、まるでもう探すことも追求することも止めて、古くから自分の近くに常に存在していた線路に戻り、静かに余生を過ごすような形で歩んでいる人ならば良いと思う。
それは、決して年齢の問題ではない。
そういう体験をすると、その後がまるで抜け殻のような人生になることがある。その孤独は深く、どんな人間もどんな出来事も、なかなかその喪失感を埋めることは出来ない。
そういう孤独を抱えつつ、蚕と共にひたすら前進する姿。

あなたは知っている、私も知っている
Lo sai, lo so.
You know, I know.
Du weißt, ich weiß.



何が言いたいのか…。

そういう人に見えたその知人が、急に一人がきついと言い出したことに驚いたのだ。蚕を持っていないのかもしれない。だとしたら、寂しいだろう。何か出来ないかと思って考えている。その人が私の中に呼び起こしてくれた温かい気持ちをどうしたら、私がその人の中にも呼び起こせるか。人に何かを与えるとは、本当に難しい。それはいつも間接的に作用するからなのかもしれない。

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